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126 クリシュナムルティがいたとき

  上・下   IN THE PRESENCE OF KRISHNAMURTI :THE MEMOIRS OF MARY ZIMBALIST  2016

 メアリー・ジンバリスト 著  

  スコット・フォーブス 編 2019

UNIO 

132徹底比較ブッダとクリシュナムルティ.jpg

127 正田大観 著 2018

コスモス・ライブラリー

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128 稲瀬吉雄 著 2019

​ コスモス・ライブラリー

1970年 ザーネンの公開対話(第8回)

Saanen 8th Public Dialogue 9th August 1970
J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)

 

Part2 Dialogue 7

 要約。心は適切に機能するためには秩序を必要とするが、思考は安全を秩序と間違える。落着かない猿は安全を見出し得ない。

 心の安定と安全の間の違い。安全の追求は断片化を引き起こすだけである。安全の追求のない心。

 「安全というようなものはない」。自分自身を理解することは思考の運動を理解することである。

 高度に注意深い心はエネルギーの断片化がない。非言語的コミュニケーション。

 巨大で時間のない状態にふと出会うこと、その中では「死と生の概念はまったく異なる意味を持つ」。



 

 クリシュナムルティ: ここに集まったこの五週間の間に、私たちは、私たちの生に触れる多くの問題、私たちが私たち自身で引き起こす問題と私たちに対してそれらを引き起こす社会を、一緒に討論し、話し合ってきました。私たちはまた私たちと社会は二つの異なる実体ではないということを見ました―それらは相互に関係のある運動です。社会の変化―そのパターン、その価値、その道徳性―に真面目に関わり、積極的に首を突っ込んでいる誰かが、彼自身の条件付けに気づいていないなら、そのとき、この条件付けは活動の中で断片化を促進し、したがっていっそうの葛藤、いっそうの惨めさ、いっそうの混乱があるでしょう。私たちはそのことをかなり徹底的に調べました。

 私たちはまた恐怖とは何であるか、そしていったい、心がこの重荷から、表面でも深いところでも、完全にすっかり自由であることが出来るかどうかを話していました。そして私たちは快楽の性質を討論しました。それは喜び、歓喜とはまったく完全に異なります。私たちはまた多くの断片化の問題を調べました。それは私たちの構造、私たちの存在を構成しています。私たちは討論の中で、これらの断片化がすべての人間の関係を分割し、分離し続けるということ、一つの断片が権威につき、ほかの断片の分析者、検閲者になるということを見ました。

 昨日、意識の性質を一緒に話し合う中で、私たちは注意とは何なのかという問題を調べました。この注意の性質は、すべてのエネルギーが高度に集中した状態である、そしてその注意の中に観察者はない、気づいている「私」としての中心がないと私たちは言いました。

 さて私たちは、心がものすごく注意深いとき、心に、脳に、精神身体存在全体に何が起こるかを一緒に見出そう、学ぼうとしています。それを非常に明確に理解する、あるいはそれを自分自身で見出すためには、記述は記述されたものではないということをまず最初に見なければなりません。このテント、関係するあらゆるものを記述することができますが、記述はテントではありません。言葉はものではありません。そして私たちは最初から、説明は説明されたものではないということに、絶対に明確でなければなりません。記述に、説明に捉えられることは生きることのもっとも子供じみた形の一つであり、私たちの大部分がそうではないかと気になります。私たちは記述で、説明で、「それが原因だ」と言うことで満足し、ただ流れていくのです。ところが今朝私たちがしようとしていることは、この途方もない注意があるとき、観察者、あるいは検閲者としての中心がないとき、心―精神身体的構造の全体だけでなく、脳である心―に何が起こったのか私達自身で見出すことです。

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 それを理解するためには、実際にそれを学ぶためには、単に話し手の説明で満足するに過ぎないのではなく 見出すためには、「あるがままのもの」の理解で始めなければなりません。「あるべき」ものや、「あった」ものではなくて、「あるがままのもの」。

 どうか私と行きましょう。一緒に旅をしましょう。一緒に学ぶなかで行動するなら、それは大変おもしろいことです。明らかに巨大な変化が世界の中に、私たちの中になければなりません。私たちの思考と行動の仕方はまったく未熟に、ひどく矛盾し、そう言ってよければ―ひどく悪魔的になってしまいました。殺すための機械を発明し、次にその機械をつぶすための対抗機械があります。それが世界で行なっていることです。社会的にだけでなく、また機械的に。外部の変化だけでなく心理的な変化の重大さに実際に関係し、かかわっている心は、意識を伴なう、絶望を伴なう、凄まじい恐怖を伴なう、何らかの形で成就しようという欲望を伴なうこの人間の問題を調べなければなりません。

 そこでこのすべてを理解するために、私たちは「あるがままのもの」を見ることで始めなければなりません。「あるがままのもの」はあなたの前にあるものだけではなくて、向こうにあるものです。あなたの前にあるものを見るためには、非常に明確な知覚を持っていなければなりません。汚染されていない、偏見のない、それを超えようとする欲望にからみこまれていない、ただそれを観察するだけの。「あるがままのもの」を観察するだけでなくて、そうであったものを―それもまたあるがままのものです。「あるがままのもの」は、過去のものです。現在のものです。未来のものです。このことを見てください! それゆえ「あるがままのもの」は静的ではありません。それは運動です。そして「あるがままのもの」の運動と一緒に行くためには非常に明確な心を持つ必要があります。先入観のない、ゆがんでいない心を持つ必要があります。それは努力があるやいなや、ゆがみがあるということです。心が「あるがままのもの」を変えることや、それを超えようとすることや、それを抑制しようとすることに何かのやり方で関わるなら、心は「あるがままのもの」を見、そしてそれを超えることは出来ません。

 「あるがままのもの」を観察するためには、エネルギーを必要とします。どんなものでも注意深く観察するためにはエネルギーを必要とします。あなたが言っていることを聞くためには私はエネルギーを必要とします。すなわち、私があなたの言っていることを理解したいと実際に、必死に望むとき、私はエネルギーを必要とします。しかし、私が興味がなくて、ただ何気なく聞いているだけなら、そのとき、すぐに消えてしまう極くわずかなエネルギーしか必要としません。それゆえ「あるがままのもの」を理解するためにはエネルギーを必要とします。さて、これらの断片化は、私たちはそれらに属するものですが、これらエネルギーの分裂なのです。「私」と「私でない」、「怒り」と「怒りでない」、「暴力」と「暴力でない」―それらはすべてエネルギーの断片化です。そして一つの断片がほかの断片の上の権威につくとき、それは断片の中で作動するエネルギーです。私たちは通じ合っているでしょうか? コミュニケーションは共に学ぶこと、共に働くこと、共に創造すること、共に理解することを意味します。ただ私が話してあなたが聞き、そして「知的に私はそれを理解する」と言うということではありません。それは理解ではありません。すべてのことが学ぶ中の、それゆえ行為の中の運動なのです。

 そこで、心は、私の神、あなたの神、私の信念とあなたの信念というような断片化はすべてエネルギーの断片化であるということを見ます。ただエネルギーと断片化のみがあります。このエネルギーは思考によって断片化されています。そして思考は条件付けのやり方です―それを私たちは今再び調べません。なぜなら私たちは更に進まなければならないからです。

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 そこで意識はこれらのエネルギーの断片化の全体です。そして私たちは、それらの断片の一つが観察者である、「私」である、絶え間なく活動している猿であると言いました。記述は記述されたものではないということ、あなたは話し手の言葉を通してあなた自身を見守っているということを心に留めておきましょう。しかし言葉はものではなく、したがって、話し手はほとんど重要でありません。重要になることはあなた自身についての、このエネルギーがどんなふうに断片化してきたかについてのあなたの観察です。あなたはそれを―それは「あるがままのもの」です―観察者という断片なしに見ることが出来ますか? 心は、意識の全体を構成する これら多くの断片化したものを見ることができますか? これらの断片はエネルギーの断片化したものです。心はこのことを、多くの断片の一部である観察者なしに見ることができるでしょうか? これを理解することが重要です。心が多くの断片を、もう一つの断片の眼を通して見ることなしに見ることができないなら、そのとき、あなたは注意が何であるか決して理解できないでしょう。私たちはお互いに出会っているでしょうか?

 心は断片化が外部的、内部的に行なうことを見ます。外部的には軍備競争その他すべてをともなう主権政府、国家の分離、信念、宗教的教条。社会的、政治的活動の中の分離―労働党、保守党、共産主義者、資本主義者―はすべて「私は安全でなければならない」という思考の欲求によって作り出されています。思考は断片化を通してそれが安全であるだろうと思い、それでより多くの断片化をつくりだすのです。これが見えますか? 言葉の上でなくて、実際に事実として。若者と年寄り、金持ちと貧乏人、死と生―思考によるこの絶えず続く分離、この断片化の運動が見えますか? 思考はこれら断片の条件付けに捉えられているのです。心は、「私はそれを見る」という中心なしに、この運動全体を見ていますか。なぜなら、中心を持つやいなや、その中心は分離の要因になるからです。「私」と「私でない」―それはあなたです。思考は安全、無事を見出すために、欲求を通して、あるいは衝動を通してこの「私」を組み立てたのです。そして安全を見出そうというその欲求の中で、思考はエネルギーを「私のもの」と「私でない」ものとして分割してしまったのです。したがって、それ自身に不安感をもたらして。心はこのことを全体として見ることが出来るでしょうか? できません、観察している断片があるなら。

 私たちはこう尋ねています。高度に注意深くて、その中に分裂のない心の性質は何か? それが昨日私たちがやめたところです。あなたが調べているか、昨日から学んだかどうか私はわかりません。話し手はあなたに教えたり、情報を与えたりする教授ではありません。それを見出すためには、断片化があってはなりません―明らかに―それは努力がないということです。努力はゆがみを意味します。そして私たちの心のたいていは歪められているので、完全に注意深いということはどういうことか理解し、そしてそのようにまったく気づいていて、まったく注意深い心に何が起こったのか見出すことはとてもできません。

 安全と安定の間には違いがあります。私たちは、それは、思考、問題、心配、恐怖などを伴なう、絶えず続く「私」であるところの猿であると言いました。この落着かない思考―猿―は常に安全を求めています。なぜならそれはその活動の中で、その思考の中で、その関係の中で、不確かであることを恐れているからです。それはあらゆるものが機械的であることを望みます。そのことが安全なのです。それでそれは安全を機械的確実性の見地から解釈します。安定は違っているでしょうか―対極ではなくて―安全と違う次元にあるのでしょうか? 私たちはこれを理解しなければなりません。落着きがなく安全を求めている心、その落着きのなさの中で、それは決して安定を見つけることは出来ません。安定―堅固は適切な言葉ではありません―揺るぎなく、動かせないこと、しかもなお大きな流動性の性質を持っていること! 安全を求めている心は、流動的で、迅速であり、しかもなおとても動かせないという意味で安定であることはできません。

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 違いが見えますか? 生の中で、毎日の生活の中であなたがしているのはどちらですか? 思考はその落着きのない中で安全を見出そうとしている猿ですか? 一つの方向で安全を見出せず、別の方向に行く。それは落着きのないことの運動です。この落着きのない中で、それは安全を見出すことを望みます。したがってそれは決して安全を見出すことができません。それは「神がいる」と言うことができます。それはなお思考の発明、数世紀の条件付けを通じてもたらされたイメージです。あるいは「そのようなものはない」と言うことが共産主義世界の中で条件づけられています。それも同様に条件付けです。

 そこであなたがしていることは何ですか―あなたの落着きのなさの中で安全を求めている? 安全であろうという欲求はもっとも奇妙なことの一つです。そしてその安全は世の中によって認められなけばなりません。このことが見えるかどうか私はわかりません。私は本を書き、本の中に私の安全を見出します。しかしその本は世の中によって認められなければなりません。そうでなければ安全はありません。そこで私がしたことを見てください―私の安全は世の中の意見の中にあるのです! 「私の本は何千と売れる」。そして私は世の中の価値をつくりだしたのです。本を通じて安全を求めることで―たとえそれが何であろうが―私は私が作り出した世の中に依存しているのです。それゆえ、それは私が絶えず私自身を欺いているということです。もしもあなたがこれを見てくれれば! それゆえ、思考が安全であることを求める欲求は不確実の道、不安心の道です。中心のない完全な注意があるとき、そのように強烈に気づいている心に何が起きたでしょうか? その中に安全があるでしょうか? その中に何かの落着きのなさの感覚があるでしょうか? どうか同意しないでください―これを見出すことはものすごいことなのです。

 ほら、あなた方、私たちの多くは世界の悲惨の解決を、社会道徳―それは不道徳なのです―の解決を求めています。私たちは社会的不正のない社会を組織するやり方を見出そうとしています。人間は神、真理を、それが何であっても、数世紀のあいだずっと求めてきました。決してそれに出会わないで、それを信じて。しかしそれを信じるとき、あなたは当然あなたの信念にしたがって経験を持ち、それは虚偽なのです。それゆえ、不安の中にあり、気楽に感じようとして、無事、安全を求める欲求の中にある人間は、思考によって投影されたあらゆるこれらの架空の安全を案出したのです。このエネルギーの断片化のすべてに気づくとき―そしてエネルギーは、したがって、もはや断片化されていませんが―安全を追求していた心に何が起こったでしょうか? それは不安だったので、ひとつの恐怖から次ぎへと動いていたのです。そのときあなたはどうしていますか? あなたの答えは何ですか?

 質問者: ひとは分離していません。恐怖はありません。

 クリシュナムルティ: 私たちはこのすべてを通ってきました、あなた。あなたにとって実際にそうでないなら、何も言わないでください。なぜならそれは意味がないからです。あなたは創作することができます。「私はこれを感じる」と言うことができます―しかしあなたがほんとうに真面目であるなら、これを学びたいなら、そのときそれを調べなければなりません。それはあなたの天職です。それはあなたの生です―朝の間だけではありません。

 ほら、村を通っていたとき、みんなの人が教会に行っていましたね―週末の宗教。これは週末の宗教ではありません。これは生き方、このエネルギーがばらばらにされていない生き方なのです。もしも一度このことを理解すれば、あなたは途方もない行為の感覚を持つでしょうに。

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 質問者: あなた、あなたが「これをどうするか」と言うやいなや、私たちの中の猿が動き始めます。それは疑問を引き起こし、疑問は猿を引き起こします。

 クリシュナムルティ: 私はただその質問をあなたがどこにいるか見るためにしているだけです。

 質問者: ただ一つの断片が行動しているだけです。

 クリシュナムルティ: ええ。それゆえ、落着かずに安全を求めている、このばらばらになったエネルギーの断片の一つがあるだけです―それが実際の「あるがままのもの」です。それが私たちがみんなやっていることです。その落着きのないこと、その絶え間のない探求と調査、一つの団体に参加して、それから別の団体をとりあげること―猿は果てしなく進みます―そのすべては安全にかかわっているだけの生き方を追求している心を示します。

 さて、それが非常に明確に見られるとき、もはや安全にかかわっていない心に何が起きたでしょうか? 明らかにそれは恐怖を持っていません。いかに思考がエネルギーを断片化したか、あるいは思考自身を断片化したかを、そしてこの断片化のために恐怖があるのを見るとき、それは非常に些細なことになります。そして断片化の中での思考の活動を見るとき、そのときあなたは恐怖に出会います。あなたは行動します。それで私たちは尋ねています。途方もなく注意深くなった心に何が起きましたか? いったい追求の運動が何かあるでしょうか? どうか、見出してください。

 質問者: 機械的活動は完全に止まります。

 クリシュナムルティ: あなたは私の質問を理解していますか? あなたがとても注意深いとき、心はなお求めているでしょうか? 経験を求め、それ自身を理解することを求め、それ自身を超えることを求め、正しい行為、間違った行為を見出すことを求め、依存することのできる永続するもの―関係の中や信念の中や何かの結論の中の永続するもの、を求めているでしょうか? あなたが非常に完全に気づいているとき、それはなお続いていますか?

 質問者: 心はもはや何も求めません。

 クリシュナムルティ: そのような言明をそのように容易にするとき、それはどういう事なのかわかっているのでしょうか? 何も求めない―それはどういうことですか?

 質問者: それは既に、それが想像することのできない新しいものを受取っているということです。

 クリシュナムルティ: いいえ、奥様、あなたは実際には理解していません。私の質問はこうです。心は猿の落着かない中での活動を見ています。この活動―それはなおエネルギーです―思考は永久的な安全、確かさ、無事を見つけようとする欲求の中でばらばらになってしまいました。それでそれは世界を「私」と「私でない」、「私たち」と「彼ら」として分割してしまい、真理を安全の方法として求めています。ひとがこのすべてを観察したとき、心はいったいそれ以上何かを求めるでしょうか? 追求は落着きのないことを意味します―私はここに安全を見出しませんでした。そして私はあちらに行きます。そしてあちらにそれを見つけなかったので、そこでどこかよそに行きます。

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 質問者: 心はそのとき追求にかかわっていません。

 クリシュナムルティ: 中心のない心は追求にかかわっていません。しかしそれはあなたに起こっているのでしょうか?

 質問者: 注意深いときそれは起こっています。

 クリシュナムルティ: いいえ、あなた。

 質問者: 心が努力することを止めるとき、あらゆる種類のものごとが心に起こります。

 クリシュナムルティ: あなたは今までに、歩いているときや静かに座っているとき、完全に空白であるということがどういうことか、知ったことがありますか? 孤立ではなく、引退ではなく、あなたの周りに壁を立てて、あなたがどんなことにも関係を持っていないことを発見するのではなく―私はそれを言ってません。心が完全に空白であるとき、それは記憶がないということではありません。記憶はそこにあります。なぜなら、あなたはあなたの家に歩いているから、あるいはあなたの事務所に行っているからです。だが私は、追求のあらゆる運動を終えてしまった心の空白のことを言っているのです。

 質問者: すべてがあり、私がいます。「私はいる」とは何でしょうか? 「私がいる」とは誰でしょうか? この「いる」と言っている「私」は誰でしょうか? 猿?

 クリシュナムルティ: 宣伝者たちが言ったこと、宗教が言ったこと、心理学者が言ったことを繰り返さないでください。誰が「私はいる」と言っていますか?―イタリア人、フランス人、ロシア人、信じる人、教条、恐怖、過去、探求者、探求し見出す人? それとも家、夫、金、名前、家族と同一化している人―それらはすべて言葉です! いいえ、あなたはこのことを見ていません。しかしそれはそうなのです! あなたは記憶と言葉の束であるということをあなたが見るなら、落着きのない猿は終ります。

 質問者: あなたが事務所に歩いているとき 心が完全に空白なら、何故あなたは事務所に歩いているのでしょうか? 何故あなたはなおこのことをしているのでしょうか?

 クリシュナムルティ: 生計を立てなければなりません。家に帰らなければなりません。あなたはこのテントから出て行くでしょう。

 質問者: 確かに問題は、記憶が働いているなら、どうやって私が空白であり得るかです。

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 クリシュナムルティ: さて、注目してください、あなた、私はあなたに非常に簡単なことを話したいのです。安全というようなそんなものはありません。この安全に対する落着くことのない要求は観察者、中心、猿の一部です。そしてこの落着くことのない猿は―それは思考ですが―この世界をばらばらにしてしまい、ぞっとするほどそれを目茶苦茶にしました。それはこのような悲惨、このような苦悩をもたらしたのです! そして思考はこれを解決できません。どんなに聡明でも、どんなに利口で、博学で、効果的に思考できても、思考はとてもこの大混乱に秩序をもたらすことはできません。思考ではない、それからの出口がなければなりません。私はあなたに、その注意の状態の中に、その注意の運動の中に、安全の感覚のすべてがなくなっているということを伝えたいのです。何故なら安定があるからです。その安定は安全とまったく何の関係もありません―思考が安全を求めるとき、それは安全を永久的な不動のものにしようとし、それゆえそれは機械的になります。思考は関係の中に安全を求めます。その関係の中に思考はイメージを作ります。そのイメージは永久的になり、関係をばらばらにします―あなたはあなたのイメージを持っており、私は私のイメージを持っています。そのイメージの中に、思考はそれ自体を永久的なものとして確立し同一化します。

 外部的に、これが私たちがしたことです。つまり、あなたの国、私の国、等々。心がそのすべてを置き去りにするとき、心がその全くの無益さ、害を見てしまったという意味でそれを置き去りにするとき、心はそれを終りにします。そのとき、安全の概念全体を完全に終りにした心に何が起こりますか? 非常に注意深いので完全に安定であり、そのため思考がもはや安全をどんな形においても追求しておらず、永久的なものというようなものはないということが見えているその心に何が起きますか? 私はそれをあなたに指し示しているのです。記述は記述されたものではありません。

 この重要性を見てください。脳は完全に安全であるという観念と共に進化してきました。心、脳は安全を望みます、さもなければそれは機能できません。秩序なしには、それは非論理的に、神経症的に、非効率的に機能するでしょう。したがって、脳はいつも秩序を望んでおり、そしてそれは秩序を持つことを安全という見地で解釈したのです。その脳がなお機能しているなら、それはなお安全を通して秩序を求めています。それで、注意があるとき、脳はなお安全を求めているでしょうか?

 質問者: あなた、ただ現在だけがあります。

 クリシュナムルティ: あなた、私はあなたに何かを伝えようとしています。私はすっかり間違っているかもしれません。私は完全に無意味なことを話しているかもしれません。しかしあなたは、あなた自身で私が無意味なことを話しているかどうかを見出さなければなりません。

 質問者: 私が注意深いとき、私は求めていないという感覚を得ます。しかしその注意は止むかもしれません。そのとき私は再び求めています。

 クリシュナムルティ: 決して求めません! それが要点全体です。思考が永久というようなそんなものはないということを見るなら、思考はそれを二度と決して求めません。即ち、安全の記憶、安全に依存する社会の中での教養を持つ、安全に基く観念と道徳のすべてを持つ脳、その脳は安全に向かうあらゆる運動が完全になくなっているのです。

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 今までにこの瞑想の問題を調べたことがありますか、どなたか? 瞑想は瞑想にかかわっているのではなくて瞑想者にかかわっているのです―違いがわかりますか? あなた方のたいていは瞑想に、それをどうするか、どうやって徐々に瞑想するかなどに関わります―それはまったく問題ではありません。瞑想者が瞑想です。瞑想者を理解することが瞑想です。

 さて、あなたがこの瞑想の問題を調べたなら、瞑想者は、抑圧によってではなく、思考を殺すことによってではなく、理解することによって終わるに違いありません。すなわち、自分自身を理解することは思考の運動を理解することなのです。すべての記憶を伴なう脳の運動である思考―安全を求めている思考の運動、その他のすべてを。

 さて瞑想者は尋ねています、この脳は完全に静かになれるでしょうか? それは思考が完全に静かであり、それにもかかわらず、それ自体の終りとしてではなく、この静かさから機能することが出来るかということです。たぶんこのすべてはあなたにとっては複雑すぎるでしょう―それは実際にはとても単純です。

 それで高度に注意深い心はエネルギーの断片化がありません。どうかそれを見てください。エネルギーの断片化はありません。それは完全なエネルギーです。そしてそのエネルギーはあなたが事務所に行くとき、断片化なしに機能します。

 質問者: おそらく本当の理解は、言葉の助けなしに到達できるのでしょう。それは理解しようとしているものへのある種の直接の接触なのです。そしてその結果として言葉の必要はありません。それらは逃避です。

 クリシュナムルティ: そのとおりです。あなたは言葉なしに伝達できますか? なぜなら言葉はじゃまするからです。

 質問者: ええ。

 クリシュナムルティ: 見てください、あなた、非常に並外れて注意深く、けれどもエネルギーを断片に砕くことなしに世間の中で機能する心の性質を、言葉なしに、私があなたに伝達することが出来るでしょうか? あなたは私の質問を理解しました?

 質問者: はい。

 クリシュナムルティ: では、私はそれをあなたに言葉なしで伝達できるでしょうか? どうして私が出来るとあなたはわかるのでしょうか? あなたはいったい何を話しているのでしょうか!

 質問者: 私はあなたは出来ると思います。

 クリシュナムルティ: 注目してください。私はほぼ五週間にわたって話しをし、あらゆることを説明し、それを詳細に調べ、心をそれに注ぎ込みました。あなたはそれを理解しましたか―言葉の上にしても? そしてあなたは何かを非言語的に理解しようと望みます! それはあなたの心が話し手と同じ強烈さで、同じ情熱で、同時に、同じレベルで接しているなら為されます。そのときあなたは通じるでしょう。あなたはそうですか? いまあの列車の音を聞いてください! 言葉なしに伝達が確立されました。なぜなら私たちは、私たちの両方が、同時に、同じ強烈さで、同じ情熱で、あの列車のがたがたという音を聞いているからです。そのときのみ直接の伝達があるのです。あなたはこのことに、同時に、話し手と同様に強烈ですか? もちろんそうではありません。あなた、あなたが他の人の手を取るとき、あなたは癖や習慣からそれを取ることが出来ます。あるいはあなたは手を取ることができ、伝達が言葉なしに起こることができます。なぜなら両方がその与えられた瞬間強烈であるからです。しかし私たちは強烈でありません。情熱的でも、かかわってもいません。

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 質問者: いつもではありません。

 クリシュナムルティ: そう言わないでください。ちょっとの間でさえそうでありません。

 質問者: どうしてわかるのですか?

 クリシュナムルティ: 私はわかりません。あなたがそうであるなら、そのときあなたは気づいていること、注意深いことがどういうことかわかるでしょう。それゆえもはや安全を求めないで。したがって、あなたはもはや断片化の見地から行動したり考えたりしていません。私たちが話してきたことのすべて、討論と言葉の交換のすべてを経てきた心に何が起こったか見てください。これを本当に聞いた心に何が起こりましたか?

 まず最初に、それは精神的のみならず肉体的にも敏感になりました。それは喫煙、飲酒、薬物をやめました。そして私たちがこの注意の問題をじっくり話しあったとき、あなたは心がもはや全く何も求めていないこと、あるいは何も主張していないことがわかるでしょう。そしてそのような心は完全に流動的で、そのうえ全く安定です。その安定さと敏感さから、それは生を、あるいはエネルギーを断片に分裂さすことなしに行動することができます。そのような心は行為は別として、安定は別として、何を見出すでしょうか? 人間は常に、彼が神、真理であると考えるものを捜し求めてきました。彼は常に、恐怖から、彼の絶望状態から、彼の絶望と無秩序からそれを求めて努力してきました。彼はそれを捜し求めました。それを見出したと思いました。そしてその発見を彼は組織化し始めたのです。

 そこで、安定で、高度に流動的で、敏感であるそれは捜し求めていません。それは決して見出されてこなかったものを見ます。それは、そのような心には時間がまったく存在しないということです―それは汽車に乗り遅れるだろうということではありません。それゆえ、始めも終りもない、したがって信じられないほど広大な状態があります。

 これは、あなたがそれにふと出会うなら、最も素晴らしいものです。私はその中に入ることができます。しかし記述は記述されたものではありません。あなた自身を見ることによってこのすべてを学ぶことはあなたがすることです―本も教師もこれをあなたに教えることはできません―誰にも依存しないでください。精神的な組織に参加しないでください。ひとはこのすべてを自分自身から学ばなければなりません。するとそこに心は信じられないほどのものを発見するでしょう。しかしそのためには、断片化がなく、したがって巨大な安定、素早さ、流動性がなければなりません。そのような心には時間はなく、したがって、死と生のこの概念全体はまったく異なる意味を持ちます。

 1970年8月9日

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