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202 H・P・ブラバツキー 著   1889

UTRYU PUBLISHING

認識の終わり

J. Krishnamurti: Exploration into Insight - 'The Ending of Recognition'
洞察の中への探究 -「認識の終わり」

 P: 意識の問題と意識の脳細胞に対する関係を討論しましょうか? それらは同じ性質なのでしょうか、それとも別々の独自性を与える何かがあるのでしょうか?

 K: それはいい質問です。あなた、始めてください。

 P: 「意識」という言葉の伝統的概念は、地平の彼方にあるものを含んでいるようです。

 A: そのとおり。脳は単なる細胞の集塊、細胞の森であり、実のところ各脳細胞がそれ自身で活動できるのですが、しかもなお各細胞がほかのものに頼っているのです。そこで私たちは尋ねていいかもしれません。 どうやって人は全ての意識の、全ての細胞の総和を知るのでしょうか? 調整している要素があるのでしょうか? 脳は単に結果にすぎないのでしょうか? さらに質問があります。何が最初で何が二番目でしょうか? つまり意識が最初に生じそれから脳なのでしょうか、それとも脳が最初に生じそれから意識なのでしょうか?

 K: お尋ねしてよければ、あなたは「意識」という言葉で何を意味しているのでしょうか? はじめから出発しましょう。意識とは何でしょうか? 「意識している」とは何を意味するのでしょうか? その言葉の意味について、私たち両方が同じ理解を持っていることを明確にしたいのです。例えば、ある人がマイクロホンを意識します。私はそれを意識し、それで「マイクロホン」という言葉を使います。それゆえ、あなたが何かを意識しているとき、命名が始まります。次に好きと嫌い。それゆえ、「意識」は、気づいていること、意識していること、感覚、認知、接触を認知していることを意味します。

 A: 私は意識は感覚より前にあると感じます。それは場であり、どんな時でも私は感覚によって意識のある部分に気づきます。私は意識はもっとずっと巨大であると感じます。自分が非常に広いものの一部分にのみ気づいているこを私は見ます。その全体の場は私の気づきの中にはありません。
 それゆえ、私は意識を、ある与えられた時に存在するものに制限したくありません。私の気づきは広くないかもしれませんが、意識はもっとずっと広大であると見ることができます。

 K: その意識と脳細胞の間の関係は何でしょうか? ププルは「意識」という言葉を使い、脳と意識の間の関係は何か尋ねました。私は尋ねようとしています。その関係は何でしょうか?

 P: Kが意識の内容が意識であると言うとき、それは脳細胞の内容が意識であるということを意味するのでしょう。 脳細胞の外側であるところの場があり、それもまた意識であるなら、そのとき、その全てが意識であるとあなたは言わなければなりません。しかしそのとき、あなたは意識の内容が意識であると言うことは出来ません。

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 K: そのことは明白でしょうか? 私は意識の内容が意識であると言って来ました。

 A: 「意識の内容が意識である」は知覚するひとにかかわらない、関係のない声明です。それは意識についての声明であって、あなたの意識、あるいは私の意識についてではありません。

 K: それは正しいです。したがって、意識の場の外側にあるものは意識の内容ではありません。

 P: あなたが意識の外側の何かを仮定するとき、あなたは存在するかもしれないし、しないかもしれない状態を仮定しているのです。

 A: 既知のものは私たちの意識、内容である意識の一部でしょうか? 

 P: Kの立場とヴェーダンタの立場の間の主な相違は、Kは「意識」という言葉を非常に特別な意味で使用しているということです。ヴェーダンタの立場はこうです。意識は何かが存在する以前に存在するところのものである。

 A: 基本的に、存在の源は、「チャイタニヤ」と呼ばれる、広大な理解不可能なエネルギーです。「チャイタニヤ」はエネルギー、源です。彼らはエネルギーのこの源があると言います。それを彼らは「チット(知)」として語ります。仏教徒の立場はこれについてまったく何も言いません。それについて一言も話すのを拒みます。したがって、仏教徒の立場はそれからは問いに答えられないものです。仏教徒は言うでしょう。「それについては語らないこと。それについてのどんな話しも思索的であるであろうし、思索的な過程は現実の実践を意味しない。」

 K: 「無知は始まりを持たないが、終わりを持っている。無知の始まりを問わないで、それをいかにして終わらせるかを見出そう。」

 A: 私たちはただちに何かに出会っています。

 K: そのとおり、あなた、それはよいことです。

 A: 仏教徒たちは次のように言います。「一般的に意識というようなそんなものはない。無知は始まりがない。無知は終わることが出来る。無知の始まりを調べないようにしよう。なぜならそれは思索的になるだろうし、時間の浪費になるだろうから。しかしどうやって無知を終わらせることが出来るだろうか? この無知が意識である」無知という意識が私たちが調べなければならない立場です。
 ヴェーダンタの人はあなたに、無知として言及している源はサット(有)、チット(知)、アナンド(至福)という性質からなるのものだと言うでしょう。それは絶えずそれ自身を新しくしています。それは絶えず生じています。そして誕生、死、衰退の全体の過程はそれの中の運動です。仏教徒の立場を受け入れない人は、始まりは無知であるということ、そしてそれは自立した過程であるということを直ちには受け入れないだろうと思います。始まりの跡をたどることは出来ませんが、終わりをもたらすことはできます。二つの立場を述べました。それらは衝突する立場です。

 K: 私たちは単純に、無知は始まりを持たないと言います。人はそれをその人自身の中に見ることが、それを意識の内部に、その場の中に見ることができます。

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 P: 無知がこの場の内部に在るなら、それでは、それはそれについての記憶が入っている脳細胞とは別に存在しているのでしょうか? 科学的立場はこうです。 脳細胞とその作用は測定可能であるのに、意識は測定可能ではないので両者は同意語ではない。

 K: ちょっと待ってください。あなたが言っていることは、脳細胞とその運動は測定出来るが、意識は測れないということです。

 A: 少し示唆していいでしょうか? 最大の望遠鏡を通して見る時、その機械が示す限り宇宙の広がりが見えます。より大きい機械を得るなら、より大きい眺望が得られます。私たちは それを測定するけれども、その測定は相対的な要素である機械にだけ関係しているのです。意識はそれに関わることが出来る機械がないという意味で測定不可能です。意識はそれについて、測れるとか測れないとか言えないものです。したがって、意識はそれについて何も言明ができないものなのです。

 K: それは正しいです。意識は測れません。ププルが尋ねているのはこういうことです。私たちが知っているような意識の外側に、この意識に関係がない状態があるでしょうか?

 P: 脳細胞の内側に、分割できない、知ることのできない、利用できない状態があるでしょうか?

 K: あなたはそれをアシュユットジから得たのですか? 知ることができない、認識できないという意味で。まったく新しいもの。

 A: それを話そうとしています。私たちが知っているような意識は、最近の記憶の全てと人間が持っている記憶の全ての源であると私は言います。脳細胞は人種の記憶から出るあらゆるものを認識するでしょう。過去の分野の内に生じる、知られたものから生じるあらゆるもの。

 P: 百万年の既知のもの。

 A: 人間のもっとも初期の記憶でさえ、脳は思い出しうるかもしれません。

 K:待ってください。非常に単純に保ちましょう。私たちは既知のものが意識であると言いました-意識の内容は既知のものです。さて、これの外側に何かが、知られていない、まったく新しくて脳細胞の中にすでに存在してはいない何かがあるでしょうか? それが既知のものの外側にあるなら、それは認識可能でしょうか? - というのは、それが認識可能なら、それはなお既知のものの分野にあるからです。それは認識し、経験する過程が終わる時にのみ利用出来ます。私はこの事に固執したいのです。ププルは尋ねました。それは既知のものの内側にあるのでしょうか、それとも既知のものの外側にあるのでしょうか? そして既知のものの外にあるなら、それはすでに脳細胞の中にあるでしょうか? それが脳細胞の中にあるなら、脳細胞は新しい何かを収容できないので、それはすでに既知のものです。それが脳細胞の中にあるやいなや、それは伝統です。
 私は深く調べるのが好きです。脳の外側に、ほかの何かがあるのでしょうか? それがすべてです。私はあると言います。しかし、認識、経験のあらゆる過程は、常に既知のものの範囲内にあり、そして、他方のものを調査しようとして既知のものから離れる脳細胞のどんな運動もなお既知のものです。

 M: どうやって何かがあるのを知るのでしょうか?

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 K: あなたはそれを知ることは出来ません。心が何も認識しない状態があります。その中では認識と経験が、それらは既知のものの運動ですが、すっかり終わる状態があります。

 A: どんなやり方でそれは認識し、経験する過程の状態から区別されるのですか?

 P: それは違う性質に属するものなのですか?

 K: ほら、有機体、脳細胞は終わります。全部のものがしぼみます。まったく異なる状態があります。

 P: それをあなたに違うふうに述べさせてください。認識の全ての過程が終わり、けれどもそれは生きている状態であるとあなたが言うとき、存在の感覚、あるという感覚はあるのでしょうか?

 K:「存在」また「ある」という言葉は当てはまりません。

 A: それは深い眠りとどんなふうに違うのでしょうか?

 K: あなたが深い眠りで何を意味しているのか分かりません。

 A: 深い眠りの中では、認識と記録の過程は、当面、全面的停止に置かれています。

 K: それはまったく違うものです。

 P: あなたが前に言われた状態の中で感覚に何が起こるのでしょうか?

 K: 感覚は停止しています。

 P: それらは機能していない?

 K: その状態の中で、私は自分を掻くかもしれません - わかりますか - 蝿がきて止まります。それは感覚の行為です。しかし、それはその状態に影響しません。

 M: 掻くことが行われているということがいまわかっています。

 K: それは自然なことです。あなたはそれと、とてもとてもゆっくり進まなければなりません。既知のもののどんな運動も、実現可能であれ、不可能であれ、どんな運動も既知のものの範囲内にあります。あなたと私が同じものを理解していることを、私は極めて明確にしたいのです。すなわち、その経験や要求、新しい何かに対するその熱望を伴う意識の内容が、既知のものからの自由に対する熱望を含めてですが、完全に終わっているとき、そのときのみ、他方の性質が生まれるのです。前者は動機を持っています。後者は何の動機も持っていません。心は動機を通してはそれに到達できません。動機は既知のものです。それで、心は終わることができるでしょうか?、それは「それを調べるのはよくない。私はどうやってそれを終わらせるか知っている。無知は内容の一部であり、無知は一層経験しようというこの要求の一部である」と言います。その心が終わるとき-動機のある、方向のある意識的努力によってもたらされたのではない終り-そのとき、他方のものがそこにあります。

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 M: 物はそこにあります。私たちが今いる状況において、あなたはそれがわかっていますか?

 K: もちろん、私はあなたのシャツを見ます、色をはっきりと見ます。感覚は作動しています。認識は正常に作動しています。他方のものはそこにあります。それは二重性ではありません。

 M: 知識はその一部ですか?

 K: いいえ、私は非常にゆっくりと進まなければなりません。私はあなたが何を言おうとしているかわかります。私はこれに非常に単純に達したいのです。私は色を見ます。感覚は作動しています...

 A: あなたが言っていることを解釈しようとすることでさえ、それを知ることを妨げています。なぜならそれは二重性に直ちになるでしょうから。あなたが何か言うとき、心の中のどんな運動も、再び、人をそれから妨げます。

 K: アシュユットジ、あなたは何を言おうとしているのですか?

 A: 私は伝達の中に起こる困難を指摘しているのです。私は他方のものについての伝達はできないと思います。私は私に話している人の心の意識の状態を理解しようとしています。どんな基礎に基づいて、或るものが在るということを、彼は私に話すのでしょうか?

 K: そのための基礎はこうです。 認識の、経験の、動機の運動がないとき、既知のものからの自由が起こります。

 M: それは認識のない純粋な認知です。

 K: あなたはそれを違ったふうに解釈しています。この運動は当面終わっています。それがすべてです。

 M: それの認識の運動。どこで時間の要素は入って来まるのでしょうか? 別の時間があるのでしょうか?

 K: もう一度始めましょう。脳は既知のものの分野の内側で機能します。その機能の中に、認識があります。しかし、脳が、あなたの心が完全に静かであるとき、あなたは自分の静かな心を見ません。あなたの心が静かであるということを知ることはありません。それを知るなら、静かではありません。というのは、そのとき、「私は知っている」と言う観察者があるからです。私たちが話している静かさは非-認識可能、非-経験可能です。それから、この事を言葉による伝達によってあなたに話したい実体が登場します。彼、実体が伝達に入るやいなや、静かな心はありません。ただそれを見てください。何かがそれから生じます。それは人にとってそこにあります。私はそれがいつもそこにあるとは言っていません。それは既知のものを理解している人にとってそこに在ります。それはそこに在り 決して去りません。そして彼はそれを伝達するけれども、それは決して去らないのを感じます。それはそこに在ります。

 M: なぜあなたは「伝達する」という言葉を使うのでしょう?

 K: それは伝達です。

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 M: 誰が伝達するのですか? あなたはまさに今、私に話しています。

 K: まさに今? 脳細胞は言葉の知識を習得しています。伝達しているのは脳細胞です。

 M: 脳はそれ自身観察者を含んでいます。

 K: 脳それ自身が観察者で操作者です。

 M: では、あれとこれの間の関係は何でしょうか?

 K: ためらいがちに、私は何の関係もないと言います。このことは事実です。脳細胞は既知のものを保持しており、そして脳が完全に安定であり、完全に静かであるとき、言葉での声明も伝達もありません - 脳は完全に静かです。そのとき、脳とそれの間の関係は何でしょうか?

 M: どんな魔術によって、どんな手段によって、静かな心の状態は橋を架けるのですか? どうやってあなたは脳とそれの間に永久的な橋を架ける事をなし遂げ、その橋を保持するのですか?

 K: 「私は知らない」と人が言うなら、何と答えますか? 

 M: あなたはそれを或るカルマを通して受け継いだのか、あるいは誰かがあなたに与えたのです。

 K: もう一度始めましょう。その出来事が私たちに起きることができるのは偶然なのでしょうか、それは例外なのでしょうか? それが私たちがいま論じていることです。
 それが奇跡なら、それはあなたに起こることができるでしょうか? それは奇跡ではありません。それは上から与えられる何かではないので、次のように尋ねることが出来ます。 どうやってこの事はこの人に起き、他の人に起きないのでしょうか - いいでしょうか?

 M: 私たちは何をすることが出来るでしょうか?

 K: 私はあなたは何もできないと言います - それは何もしないことを意味しません!

 M: これら二つの何もという意味は何ですか?

 K: 何もという二つの意味をお話しましょう。一つは「それ」を経験しよう、「それ」を認識しようという欲望に、けれども「それ」については何もすることはないことに言及しています。もう一つは別の意味で何もしないことです。それは理論的にではなく実際に、既知のものを見ていること、あるいは気づいていることです。

 M: あなたは「何もしないこと、ただ観察なさい」と言います。

 K: お望みならそれをそのように述べてください。

 M: それは開悟を行為に降ろします。

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 K: あなたはこのものに、とてもとても軽く触れなければなりません。あなたはこのものに非常に軽く触れなければなりません - 食物、話し - そして身体と感覚が非常に軽くなるので、昼と夜は容易に移ります。あなたは刻々、死があるのを見ます。私は質問に答えたでしょうか、あるいはとても近く答えたでしょうか?

 P: あなたは明確には答えていません。

 K: 全部のものを違ったふうに述べるために、私たちは「それ」を、さしあたり、無限のエネルギーと呼びましょう。そしてもう一方のもの、衝突と葛藤によって造られたエネルギー - それは「それ」とはまったく異なっています。葛藤がまったくないとき、無限のエネルギーは常にそれ自身を再生しています。次第に消滅するエネルギーは私たちが知っているものです。次第に消滅するエネルギーの「それ」に対する関係は何でしょうか? 何もありません。

 Bombay 17th January,1977

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