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104 メアリールティエンス 著 1990

コスモス・ライブラリー

 

1961年 ザーネンの公開講話(第9回)

Saanen 9th Public Talk 13th August 1961

 これがこの集会の最後の講話です。この講話の間、私たちは非常に多くの主題にわたりました。そして今朝、宗教的な心とは何であるかをよく考えるべきであると思います。私はそのことの中にかなり深く突っ込んで行きたいと思います。そのような心だけが私たちのすべての問題を、政治的、経済的問題のみならず、人間存在のもっとずっと基礎的な問題を解決できると感じるからです。それに突っ込む前に、既に言ったことを繰り返して言わなければならないと思います。すなわち、まじめな心とは物事のまさに根にまで行き、その中に何が真実で、何が虚偽であるかを見出そうと思っている心、途中で止めず、他の何かの考慮によって気を散らされることを自分自身に許さない心であるということです。少なくとも、十分まじめでこれをすることができる人が少しはいることを、この集会が十分に示したと私は思います。

 私たちは現在の世界情勢を非常によく知っていると私は思います。私たちは欺瞞、堕落、社会的経済的不平等、戦争の危険、西洋に対する東洋の絶え間のない脅威等を教えられる必要はありません。この混乱をすべて理解し明確さをもたらすためには、心自体の中に根源的な変化がなければならないのであり、ただの継ぎはぎの修正や単なる調整ではないと私には思われます。このすべての混乱を、それは私達の外部だけでなくて内部もですが、切り抜けるために、すべての高まる緊張と増大する要求に取り組むために、人は精神自体のなかに根源的な革命を必要とします。まったく異なる心を持つことを必要とします。

 私にとって、革命は宗教と同義です。私は「革命」という言葉によって直接の経済的、社会的変化を言っているのではなくて、意識それ自身の中の革命を言っているのです。革命の他の形はすべて、共産主義者、資本主義者、あるいはあなたの好む何かであれ、単に反抗にすぎません。心の中の革命、それは心が歪みなしに、錯覚なしに、何が真実であるか見ることが出来るように、いままであったものを完全に破壊することを意味します-それが宗教の道です。私は本当の、真の宗教的な心は確かに存在する、存在しうると思います。その中に非常に深く突っ込んで行ったのなら、そのような心をひとは自分自身で発見できると私は思います。社会、宗教、信条、信念が心に課したすべての障害、すべてのうそをたたき壊し、破壊し、そして何が真実であるか発見するためにのり越えた心が 真の宗教的な心です。

 そこで最初に経験の問題を調べましょう。私たちの脳は何世紀もの経験の結果です。脳は記憶の貯蔵庫です。その記憶なしには、蓄積された経験なしには、そして知識、私たちはとても人間として働くことが出来ないでしょう。経験、記憶、はあるレベルで明らかに必要です。しかし、知識、記憶の条件付けに基づく経験のすべてが限定されているに決まっているということも、またかなり明らかであると私は思います。それゆえ経験は解放の中の要素ではありません。あなたがいったいこのことを考えたことがあるのかどうか私はわかりません。

 あらゆる経験は過去の経験によって条件づけられています。それゆえ新しい経験はありません。それは過去によって常に彩られています。経験する過程そのものの中に、過去から生じる歪みがあります。知識、記憶、個人に属するものだけではなくてまた人種・共同体に属する種々の蓄積された経験である過去。さて、その経験をすべて否定することが出来るでしょうか?

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 あなたが否定の問題、何かを否定するとはどういうことかを調べたことがあるかどうかわかりません。それは知識の権威を否定する、経験の権威を否定する、記憶の権威を否定する、牧師、教会、心に課されてきたあらゆるものを否定する能力を意味します。私たちの多くにとってはただ二つの否定の手段があります-知識を通してか、反抗を通してかです。あなたは牧師、教会、書かれた言葉、本の権威を、あなたがほかの知識を研究し、調べ、蓄積したためか、それを好きでないためか、どちらかで否定します。それに反抗します。ところが真の否定は、何が起ころうとしているか知ることなしに、何の将来の期待もなしに否定することを意味するのではないでしょうか? 言わば、「私は何が真実か知らない。しかしこれは虚偽だ」が確かに唯一の真の否定です。なぜならその否定は計算された知識からではなく、反抗からではないからです。何と言っても、あなたの否定がどこに通じているか知っているなら、そのときそれは単に交換、市場のものにすぎません。それゆえ、それは真の否定ではまったくありません。

 ひとは少しばかりこれを理解しなければならない、かなり深くそれを調べなければならないと思います。なぜなら、私は否定を通して、何が宗教的な心であるか見出したいからです。ひとは否定を通して、何が真実であるかを見出すことができると私は感じます。主張によって何が真実であるか見出すことは出来ません。見出すことができる前に、既知のものを完全にきれいに掃除しなければなりません。

 そこで私たちは宗教的な心が何であるか、拒否を通して、すなわち、否定を通して、否定的思考を通して調べようとしています。そして明らかに、拒否が知識、反抗に基づいているなら否定的思考はありません。この事がかなり明確であればと思います。私が牧師の、本の、伝統の権威を、それが好きでないので否定するなら、それはただの反抗です。なぜなら私はそのとき私が否定したものの代りに何かほかのものを置き換えるからです。そして私が十分な知識、事実、情報などを持っているので否定するなら、そのとき私の知識は私の隠れ家になります。しかし反抗や知識の結果ではなくて、観察から、ものをありままに、その事実を見ることから生じる否定があります。そしてそれが真の否定です。なぜならそれはすべての憶測、すべての思い違い、権威、欲望を取り除いた心を残すからです。

 それで権威を否定することが出来るでしょうか? 私は警官の権威、国の法律、といったもののことを言っているのではありません。それは愚かで、未熟で、監獄の中で終わるでしょう。しかし私は社会によって、深い下の方で、心に、意識に課せられた権威の言うことを意味しているのです。すべての経験、すべての知識の権威を否定し、その結果、心が何があるのかを知らないで、何が真実でないかを知っているだけの状態にあることを。

 あなたがそこまでそれに突っ込んだなら、それは葛藤し矛盾している欲望の間で引裂かれてはいない、統合の目の覚めるような感覚をあなたに与えますね。何が真実であるか、何が虚偽であるかを見ること、あるいは虚偽の中に真実を見ることが、あなたに真の知覚の感覚、明晰さを与えます。心はそのとき所を得ています-すべての安全、恐怖、野心、虚栄、幻影、目的、あらゆるものを破壊してしまって-完全に単独であり影響されない状態にあります。

 確かに、実在を見出すためには、神を見出すためには、あるいはどんな名前をあなたがそれに与えたいにせよ、心は単独で、影響されずにあるのでなければなりません。なぜならそのとき、そのような心は純粋な心であるからです。そして純粋な心は進むことが出来ます。心がそれ自身の内部につくり出した、安全のような、希望のような、そして希望に対する抵抗、つまり、絶望、その他もろもろのような、あらゆるものの完全な破壊があるとき、そのとき、確かに、その中に死のない無恐怖の状態が生じます。単独である心は完全に生きています。そしてその生きることの中に毎瞬死があります。それゆえ、その心にとっては死がありません。あなたがそのことに突っ込んで行ったなら、それはほんとうに途方もないことです。あなたは死のようなそんなものはないということをあなた自身で発見します。単独である心の純粋な厳粛さの状態がただあるだけです。

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 この単独は孤立ではありません。それは何かの象牙の塔の中への逃避ではありません。それは孤独ではありません。そのすべては忘れられ、追い払われ、破壊されて置き去りにされました。そこでそのような心は破壊が何であるか知っています。そして私たちは破壊を知らなければなりません。さもなければ私は新しい何も見出すことができません。そして私たちは慣れ親しんだあらゆることを破壊することをいかに恐れていることか!

 「考えはうまずめの子供である」と言っているサンスクリット語の格言があります。そして私たちの大抵は考えにふけっていると私は思います。私たちがしてきた話を、考えの交換として、新しい考えを受け入れ古い考えを捨てる過程として、あるいは新しい考えを否定し、古い考えにしがみつく過程としてあなたは取り扱っているかもしれません。私たちは考えを扱っているのではまったくありません。私たちは事実を扱っています。そして事実と関係しているとき、調整はありません。それを受け入れるか否定するか、どちらかです。あなたは「私はそれらの考えのようにではなくやって行く。私は古い考えの方が好きだ。私は私自身でやきもきして生きて行くつもりだ」と言うか、事実に沿って行くか、どちらか一方ができます。あなたは妥協できません。調整できません。破壊は調整ではありません。調整すること、「私はそんなに野心的であってはならない、それほど妬み深くあってはならない」と言うことは破壊ではありません。そしてひとは確かに野心、嫉妬、が醜い、愚かであるという真実を見なければなりません。そしてこれらの馬鹿げたものをすべて破壊しなければなりません。愛は決して調整しません。調整するのは欲望、恐怖、希望だけです。それがなぜ愛が破壊的なものであるかです。なぜならそれはパターンに適合したり順応したりすることを拒否するからです。

 それゆえ、人間が、内的に安全でありたいという欲望の中で、自分自身でつくり出したすべての権威の破壊があるとき、そのとき創造があります。破壊は創造です。

 それでは、もしあなたが考えを捨て去ったなら、そして生存のあなた自身のパターンに、あるいは話し手がつくり出しているとあなたが思う新しいパターンに順応していないなら-そこまで行ったなら-、脳は外部の物事に関してのみ機能することが、外部の要求に対してのみ応答することができ、そしてしなければならないということを見出すでしょう。したがって脳は完全に静かになります。このことはその経験の権威が終わり、したがってそれは幻想をつくりだすことができないということを意味します。そして何が真実であるか見出すためには、どんな形にせよ幻想を創り出す力が終わることが不可欠です。そして幻想を創り出す力は欲望の力、野心の、これであることを望み、あれであることを望まない力なのです。

 それゆえ脳はこの世界で理性を持って、正気で、明晰さを持って機能するに違いありません。しかし内側ではそれは完全に静かであるに違いありません。

 脳が現在の段階にまで発達するには何百万年もかかっており、そして更に発達するには何百万年もかかるだろうと生物学者は語っています。さて、宗教的な心はその発達を時間に依存しません。あなたがこれをわかればなあと思います。私が伝えたいことは、脳が-それは外側の生活に対する応答の中で機能しなければなりません-内的に静かになるとき、そのとき、もはや経験と知識を蓄積する機械装置はなく、したがって内的にそれは完全に静かであるが十分に生き生きとしており、そこでそれは何百万年を飛び越えることができるということです。

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 それゆえ、宗教的な心にとっては時間はありません。時間は一層の継続と達成に向かって動いている継続のその状態の中にのみ存在します。宗教的な心が過去、伝統、心に押し付けられた価値の権威を完全に破壊したとき、そのとき、それは時間なしにあることが出来ます。そのときそれは完全に発達しているのです。なぜなら、何と言っても、あなたが時間を否定したとき、あなたは時間と空間を通してのすべての発達を否定したからです。すみませんが、これは考えではありません。それはもてあそべる事ではありません。それを通り抜けたのなら、それが何であるかわかります。あなたはその状態にあります。しかしそれを通り抜けていないなら、そのとき、これらの考えをただ拾い上げ、それらをもてあそぶ事はできません。

 それで、あなたは破壊は創造であることを見出します。そして創造の中には時間はありません。創造は脳が、すべての過去のものを破壊して、完全に静かであり、したがって、その中に、成長し、表現し、成るための時間や空間がないその状態にあるときのその状態です。そしてその創造の状態は少数の才能ある人たち-画家、音楽家、作家、建築家たちの創造ではありません。創造の状態にあることができるのは宗教的な心のみです。そして宗教的な心はどこかの教会、何かの信念、何かの教条に属する心ではありません-これらは心を条件付けるだけです。毎朝教会に行き、これやあれを拝むことはあなたを宗教的な人にしません。お上品な社会はあなたをそのようなものとして受け入れるかもしれませんが。人を宗教的にすることは既知のものの全体的破壊です。

 この創造の中に美の感覚があります。人間によって組み立てられたのではない美。思考と感情を超えた美。何といっても、思考と感情は単に反応にすぎません。そして美は反応ではありません。宗教的な心はその美を持ちます-それは単なる自然、素晴らしい山々と轟く川、の鑑賞ではなくて、まったく異なる美の感覚です-、そしてそれに愛が伴ないます。美と愛を分離することができるとは私は思いません。ほら、私たちの大抵にとって愛は痛みを伴うものです。なぜなら、それに伴なって常に嫉妬、憎しみ、独占欲が生じるからです。しかし私たちが話しているこの愛は煙のない炎の状態です。

 それで、宗教的な心はこの完全な、全面的破壊と、創造の状態にあるということがどういうことか知っています-創造の状態は伝えられるものではありません。そしてそれと共に美と愛の感覚があります。それは分割できません。愛は神聖な愛と肉体的愛のように分割できるものではありません。それは愛です。そしてそれに、もちろん、言うまでもなく、情熱の感覚が伴います。人は情熱-強さである情熱-なしに遠くには行けません。それは何かを変えたい、何かをしたいことの強さではありません。原因を持っており、そのため、原因を除去するとき強さが消える強さではありません。それは熱中の状態ではありません。美は厳しい情熱があるときのみ あり得ます。そして宗教的な心は、この状態にあるので、強さの特別の性質を持っています。

 ほら、私たちにとっては強さは意志の、意志の綱に綯われた多くの欲望の結果です。そしてその意志は私たちの大抵にとっては抵抗です。何かに抵抗する、あるいは結果を追求する過程は意志を開発し、その意志は一般に強さと言われます。しかし私たちが話している強さは意志とは何の関係もありません。それは原因のない強さです。それは利用することはできません。しかし、それなしでは何ごとも存在することができません。

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 それゆえ、人が自分自身で見出すことの中に非常に深く入ったなら、そのとき宗教的な心が確かに存在します。そしてそれはどの個人にも属しません。それは心です。それは宗教的な心です。人間の努力、要求、個人的衝動、強迫、などなどのすべてを離れて。私たちは心の全体をただ記述してきただけです。それは違う言葉を使用することによって分割されているように見えるかもしれません。しかしそれは全体的なものであり、その中にこのすべてが含まれているのです。したがって、このような宗教的な心は脳によって測ることのできないものを受取ることができます。そのものは名付けることができません。どんな寺院、どんな僧侶、どんな教会、どんな教条もそれを保持することができません。そのすべてを否定し、この状態の中で生きることが真の宗教的な心です。

 質問: 宗教的な心は瞑想を通じて獲得することができるでしょうか?

 クリシュナムルティ: 理解しなければならない最初のことは、あなたがそれを獲得することはできない、それを得ることはできない、それは瞑想を通じてもたらされることはないということです。いかなる徳も、犠牲も、瞑想も-地上のどんなものもこれを買うことはできません。この到達、達成、獲得、買うという感覚は、それがあるためには、すっかり止まなければなりません。瞑想を使用することはできません。私が話してきたことは瞑想です。瞑想は何かへの道ではありません。日常生活のあらゆる瞬間の中で何が真実で何が虚偽かを発見することが瞑想です。瞑想はあなたがそれに逃避する何かでも、その中で幻視やあらゆる種類のスリルを得る何かでもありません-それは自己催眠です。それは未熟で、子供じみています。しかし一日の各瞬間を見守ること、どんなふうにあなたの思考が働いているか見ること、働いている防御の機械装置を見ること、恐怖、野心、貪欲と羨望を見ること-それをすべて見守り、いつもそれを調べること、それが瞑想です。あるいは瞑想の一部です。正しい基礎を敷くことなしに瞑想はありません。そして正しい基礎を敷くことは野心、貪欲、羨望、私たちが自己防御のためにつくり出したすべてのものから自由であることです。瞑想が何であるか教えられるためや、方法を授けられるために誰かのところに行く必要はありません。私自身を見守ることによって、私がいかに野心的かそうでないか、非常に簡単に見出すことができます。他人によって教えられる必要はありません。私はわかります。野心の根、幹、果実を根絶すること、それを見てそれをすっかり破壊することは絶対に必要です。ほら、私たちは第一歩を踏まないではるか遠くに行くことを望みますね。そしてあなたが第一歩を踏めば、それが最後の一歩であり、ほかの一歩はないということを見出すでしょう。

 質問: 何が真実であるか発見するために、理性を使用することはできないということは真実ですか?

 クリシュナムルティ: あなた、理性とはどういうことでしょうか? 理性は組織された思考ではす。論理が組織された観念であるように。そうではないでしょうか? そして思考は、利口であるけれども、広いけれども、よく情報に通じているけれども、限定されています。すべての思考は限定されています。それをあなた自身で観察できます。これは新しい何かではありません。思考は決して自由であることができません。思考は反応、記憶の応答です。それは機械的な過程です。それは合理的であり得ます。正気であり得ます。論理的であり得ます。しかしそれは限定されています。それは電子計算機のようなものです。しかし思考は決して新しいものを発見できません。脳は数世紀を通じて経験、応答、記憶を獲得しました。蓄積しました。そしてそのものが考えるとき、それは条件づけられています。それで新しいものを発見できません。しかしその脳が理性、論理、調べること、考えることの全過程を理解した-それを否定したのではなくて理解した-とき、そのとき、それは静かになります。そのとき、その静かさの状態が何が真実であるか発見することができます。

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 あなた、理性は指導者を持たなければならないとあなたに教えます。あなたは政治的、あるいは宗教的指導者を持ちました。彼らはあなたをより多くの悲惨、より多くの戦争、より多くの破壊と堕落を除いてどこにも導きませんでした。

 質問: 物事を非難することのばからしさを、外側にも内側にも見ます。そこでどうすればいいでしょうか?

 クリシュナムルティ: 私たちが「非難してはならないということを私は見る」と言うとき、その「見る」という言葉はどういう意味でしょうか? どうかこれを少しくゆっくり追ってください。私は「見る」というその言葉を調べています。それはどういうことでしょう? どんなふうに私たちはものを見るのでしょうか? 言葉を通して私たちは事実を見るのでしょうか? 私が「私は非難がばかげているということを見る」と言うとき、私はそれを見ているのでしょうか? それとも私は「私は非難してはならない」という言葉に注目しているのでしょうか? 私は非難はどこへも導かないという真の事実を見ていないのではないでしょうか? 私の言うことが明確かどうかわかりません。「扉」という言葉は扉ではないのではないでしょうか? 言葉はものではありません。そして物事を言葉と混同するなら、そのとき私たちはそれを見ていません。しかし私たちが言葉を捨てることができるなら、そのときものそれ自体を注視することができます。私がカソリック教、ヒンドゥー教、共産主義の意味全体を見る-言葉でなく、ものを見る-なら、そのとき私はそれを理解してしまいます。それを済ましてしまいます。しかし私が言葉にしがみつくなら、そのとき言葉は見ることへの障害です。

 それゆえ、見るためには、心は言葉から自由であって、しかし事実を見なければなりません。私はどんな種類の非難も心が実際に何かを注視することを妨げるとういう事実を見なければなりません。私が野心を単に非難するだけなら、私は野心の全組織、構造が見えません。心が野心を理解したいなら、非難の停止があるに違いありません。事実の知覚が、それに抵抗することなしに、それを否定することなしにあるに違いありません。そのとき事実を見ることはそれ自身の行為を持ちます。私が野心の全構造の事実を見るなら、そのとき、事実それ自体が野心のばからしさ、酷薄さ、限りなく破壊的な性質を心にあらわにします。そして野心は消え去ります。私がそれに関して何かする必要はありません。

 そして、内側に、権威の全意義を私が見るなら、決して否定せず、決して受け入れず、見てそれを研究し、それを見守り、それを調べるなら、そのとき権威はいつの間にか消え去ります。

 1961年 8月13日

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