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6 The Real Revolution  1966

 邦訳 『真の革命』柳川晃緒 訳 大野純一 監訳 → 『真の革命 DVD Book』柳川晃緒 訳 大野純一 監訳

コスモス・ライブラリー

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7 Freedom from the Known  1969

 邦訳 『自己変革の方法』 十菱珠樹 訳  → 『既知からの自由 』大野龍一 訳

コスモス・ライブラリー

008クリシュナムルティの瞑想録.jpg

8 The Only Revolution  1970

平河出版社

 

1949年 オハイの公開講話(第3回)

J. Krishnamurti Ojai 3rd Public Talk 23rd July 1949

 先週の土曜日と日曜日、私たちは自己認識の重要性を話し合っていました。なぜなら私が説明したように、どうして自己認識なしに、正しく思考する何かの基礎を持つことができるのか、私はわからないからです。何かの行為が、いかに包括的であろうが、いかに集団的あるいは個人的であろうが、自己を充分に知ることなしに、どうして調和した本当の行為であることができるでしょうか。自己を知ることなしに、何が真実なのか、何が意義があるのか、何が生の中の正しい価値であるのか、本当に探し出す可能性はありません。自己認識なしに、自己投影した心の幻想を超えることはできません。

 自己認識は、私たちが説明したように、ある個人ともう一人との間の関係の行為だけでなく、社会との関係の行為をも含みます。そして、この認識なしに、完全な調和のある社会はあり得ません。それゆえ、可能な限り、完全に、そして十分に自己を知らなければならないということが本当にとても重要で意義が深いのです。そしてこの認識は可能でしょうか? 人は自己の全体の過程を、部分的でなく統合的に知ることができるでしょうか? なぜなら、すでに申し上げたように、自己を知ることなしには人は考えるための基礎を持たないからです。人は幻想に、政治的、宗教的、社会的幻想に捕われます―それらの幻想は際限がありません、果てしがありません。自己を知ることは可能でしょうか? そして、自己を知ることはどうすれば可能でしょうか―手段は何でしょうか、やり方は何でしょうか、過程は何でしょうか?

 私はこう思うのですが、何がやり方なのか見いだすためには、まず最初に何が障害なのか見出さなければならないのではないでしょうか? そして私たちが生において重要であると考えるもの、私たちが受け入れてきたそれらのものを研究することによって―価値、基準、信念、私たちが保持するおびただしいもの―それらを調べることによって、たぶん私たちは私たち自身の考え方を見いだし、それによって私たち自身を知るでしょう。すなわち、私たちが受け入れている物事を理解することによって、それらを尋ね、調べることによって―その過程そのものによって、私たちは私たち自身の思考、私たち自身の応答、私たち自身の反応の仕方を知るでしょう。そしてそれらを通して、私たち自身をあるがままに知るでしょう。確かに、それが私たちの思考、私たちの応答の仕方を見いだすことのできる唯一のやり方です。すなわち、学ぶことによって。私たちが何世代も受け入れてきた価値、基準、信念を十分に調べることによって。そして、これらの価値の背後を見るとき、私たちがどんなふうに応答するか、それらに対する私たちの反応がどうであるかを私たちは知るでしょう。そしてそれによって、たぶん、私たちは私たち自身の考えるやり方を明らかにすることができるでしょう。言い換えれば、自己を知るということは、確かに、応答、何かに対する関係の中に持つ反応を学ぶことです。人は孤立を通して自己を知ることはできません。それは明白な事実です。あなたは山に、洞窟の中に引っ込むかもしれません。あるいは川の岸で何かの幻想を追求するかもしれません。しかし、自分自身を孤立さすなら関係はあり得ず、孤立は死です。人が自己をありのままに知ることができるのは関係の中でだけです。それゆえ、私たちが受け入れた物事を学ぶことによって、それらを表面的でなく十分に調べることによって、たぶん私たちは私たち自身を理解することができるでしょう。

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 さて、私にはそう思われるのですが、私たちの大抵が熱心に受け入れ、当然と思っていることの一つは信念の問題です。私は信念を攻撃しているのではありません。今晩私たちがしようとしていることは、私たちがなぜ信念を受け入れるかを見いだすことです。そして受容の動機、原因を理解することができるなら、そのとき、たぶん、なぜ私たちがそうするかを理解することだけでなく、それから自由であることもできるかもしれません。なぜなら、政治的および宗教的信念、国家的および様々なほかの型の信念が、人々をいかに分離するか、葛藤、混乱、敵対をいかにつくり出すかを見ることができるからです―それは明白な事実です。そしてなお私たちはそれらをやめたくないのです。ヒンズー教徒の信念、キリスト教徒の信念、仏教徒の―無数の宗派のそして国民的な信念、様々な政治的イデオロギーがあります。すべてお互いを変えようてして、お互いに争っています。信念が人々を分離し、不寛容をつくり出していることを明白に見ることができます。そして信念なしに生きることはできるでしょうか? それを見いだすことができるのは、信念に対する関係の中の自分自身を学ぶことができる場合のみです。信念なしにこの世界の中に生きることができるでしょうか―信念を変えるのでなく、一つの信念を他のものに置き換えるのでなく、すべての信念からまったく自由であり、それゆえ生に毎瞬新たに出会うことが? これが、結局、真実です。自己といまあるものとの間の障壁として働く累積的影響のないように、過去のものの調整する反応なしに、瞬時瞬時、あらゆるものに新たに出会う能力を持つことが。

 明らかに、私たちの大抵は信念を受け入れたり、取り入れたりします。なぜなら、何よりもまず恐怖があるからです。信念なしには迷ってしまうだろうと私たちは感じます。それで、私たちは信念をふるまいの手段として、型として使用し、それに従って生を方向づけるのです。そしてまた、信念を通して集団的な行為があり得るのだと私たちは思います。それゆえ、言い換えれば、信念は行為に必要であると私たちは思うのです。そしてそれはそうでしょうか? 信念は行為に必要でしょうか? すなわち、観念である信念、観念形成は、行為に必要でしょうか? どちらが先に生じますか、観念、それとも行為? 確かに、最初に行為があり、それは快か、不快か、どちらかです。そしてそれによって私たちは様々な理論を樹立します。行為がいつも最初に生じるのではないですか? そして、恐怖があるとき、行動するために信じようとする欲求があるとき、そのとき観念形成が生じます。

 さて、あなたがよく考えるなら、信念を受け入れようとする欲望の原因の一つは恐怖であることが見えるでしょう。なぜなら、もしも私たちが信念を持っていないなら、私たちに何が起こるでしょうか? 私たちは何が起こるかとひどくおびえないでしょうか? もしも信念に基づく行為のパターン―神や、共産主義や、社会主義や、帝国主義や、ある種の宗教的公式、私たちが条件付けられたある教条への信念―を持っていないなら、私たちはまったく途方にくれたように感じるのではないでしょうか? そしてこの信念の受容は、その恐怖―本当に無であることの、空っぽであることの恐怖を覆い隠すことではないでしょうか? 結局、茶碗はからであるときのみ役に立ちます。そして信念で、教条で、主張で、引用でいっぱいの心は、本当に非創造的な心です。それは単に反復的な心に過ぎません。そして、その恐怖―その空虚の恐怖、その孤独の恐怖、その停滞の、到達しない、成功しない、達成しない、何者でもない、何者にもならない恐怖―から逃避することは、確かに、なぜ私たちが信念をそんなに熱心に切望し、受け入れるかの理由のひとつではないでしょうか? そして信念の受容を通して、私たちは私たち自身を理解するでしょうか? とんでもない。宗教的あるいは政治的信念は、明らかに私たち自身を理解することを妨げます。それはスクリーンとして働き、それを通して私たちは私たち自身を見ているのです。そして、信念なしに、私たちは私たち自身を見ることができるでしょうか? それらの信念、持っている多くの信念を除去するなら、見るために残された何かがあるでしょうか? 心が同一化した信念を持っていないなら、そのとき心は、同一化なしに、それ自身をそうであるままに見ることができます―そしてそのとき、確かに、自己を理解することの始まりがあります。怖れているなら、信念によって覆い隠された恐怖があるなら、そしてもし、信念を理解することの中で、信念のスクリーンなしに恐怖と直面するに至るなら―そのとき、その恐怖の反応から自由であることができないでしょうか? すなわち、自分が恐れていることを知ること、そして何の逃避もなしにそこに留まることができないでしょうか? あるがままのものといることは、信念を通じてあるがままのものから逃避するより、確かに、ずっと多くの意義が、ずっと多くの価値があります。

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 それゆえ、人は自己からの、自分自身の空虚からの、自分自身の存在の貧困からの様々な形の逃避があるのを見始めます―知識のような、娯楽のような逃避、様々な形の耽溺と気晴らし、学識のあるものと愚かなもの、利口なのや価値のないもの。私たちはそれらで取り囲まれています。私たちはそれらなのです。そして心が、しがみついている物事の意義を見ることができるなら、そのとき、たぶん、私たちは私たちのありのままに、それが何であろうが直面するでしょう。そして私たちがそれをすることができるやいなや、そのとき真の変容があると私は思います。なぜならそのとき、恐怖の問題がないからです。というのは、恐怖は何かとの関係の中にだけ存在するからです。あなたと、あなたが関係しているほかの何かがあるとき、そして関係しているそのものをあなたが嫌いで、それを避けようとしているとき―そのとき恐怖があります。しかしあなたがまさにそのものであるとき、そのとき避ける問題はありません。事実は恐怖を、あなたがそのことに対して情緒的な反応を持ち込むときのみ、与えるのです。しかし事実がそのままに直面されるとき、恐怖はありません。そして私たちが恐怖と呼ぶものがもはや命名されないで、術語を与えられることなくただ見られているとき、そのとき、確かに革命が起こります。もはや避けたり受容するあの感覚はありません。

 それゆえ、表面的でなく、深く信念を理解するためには、なぜ心が様々な形の信念に愛着するか、なぜ信念が生の中でそんなにも重要になったのかを見出さなければなりません。死についての、生についての、死後何が起こるかについての信念。神があるとか神はないとか、実在があるとか実在はないとか主張する信念。そして様々な政治的信念。これらの信念はすべて私たち自身の内面の貧困の感じを示していないでしょうか、そしてそれらは逃避、あるいは防御としての行為の過程をさらけ出していないでしょうか? そして私たちの信念を学ぶ中で、私たちはありのままに私たち自身を、心の、意識の上層だけでなくより深い下方においても、知り始めないでしょうか? それゆえ、例えば信念のような、ほかの何かとの関係の中で自分自身を学べば学ぶほど、心は、虚偽の厳しい規律なしに、強制なしに、ますます静かになります。心がそれ自身を知れば知るほど、ますますそれは静かです、明らかに。あなたが何かを知れば知るほど、ますますそれに精通します。ますます心は静かになります。そして心は静かにさせられたのではなく、本当に静かであるに違いありません。確かに、静かにさせられた心と静かである心の間には巨大な違いがあります。あなたは心を環境によって、種々の鍛錬、トリック、などなどによって、静かであるように強制することができます。しかしそれは静かな状態ではありません、それは平和ではありません。それは死です。しかし様々な形の恐怖を理解したので、そしてそれ自身を理解したので静かである心―そのような心は創造的です。そのような心はそれ自身を絶えず再生しています。停滞するのはそれ自身の恐怖と信念で自己を囲った心だけです。しかしそれに関する価値との関係を理解する心―価値の基準を課しているのではなく、あるがままのものを理解している心―確かにそのような心は静かになります、静かです。

 それは成る問題ではありません。心が瞬時瞬時、実在であるものを知覚することができるのは、確かに、そのときだけです。実在は、確かに、終わりの何か、蓄積的な行為の終わりの結果ではありません。実在は瞬時瞬時にのみ知覚されるのです。それはその瞬間、いま、過去のものの蓄積的な影響がないときのみ知覚されることができるのです。

 多くの質問があります。そのいくつかに答えましょう。

 質問: なぜあなたは話すのですか?

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 クリシュナムルティ: 私はこの質問は極めて興味深いと思います―私が答えるのが、そしてまたあなたが答えるのが。なぜ私が話すのかだけでなく、なぜあなたが聞くのか? いいえ。まじめに、もしも私が自己表現のために話すのなら、そのとき私はあなたを利用しているでしょう。私が話すことが私にとって、私自身が嬉しくなり、自己中心癖的に、自己攻勢的に、その他なんやかやに感じるために必要であるなら、そのとき、私はあなたを利用するに違いありません。そのとき、あなたと私は何の関係も持ちません。なぜならあなたは私の自己中心癖のための必要物であるからです。私はそのとき、私の話を聞いてくれる非常に多くの人を持って、私自身を元気付け、私自身を豊かで、自由で、褒め称えられていると感じるためにあなたを必要とします。そのとき、私はあなたを利用しています。そのとき、人は他人を利用します。そのとき、確かに、あなたと私の間に関係はありません。なぜならあなたは私にとって役立つからです。私があなたを利用するとき、何の関係を私はあなたと持つでしょうか? 何も。そして、私があなたに伝えたいと思っているさまざまな観念の組み合わせを持っているので話すなら、そのとき観念が非常に重要になります。そして観念がおよそ基本的根本的変化を、生の中に革命をもたらすということを私は信じません。観念は決して新しいものであることができません。観念は決して変容、創造的な高まりを引き起こすことができません。なぜなら観念は単に継続する過去の、修正されたり、変えられたりしますが、なお過去の応答であるに過ぎないからです。私があなたを変えたいので、あるいは私の特定の考え方をあなたが受け入れることを、私の特定の協会に属し、私の特定の弟子になることを望むので話すなら―そのときあなたは個人としては非存在です。なぜなら、そのとき、私は特定の展望にしたがって、あなたを変化させることにかかわっているだけであるからです。そのときあなたは重要ではありません。そのときパターンが重要なのです。それゆえ、私はなぜ話しているのでしょうか? これらのことのどれでもないなら、なぜ私は話しているのでしょうか? 私たちはもうすぐそれに答えるでしょう。では質問はこうです。なぜあなたは聞いているのでしょうか? それは同じように重要ではないでしょうか? おそらくより以上に。あなたが新しい観念、あるいは人生を見る新しいやり方を得るために聞いているなら、そのときあなたは失望するでしょう。なぜなら、私はあなたに新しい観念を与えようとしていないからです。あなたが、私が経験したと思う何かを経験するために聞いているなら、そのときあなたは、私が持っていると思う何かを獲得しようと望んで、単に模倣しているに過ぎません。確かに、生の本当のことは身代わりに経験することはできません。あるいは、あなたは困難、悲しみ、苦痛の中におり、無数の葛藤を持っているので、それらからどうやって脱出するか見出すためにここに来ます。再び私はあなたを手助けできないのではないかと思います。私ができる全てはあなた自身の困難に注目させることです。そして私たちは次にお互いにそれをじっくりと話し合うことができます。しかし見るのはあなた、あなた自身です。したがって、なぜあなたはここへ来て聞くのかを、あなた自身で見出すことが非常に重要です。なぜなら、あなたが一つの目的、一つの意向を持っていて、私は別のものを持っているなら、私たちは決して出会わないだろうからです。そのとき、あなたと私の間には何の関係もありません。あなたと私の間には何の交感もありません。あなたは北に行きたいのです。そして私は南に行こうとしています。私たちはお互いにすれ違うでしょう。しかし、確かに、それはこの集会の意図ではありません。私たちがしようとしている事は一緒に旅をし、行くにつれていっしょに経験することです―私があなたを教えているとか、あなたが私の言うことを聞いているとかということではなくて、一緒に私たちは探索しているのです、それができるなら。それゆえ、発見することと理解することの中で、あなたは師であるだけでなく弟子でもあるのです。そのとき、高位の者と低位の者、学んだ者と無知である者、達成した者といまなお達成途上の者の区別はありません。そのような区別は確かに関係をゆがめます。そして、関係を理解することなしに、実在の理解はあり得ません。

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 私は私がなぜ話すかをあなたに話しました。多分あなたはそのとき、発見するために私があなたを必要とするのだと思うでしょう。確かにそうではありません。私は話すものを持っています。あなたはそれを取ることも、そのままにしておくこともできます。そして、それを取るなら、それはあなたがそれを私から取っているということではありません。私は単にあなたがあなた自身を見る鏡の役を勤めるに過ぎません。あなたはその鏡を好まず、それでそれを捨てるかもしれません。しかし、あなたが鏡を覗き込むときは、それを非常に明瞭に、非情緒的に、感傷性の曇りなしに見てください。そして確かに、なぜあなたは来て聞くかのを見出すことが重要ではないでしょうか? それが単に午後の娯楽であるに過ぎないなら、映画に行く代わりにここに来ているなら、そのときそれはまったく無価値です。それが単に議論のため、あるいは観念の新しい組み合わせを捕まえて、あなたが講演したり、本を書いたり、討論するとき利用できるようにするために過ぎないなら―再びそれは無価値です。しかしあなたが関係の中のあなた自身を発見するために本当に来るなら、それはあなたの他人との関係を助けるかもしれません、そのときそれは意義を持ちます。そのときそれは価値があります。そのときそれはあなたが参加する非常に多くのほかの集会と同様ではないでしょう。確かに、この集会は、あなたが私の言うことを聞くためではなくて、私が記述しようとしている鏡の中に映ったあなた自身を見るために意図されています。あなたはあなたに見えることを受容する必要はありません―それは愚かであるでしょう。しかしあなたが鏡を感情に左右されないで、音楽を聞くかのように、木の下に座って夕方の影を見つめるかのように、非難なしに、どんな種類の正当化もなしに見るなら―単にそれを見るだけなら―、あるがままのものへのその気づきそのものが、抵抗がないなら、最も途方もないことをきっとするのです。確かに、それが私たちがこれらすべての講話の中でしようとしていることです。それゆえ、実際の自由が生じます。しかし努力を通してではなく。努力は決して自由をもたらしません。努力は置換、抑圧、昇華をもたらすことができるだけです。しかしそれらのことの何一つ自由ではありません。自由はもはや何かであろうという努力がないときのみ生じます。そのとき、あるがままのものの真理が働きます。そしてそれが自由です。

 質問: あなたの話を聞く意図と、ある教師から別の教師へ行く意図との間に違いがあるでしょうか?

 クリシュナムルティ: 確かに、見出すのはあなたではないでしょうか? なぜあなたはある教師から別の教師に、ある組織から別の組織に、ある信念から別の信念に行くのでしょうか? あるいは、なぜあなたはひとつの信念―キリスト教やそういったもの―の中に閉じ込められるのでしょうか? なぜ? なぜ私たちはこうするのでしょうか? これはアメリカだけでなく、まさに世界中で起こっています―この恐ろしい不安、この見出そうという欲望。なぜ? 探索することによって見出すだろうとあなたは思うのでしょうか? しかし、探索する前に、あなたは探索のための道具を持たなければならないのではないでしょうか? あなたは探索することができなければなりません―単に探索に出かけるのではなく。探索するためには、探索する能力を持つためには、あなたは確かにあなた自身を理解しなければなりません。まずあなた自身を知ることなしに、あなたが探索している物が何であるか、そして探索している者は何であるか知ることなしに、どうして探索することができるでしょうか? インド人がこの地に来て彼らのガラクタを与えます― ヨーギ、スワミ、ご存知ですね。そしてあなたはその地に行って伝道し、改宗させます。なぜ? 先生も生徒もないとき、幸福な世界であるでしょう。

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 私たちが捜しているものは実際に何でしょうか? 私たちは生にうんざりしている、一組の儀式に、一組の教条に、教会の礼拝にうんざりしている、それで別のものへ、それが新しいもっと刺激的なものであるので、行くということでしょうか?―サンスクリットの言葉、ひげを生やした男、トーガ(ゆったりした上着)、などなど。それが理由でしょうか? あるいは私たちは、仏教の中に、ヒンズー教の中に、あるいは何かほかの組織された宗教的信念の中に、隠れ家、逃避を見出そうと望んでいるのでしょうか? あるいは、私たちは満足を求めているのでしょうか? 私たちが実際に捜しているものを識別し、気づくことは非常に難しいのです。なぜなら、次から次へと私たちは変わるからです。うんざりするとき、疲れるとき、惨めなとき、私たちは究極の、永続する、最終の、絶対のものを望みます。探索の中で―探究の中で、首尾一貫している人は、むしろ、非常にわずかな人だけです。私たちの大抵は気晴らしを望みます。知的であるなら知的な気晴らしを望むなどなど。

 そこで真に、ほんとうに、自分自身で、自分が望んでいるものが何であるか見出すことができるでしょうか? 持つべきものではなく、あるいは持つべきであると思うものではなく。そうではなく、自分自身で、内部で、望んでいるものは何であるか、そんなに絶え間なく捜し求めているものは何であるか見出すことが。そして、捜しているとき、見つけることができるでしょうか? 確かに私たちは捜しているものを見つけるでしょう。しかし、望んでいるものを得るとき、それはすぐあせていきます。それは灰に変わります。それゆえ、望むものを探索に、収集に出かける前に、探索者は誰であるか、そして彼が何を探求しているのかを見出すことが重要ではないでしょうか? なぜなら、探求者が彼自身を理解していないなら、そのとき彼が見出すものは、単に自己投影された幻想に過ぎないでしょうから。そして、人生の残りの間、その幻想の中に幸福に生きるかもしれませんが、それはなお幻想であるでしょう。

 それゆえ、捜す前に、教師から教師に、組織から組織に、信念から信念に向かう前に、確かに、捜している人は誰なのか、そして彼は何を捜しているのか見出すことが重要です―ぴったりの衣装を見つけようとして、店から店へただ漠然と行くのでなく。それゆえ、確かに第一に重要なことは、出かけて探索することではなく、あなた自身を知ることです―それは内向的になってすべての行為を避けるべきだということではありません。それは不可能です。あなたはあなた自身を、孤立の中ではなく、関係の中でのみ知ることができます。それゆえ、ここへ来て聞くことと、別の教師のところへ行くことの中の意図の間の相違は何でしょうか? 確かに、単に何かを得るためにここへ来るに過ぎないなら何の相違もありません―なだめられるために、慰められるために、新しい観念を与えられるために、何かの組織に参加したり、離れたりするよう勧誘されるために、ほかは神様がご存知です。確かにここには隠れ家も組織もありません。ここで、あなたと私は正確にあるがままのものを見ようとしているのです、もしできるならば、―そうであるままの私たち自身を見ることが―、それはきわめて困難です。なぜなら私たちはそんなにも狡猾だからです。私たちが私たち自身に仕掛ける無数のトリックを知っていますね。ここでは私たちは私たち自身をむき出しにして、私たち自身を見ようとしているのです。というのは、その裸にすることの中で、英知が生じるからです。そして幸福を与えるのはその英知です。しかし、あなたの意図が慰安を、あなたをあなた自身から隠す何かを、逃避を提供する何かを見つけることであるなら、そのとき、明らかに、それをする多くのやり方があります―宗教、政治、娯楽、知識を通じて―ほら、その全領域。そしてその終わりに報酬が約束されるので非常に熱心に自分を順応させる何かの形の耽溺、何かの形の気晴らし、何かの逃避が、楽しかろうが不快であろうが、そんなにも絶対に必要であり、それのみが創造的な平和を与えることができる自己認識をどうしてもたらすことができるのか、私はわかりません。

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 質問: 私たちの心は既知のものだけを知っています。未知のもの、実在、神を見出すように駆り立てる、私たちの中のものは何でしょうか?

 クリシュナムルティ: あなたの心は未知のものに向かってせきたてるのですか? 私たちの中に未知のものへの、実在への、神への衝動がありますか? どうかそれを真剣に考えください。これは言葉の上での質問ではありません、実際に見出しましょう。私たち一人一人の中に未知のものを見出そうという内的な衝動があるでしょうか? ありますか? どうして未知のものを見出すことができますか? それを知らないなら、どうしてそれを見出せますか? どうか、私は利口ぶっているのではありません。それをそんな風に払いのけないでください。そこで、それは実在への衝動ですか? それともそれは単に拡大された既知のものへの欲望に過ぎないのでしょうか? 私の言っていることがわかりますか? 私は多くの物事を知りました。それらは私に幸福、満足、喜びを与えませんでした。それゆえ、今や、私はより大きな喜び、より大きな幸福、より大きな希望、より大きな活力―あなたの好む何でも―を私に与えそうなほかの何かを望みます。そして、既知のものは、それは私の心ですが―なぜなら、私の心は既知のもの、既知のものの結果、過去のものの結果であるからです―、その心は未知のものを捜すことができるでしょうか? 私が実在、未知のものを知らないなら、どうやってそれを探索することができるでしょうか? 確かに、それは生じなければなりません。私はそれを追いかけることはできません。それを追いかけるなら、私は既知のものである、私から投影された何かを追いかけているのです。

 それゆえ、私たちの問題は、私たちの中の、私たちを未知のものを見つけるように駆り立てるものは何かではありません―それは十分明確です。それはもっと安全であろう、もっと永続しよう、より確立しよう、より幸福であろう、苦しみから、苦痛から、混乱から逃れようという私たち自身の欲望です。確かに、それが私たちの明白な動因です。そして、その動因、その衝動があるとき、あなたはすばらしい逃避、すばらしい隠れ家を見つけるでしょう―仏陀の中に、キリストの中に、あるいは政治的スローガンやその他何やかやの中に。しかし、確かに、それは実在ではありません。それは知り得ないもの、未知のものではありません。したがって、未知のものへの衝動は終わらなければなりません、未知のものへの探索は停止しなければなりません。それは累積する既知のものの理解がなければならないということです。累積する既知のものは心です。心はそれ自身を既知のものとして理解しなければなりません。なぜなら、それが心の知っているすべてであるからです。あなたはあなたが知らないものを考えることはできません。知っているものを考えることができるだけです。

 私たちの困難は心が既知のものの中に進まないことです。そしてそれが起こり得るのは心がそれ自身と、いかにすべてのその運動が過去のものから出ていて、現在を通して未来にそれ自身を投影するかを理解するときだけです。それは既知のもののひとつの連続的な運動です。そして、その運動は終わることができるでしょうか? それが終わり得るのはそれ自身の過程のメカニズムが理解されるときだけ、心がそれ自身とその作用、そのやり方、その目的、その追求、その要求を―表面的な要求のみならず、深い内部の衝動と動機も理解するときだけです。これはきわめて骨の折れる仕事です。あなたが見出すのは、会合の中や講義のときや本を読む際にではまったくありません。それどころか、それは思考の一つ一つの運動に対する絶え間ない注意深さ、絶え間ない気づきを必要とします―目覚めているときのみでなく眠っているときも。それは散発的な、部分的な過程ではなく、全体的な過程でなければなりません。

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 そしてまた、意図が正しくなければなりません。すなわち、内的に私たちはみな未知のものを望んでいるという盲信の停止がなければなりません。私たちはみな神を捜し求めていると思うのは幻想です―私たちはそうではありません。私たちは光を捜す必要はありません。暗黒がないとき光があるでしょう。そして暗黒を通して、光を見つけることはできません。私たちができるすべては暗黒をつくり出しているそれらの障害を除去することです。そして除去は意向に依存します。あなたが光を見るためにそれらを除いているなら、そのときあなた何も除いていません、あなたはただ光という言葉を暗黒の代わりに使っているだけです。暗黒の向こうを見ることでさえ、暗黒からの逃避です。

 それゆえ、私たちは、私たちを駆り立てるものは何であるかではなくて、なぜ私たちの中のそのような混乱、そのような騒動、そのような争いと敵対―私たちの生存の愚かな物事のすべて、があるのかをよく考えなければなりません。これらがないとき、そのとき光があります。私たちはそれを捜す必要はありません。愚かさが去るとき、聡明さがあります。しかし愚かで、そして聡明になろうとしている人はなお愚かです。確かに、愚かさは決して知恵に変えられることはありません。愚かさが止んだときのみ、知恵、聡明さがあるのです。しかし愚かであって聡明に、賢くなろうとしている人は、明らかに決してそうであることはできません。何が愚かさであるかを知るためには、表面的にでなく、十分に、完全に、深く、切に、それを調べなければなりません。愚かさのさまざまな層のすべてを調べなければなりません。そしてその愚かさの停止があるとき、知恵があります。

 それゆえ、見出すことが重要です。私たちを未知のものに向かってせかす、より以上の何か、既知のものより偉大な何かがあるかどうかではありません。そうではなくて、混乱、戦争、階級的差別、俗物根性、名声の追求、知識の蓄積、音楽を通しての、芸術を通しての、非常に多くのやり方を通しての逃避をつくり出している、私たちの中のものは何であるかを見ることが重要です。確かに、それらをありのままに見て、そしてありのままの私たち自身に戻ることが重要です。そしてそこから私たちは進むことができます。そのとき既知のものを投げ捨てることは比較的容易です。心が静かなとき、心がもはや何かを望んでそれ自身を未来に、明日に、投影していないとき。心が本当に静かで深く平和なとき、未知のものが生じます。それを探索する必要はありません。それを招くことはできません。招くことができるものはあなたが知っているものだけです。あなたは知らない客を招くことはできません。知っている人を招くことができるだけです。しかしあなたは未知のもの、神、実在、あるいはあなたの呼びたいもの、を知りません。それは生じなければなりません。それは田畑が正常なとき、土壌が耕されているときのみ生じます。しかし、それが生じるために耕すなら、そのときあなたはそれを持たないでしょう。

 それゆえ、私たちの問題は知ることができないものを捜すことではなく、心の、それは何時も既知のものと一緒です、蓄積的な過程を理解することです。そしてそれは骨の折れる仕事です。それは注意を必要とします。それはその中に注意散漫、同一視、非難の感覚のない、絶え間ない気づきを必要とします。それはあるがままのものと共にあることです。そのときのみ心は静かであることができます。どんな量の瞑想、修錬も、その言葉の真の意味で、心を静かにすることはできません。微風がとまったときのみ湖は静かになります。湖を静かにすることはできません。それゆえ私たちの仕事は知る事ができないものを追求することではなくて、私たち自身の中の混乱、騒動、悲惨を理解することです。そしてそのとき、そのものはひそかに生じます。その中に喜びがあります。

 1949年 7月 23日

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