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208 リードビーター 著  1925

竜王文庫

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209 リードビーター 著  1927

平河出版社

 

エネルギーと場の養成

J. Krishnamurti: Exploration into Insight -
'Energy and the Cultivation the Field' Bombay 18th January,1977
洞察の中への探究 - 「エネルギーと場の養成」

 P: 理解への主な障害の一つ、すなわち、自己中心的活動という要素について議論していいでしょうか?

 K: 自己中心性を話すとき、中心は外周を含みます。中心があるところ、境界、限界があり、全ての活動は中心と外周の円の内側にある筈だと言えるでしょうか? それが自己中心的活動です。

 P: 自己の境界とは何でしょうか?

 K: それは無制限でも制限の範囲内でもあり得ますが、しかし、常に境界があります。

 D: 無制限?

 K: それを好きなだけ拡張することができます。中心がある限り、外周、境界がありますが、その境界は広げることができます。

 P: それは、あなた、この広げることに限界はないという意味ですか?

 K: ゆっくり行きましょう。自己中心的活動を話すとき、それが含まれていることです - 中心と外周、限定、そしてその範囲内ですべての活動が起こります。自分自身について考えること、何かに向かって進むことはなお中心から外周へです。中心があるところ境界があります。その中心はそれ自身を拡大するかもしれませんが、それはなおその境界の範囲内にあり、それゆえ、その円の範囲内ですべての活動が起きます。社会奉仕、民主的あるいは選挙民の独裁と圧制を通じて、好きなだけその中心から広げる事ができますが、あらゆるものがその領域内にあります。

 A: 要点は、あなた、活動が中心を育てないことが出来るだろうかということです。

 K: あるいは、中心無しにありうるでしょうか?

 A: あなた、それは私たちの立場からは言えません。私たちは中心を持って出発するからです。私たちは中心がある事を知っていると正直に、事実に基づいて言うことができます。そしてあらゆる活動が、呼吸することを含めて、その中心を育てる事を私たちは知っています。

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 K: 要点はこうです。円周と中心の範囲内に広がるエネルギーは限定されたエネルギー、機械的なエネルギーです。中心があるところ、円周があるに違いないということ、その領域内に起こるどんな活動も限定され、断片化されており、それゆえエネルギーの浪費であるということが、あなたの内部で、言葉の上でなくて実際にわかりますか?

 VA: 私たちは円周と中心を議論してきました。私たち自身の中に自己を実感することが最初の問題でしょう。

 K: それが問題です、あなた。私たちは利己的な存在です。自己中心的な人間です。私たちは自分自身のことを、自分の悩み、自分の家族のことを考えます - 私たちは中心なのです。私たちは中心を社会的な活動、政治的な活動に移すことができますが、それはなお作動している中心です。

 P: それは見るには少々微妙です。なぜなら、中心が含まれていないと感じる何かに関わることも出来るからです。

 K: そう思うかもしれません。それは貧しいひとのために働いている「私」です。しかし私はなおこの限界の範囲内で働いているのです。

 P: あなた、少しはっきりさせたいのですが。あなたが尋ねているそのことは、貧しいひとのための仕事ではない?

 K: ええ。それは貧しいひととの私自身の同一化、国との私自身の同一化、神との私自身の同一化、ある理想との私自身の同一化などなどです。それが問題です。

 Apa: ププルジが尋ねた質問は、習慣を伴うこの心の運動は静められることが出来るかどうかということであったと思います。同一化によって、中心から外周へ、外周から中心への絶え間ない運動によって疲れきったこの心の運動は、静かにされることが出来るでしょうか? それを静める、あるいはそれを無関係にする、それを影のように思わせる、ほとばしるエネルギーがあるでしょうか?

 K: 私はこれはよくわかりません。

 P: それは実際はこういうことのようです。私たちはこの自己中心的活動の性質を理解するためにあらゆる事をしました。観察し、瞑想しましたが、中心は消えません、あなた。

 K: ええ、なぜなら、私たちは間違いをしていると私は思うからです。私たちは実際に見ず、ハートと心で知覚しないのです。この外周の範囲内のどんな運動も、中心から外周と円周へ、それから円周から中心へ、この前後への運動がエネルギーの浪費であり、限られているに違いなく、悲しみをもたらすに違いないということを。その領域内にあるあらゆることが悲しみです。私たちはそのことを見ません。

 P: あなた、とらわれているこれらのさざなみを絶えず発することが脳細胞の一部であるなら、脳細胞の活動であるなら、それはある意味で自己中心的存在なのですが、そのとき...

 K: いいえ、ププル、脳は二つのものを必要とします。安全と永続の感覚。

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 P: 両方とも自己によって与えられます。

 K: それが非常に重要になってしまったのは、そういうわけです。

 Apa: あなた、脳は安全や継続を求めるその習慣において、ひとつの機械的な物理的な実体です。では、その習慣、その機械的行動をどうやって打破しますか? それがププルジがほのめかしてきたことです。

 K: 私はそのことに入りたくないのです、あなた。打破するどんな動きもなお、外周の範囲内にあります。自己中心でない活動、動きがあるでしょうか?

 P: 私たちは、例えば、あたかも自己がいないかのように見える状態を知っています。そうはいうものの、自己中心的活動の種が脳細胞の内側に保持されているなら、それはそれ自体を反復するでしょう。それで、別のエネルギーがあるに違いない、自己中心的活動を消し去る別の質があるに違いないと私は心の中で考えます。

 Apa: 私たちの頭脳は電子計算機であり、私たちの行動パターンと行動はそのことに条件付けられ、プログラムされています。フィードバックはますます複雑になってきています。さて、あなた、エネルギーとはなんでしょうか? それは注意でしょうか、それは静けさでしょうか、それは外側でしょうか、それは内側でしょうか?

 K: 私たちの頭脳は、中心から外周へ、円周から中心へ、この前後運動を機能するようにプログラムされています。それはそのことのためにプログラムされ、そのことのために訓練され、そのことのために条件づけられています。脳細胞のその勢いを破ることが可能でしょうか?

 P: 私の意志なしに、その勢いを消し去るエネルギーがあるでしょうか?

 K: この勢い、この脳のプログラム、それは数千年にわたって条件づけられて来たのですが、それを停止することが出来るでしょうか?

 Apa: そしてそれ自身の条件付けをはずすことが。

 K: それが止まる瞬間、あなたはそれを打破したのです。さて、自己中心的運動でないエネルギーがあるでしょうか、動機のない、原因のないエネルギー、これらのない無限のエネルギーが?

 P: ええ。そしてそれは、私は非常にためらいながら尋ねているのですが、そのエネルギーを調べることはできるでしょうか?

 K: 私たちはしようとしています。

 A: 私たちが持っている唯一の道具は注意です。それで、あると決めてかかっているどんなエネルギーも注意としてその姿をはっきり現わすに違いありません。注意が私たちの持つ唯一の道具なんですよ。

 P: そう言ってよろしければ、私は何ごとも当然のこととして決めてかかりたくありません。私はクリシュナジに、今まで尋ねたことのない何かを尋ねているのです。私はそれをどんなふうに言葉にしたらいいでしょう?

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 K: あなたは尋ねています。中心からではないエネルギー、原因のないエネルギー、無尽蔵であり、したがって非機械的なエネルギーがあるかと。私たちはあることを発見しました。すなわち、脳は、数千年を通じて、中心から外周へ、また外周から中心へ、それを広げ、それを限定しながら前後に動くように条件付けられて来たのです。そしてその運動を終わらせるやり方があるでしょうか? 私たちはたった今、停止があるとき、プラグが引き抜かれるとき、それは終わると言いました。すなわち、脳はその方向への運動を停止しますが、停止のための何かの原因があるなら、あなたは円の中に再び戻っています。それはあなたに答えているでしょうか? すなわち、数千年にわたり、中心から外周に、また外周から中心に活動するよう条件づけられて来た脳は、その運動を停止できるでしょうか? さて、次の質問はそれは可能なのか?でしょう。おわかりですか? 私はそれは間違った質問だと思います。あなたが停止の必要性を見るとき、脳それ自身が運動の停止する必要性を見るとき、それは停止します。私は明確にしているかどうかなと思います。

 Q: はい。しかしそれは再度始まります。それはしばらくの間運動を止めますが、でも、それは始まります。

 K: いいえ、あなた、あなたがそれを再び望むと言う瞬間、あなたは中心に戻っているのです。

 Q: おそらく私は永久的な停止を引き起こすことを望んでいるのです。

 K: それは貪欲です。もし私が事実の真実を見るなら、この運動の停止が、その運動の終わりがある瞬間、事は終わっています。それは連続的な停止ではありません。それが連続的であるように望むとき、それは時間の運動です。

 Apa: 見ることは、そのとき、運動なしです。見ることは終わっています。その見ることは中心の運動なのでしょうか?

 K:見るなら、外周への、外周から中心への中心の運動全体を観察するなら、その運動は「あるがままのもの」です。

 Apa: しかしその見ることは何の中心もなしにです。

 K: もちろん。

 Q: それゆえ、あなた、その見ることはまったく違う平面、違う次元にあります。

 K: 私は「見ます」。何の選択もなしに気づいているとき知覚があります。ただ、この運動に気づいていましょう。プログラムは停止します。そのことを離れましょう。私たちはそのことに戻るでしょう。ププルの質問はこうです。非機械的である、原因を持たないエネルギー、したがって、絶えずそれ自体を再生しているエネルギーがあるでしょうか?

 VA: それは死のエネルギーです。

 K: どういう意味ですか、あなた? 終わりという意味での死?

 VA: 全くの終わり。

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 K: 外周の全くの終わりを指していっているのですね。

 VA: 私が私自身として知っているもの。

 K: ちょっと聞いてください。あなたはあることを言いました。中心から円周へのこの運動の全くの終わり、ある意味において、それは死です。それで、それは原因のないエネルギーでしょうか?

 VA: それは原因がありません、あなた。それは生じます。身体の中の血液のように。

 K: わかります。しかし、それは推定、理論、それとも現実ですか?

 VA: 現実。

 K: それは何を意味するのでしょう? そこからあなたが活動している中心がないということは?

 VA: そのエネルギーがそこにあるその期間の間ずっと。

 K: いえ、いえ。期間ではなく。

 VA: そのとき、時間のない感覚があります。

 K: ええ、あなた。それで、何が起きますか?

 VA: 次にまた思考が戻ります。

 K: それで、あなたは再び中心から外周へ戻るのです。

 VA: それを再び望むだけでなく、その特定の事が起こることを私は恐れます。それが全くの死のようであるため、その特定の事が再び起こることを恐れるようになります。

 K: それはあなたの招きなしに起こったのです。

 VA: そうです。

 K: 今、あなたはそれを招いています。

 VA: 私がそれを招いているのか、それを恐れているのか、私にはわかりません。

 K: 恐れる、あるいは招いている、それがなんであろうと、それはなおこの領域の内側にあります。それがすべてです。
 もう一つの質問はププルジが終わりのない旅について提出したものです。クンダリーニを議論することをお望みですか?

 P: はい、あなた。 

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 K: あなた、まず最初に、あなたが本当に議論したいなら、クンダリーニについて対話をしたいなら、それについて聞いたあらゆる事を忘れて頂けますか? 忘れて頂けますか? 私たちは非常に重々しい主題に入りつつあるのです。それについてあなたが聞いたあらゆること、グルがそれについてあなたに告げたこと、それを目覚めさせようとするあなたの企てをあなたは喜んで忘れますか? あなたは完全に空白の状態から出発できますか?

 では、あなたはクンダリーニについてどんな事も本当に知らないで調べなければなりません。今アメリカで、ヨーロッパで、何が起こっているかご存知ですね。クンダリーニの覚醒の経験を持ったと言う人々によって、クンダリーニ センターが開かれています。今日、科学者たちはそれに興味を持っています。特定の形の体操、呼吸をすることによって、クンダリーニを目覚めさせるだろうと彼らは感じているのです。それはすべて営利事業になっており、ひどくいたずら好きな人々に与えられています。

 Q: 私たちはただ、条件付けを拭い去ることのできるエネルギーがあるかどうかを知りたいだけです。

 K: 自己中心的活動が存在する限りは、それに触れることはできません。それが私がクンダリーニ、あるいはそのエネルギーが何であろうと、それについてのどんな議論にも異議を申し立てる理由です。なぜなら私たちは基礎作業を済ましていないからです。私たちは正しい生を送っておらず、それに新しい何かを加えるのを望み、それで私たちの悪影響を続けていくのです。

 VA: クンダリーニの覚醒の後でさえ、自己中心の活動は続きます。

 K: 私はクンダリーニが覚醒しているかどうかを疑います。私はそれによってあなたが何を意味しているかわかりません。

 VA: あなた、私たちはこの事を理解するのを本当に望んでいるのです。何故なら、それはときに現実であるからです。

 P: あなたは自己中心の活動が止むときのエネルギーを知っているのでしょうか? 私たちはこれがこの際限のないエネルギーの源であると決めてかかっています。それはそうではないかもしれません。

 K: あなたは言っているのですか、この中心から周辺へ、そして周辺から中心へのこの運動の終わり、そのことの終わりが...

 P: 一瞬のそれの終わりが...

 K: いいえ、それの終わり、完全な それの終わり-は無制限であるそのエネルギーの解放でしょうか?

 P: 私はそれを言っていません。

 K: 私はそれを言っているのです。

 P: それは私が言っているのとは非常に違っていることです。

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 K: 私たちはクンダリーニ エネルギーをその正しい場所に置くことが出来るでしょうか? 多くの人々が彼らがクンダリーニと呼ぶものの経験を持っています。それを私は問うているのです。それが、そのときクンダリーニであるとされる現実の実在、あるいはある種の生理的活動であるかどうかを私は問うているのです。虚栄、セックスなどの意味で不道徳な生を生きており、さらにまた、クンダリーニが目覚めたと言います。しかし、日常生活は、それは自己中心の生であり、続きます。

 P: あなた、それを調べるのであれば、それが人の中でどんなふうに作用するかを見ましょう。クンダリーニの覚醒は、身体の一定の肉体的部分に位置するサイキック センターに結び付けられています。それが言われていることです。私が尋ねたい最初の質問はそれがそうであるかどうかです。このエネルギー、それは終わりがないのですが、その解放は、身体の肉体的部分の中のサイキック センターに関係があるのでしょうか?

 A: そのことに入る前に、あなた、そのエネルギーを得ているひとは危害を与えることができないのかどうかを調べることが、きわめて重要ではないでしょうか?

 K: いいえ、あなた。よく気をつけてください。誰かが危害を与えることができないとどうやって言えるのでしょうか? 多くのインドのグルが人々を誤り導いて、ひどい害を与えたと人は言います。

 A: それが私の言っていることです、あなた。ひとのハートが憎悪から浄化され、彼の危害を与える渇望が完全に変化させられない限り、それが起こらない限り、そのときはこのエネルギーはただ一層の害を与えるだけです。

 K: アシュユットジ、ププルジが尋ねていることは、種々のセンターを通ってのこのエネルギーの力の標準的受容やエネルギーの解放などなどです。

 A: あなた、私たちがその質問をする前に、インドの伝統の中に私が非常に価値があると考える言葉があると私は言います。その言葉は「アディカール(adhikar)」です。アディカールは、人はこの質問を彼自身に提出する前に十分彼自身を浄化しなければならないということを意味します。それは浄化の問題です。

 K: 中心から周辺へ、周辺から中心へのこの運動の停止がない限り、あのププルジの質問は妥当でないとあなたは言っているのですか?

 A: 私はそう思います。別の言葉を用いましょう。仏教徒の言葉は「シーラ(sheela)(戒)」です。それは実際には同じものです。ヒンズー教徒によって用いられる「アディカール」という言葉と仏教徒によって用いられる「シーラ」という言葉は実際には同じものを意味します。

 P: 人が質問をするとき自己知の深さがあり その深さで人は尋ねる、ということだと思います。人の生がある程度の内的均衡を経ていないなら、エネルギーの解放でもあるところの自己の探求はできません。さもなければKの言うことは意味がありません。人がクリシュナジに傾聴するとき、自分自身をあばいた深さに応じて受け取るのであり、それゆえ、私は質問をするのは正しいと思うのです。この質問が何故ほかの何かの質問よりもっと危険なのでしょう? 何故それが思考とは何か、瞑想とは何か、これは何か、あれは何かを尋ねるより、もっと危険なのでしょう? 理解する心にとっては、それはこれやあれを理解するでしょう。理解しない心にとっては、それはどれも理解しないでしょう。誤用したい心にとっては、それはどんなものでも誤用するでしょう。

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 K: あなたの生、あなたの日常生活が完全に非自己中心的生き方でない限り、他方のもの(the other)はとても入って来ることは出来ません。

 VA: エネルギーの上昇があります-最初に歓喜が、それから恐怖があります。

 S: 何故そのエネルギーが恐怖をつくりだすか知りたいのですが。

 VA: 恐怖は後程来ます。ひとは死を経験し、あらゆる物は消えます。生き返り、再び生きていることに驚きます。あなたは世界を再び見出します。そして思考、そして所有と欲望と全世界がゆっくり戻ります。

 K: あなた、あなたはそれをクンダリーニの覚醒と呼ぶのですか?

 VA: 私は知りません、あなた。

 K: しかし、あなたは何故それにクンダリーニの覚醒というラベルを貼るのでしょうか?

 VA: その後数日の間、一月ほどの間、全生活が変化します。セックスが消えます。欲望が消えます。

 K: はい、あなた、わかります。しかしあなたはそれに再び戻るのです。

 VA: 人は理解していないのでそれに戻ります。

 K: それが私の言っていることです、あなた。何かに戻ることがあるとき、あなたがそのエネルギーを持ったのかどうかを私は疑います。

 P: この質問が何故こんなに多くのさざなみを引き起こすのでしょう? たいていの人が自己知の過程で多くのサイキックな経験をします。ひとはまた、全てのサイキックな経験はそれが起きるとき捨てられなければならないことを理解します、少なくともひとは、クリシュナジのいうことを聞いているので理解しています。

 K: それは理解されているでしょうか? サイキックな経験はすっかり捨てられなければなりません。

 A: 私たちはそれらに重要性を与えないだけでなく、それらを捨てます。

 VA: ある新しい通路が身体に開かれ、そしてエネルギーが、それが必要なときにはいつでも、それらの通路を登り続けます。

 K: あなた、あなたはなぜそれを並外れた何かと呼ぶのでしょうか? なぜ私たちはこれは並外れたものであると考えるのでしょう? 私はただ示唆しているのですが、それはあなたが非常に敏感になったということかもしれません。それがすべてです。非常に鋭く敏感に。

 VA: 私はより多くのエネルギーを持ちます。

 K: 敏感さはより多くのエネルギーを持ちます。しかし、あなたはなぜそれを並外れていると、クンダリーニ、これ、あれ、他方のものと呼ぶのでしょうか?

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 P: 真の問題はあなたの生活がどの程度まですっかり変わったかです。覚醒の唯一の意味はすっかり新しい見るやり方、新しい生き方、新しい関係の仕方があるかどうかであるということを私は言いたいのです。

 Q: あなた、私は質問をしたいのです。もちろん ひとが全体観的な生を送っているとして、クンダリーニのようなものがありますか?

 K: あなた、あなたは全体観的な生を生きていますか?

 Q: いいえ。

 K: したがって、その質問をしないこと。

 P: 私はまったく違う観点から尋ねているのです。理解されているように、クンダリーニは人体の特定の肉体的場所に存在する、特定のサイキック エネルギーの覚醒です。そして種々の実践を通じてサイキック エネルギーを目覚めさすことが出来ます。それらのエネルギーはそのとき、これら種々の精神生理学的状態とセンターを通り抜けるにつれて、意識を変化させます。そして最終的に突破するとき、それらは自己中心的活動を貫通します。これが全体の物事の基本的な意味に相違ありません。

 Apa: メスカリンがそれをすることが出来ます。あなたはそれをすることが出来ます。

 P: 私はただクリシュナジに、エネルギーが覚醒する時に、覚醒させられてではなくて、覚醒する時に、完全に中心を拭い去るエネルギーがあるかどうかを尋ねているのです。

 K: 私はそれをほかの仕方で述べましょう。自己中心の運動が止まらない限り、他方のものは有り得ません。

 A: 私は言いますが、ハタヨーガの伝統全体が、これらのセンターを操作することによって自分自身に大いに影響を与えることが出来るという信念を発生させています。全体の観念が誤った信念に基づいています。

 P: あらゆることを拭い去りましょう。

 A: それを拭い去らなければなりません。

 P: この議論で進むことが出来ると思えないので、別の質問をしていいでしょうか? 限界のないものを受け取ることが出来るように、準備されることが必要な場の性質は何でしょうか?

 K: それを受け取るために、脳の、心の土壌をあなたは養成しているのですか?

 P: あなたの質問はわかります。しかし、私はそれに、はいとも、いいえとも言えません。

 K: では、何故それをエネルギーと呼び、「土壌」という言葉を持ってくるのでしょうか? 準備しなさい、それに取り組みなさい。私たちは矛盾、葛藤、悲惨の生を生きます。私はそれが悲しみ、人間の悲しみの全体を終わらせることが出来るかどうかを見出したいのです。そこで慈悲の性質を調べます。

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 S: 生きることの何かほかのやり方があるでしょうか? その中では慈悲もまた自己の養成の一部であるような。なぜあなたはこの質問をするのでしょうか? なぜあなたは土壌を養成することを望むのでしょうか?

 K: そのエネルギーを受け取るためにその土壌を養成しようとする動機を持つ限り、あなたはそれを決して受け取れないでしょうと私は言います。

 S: 動機とは何でしょうか、あなた? それは獄舎全体です。獄舎全体を見てこれから出る何かほかの道があるかどうかを尋ねること、それは動機でしょうか? そうなら、人は輪の中に、罠に捕まってしまいます。

 K: いいえ、あなたは聞いていなかったのです。私は苦しみ、悲惨、混乱の生を生きます。それが私の基本的な感覚です。そしてそれは終わることができるでしょうか? 動機はありません。

 S: ここに動機はありません。しかしあなたはまた更に進んだ質問をしています。

 K: いいえ。私は更に進んだ質問をしていません。あの最初の質問だけです。その過程全体が終わることが出来るでしょうか? そのときのみ、まさに私はほかの質問に答えることが出来るのです。それはものすごい意義を持っています。

 P: 他方のものを受け取るために養成されなければならない、人間の心の土壌の性質は何でしょうか? あなたはそれもまた間違った質問であると私に告げます。あなたは私は葛藤の中にいる、私は苦しんでいると言い、そして私は葛藤と苦しみの生は終わりがないことを見ます。

 K: それがすべてです。それが終わることが出来ないなら、そのとき、ほかの調査と探求、そしてこの事を一掃するために他方のものを目覚めさせようと望むことは間違った過程です。

 P: 明らかに。

 K: それは外部機関に、来てあなたの家をきれいにするように頼んでいるのです。家を、この家をきれいにする過程の中には、起こるであろうとても多くのことがあると私は言います。あなたは千里眼、いわゆる「シッディ(成就の境地、不思議力)」、その他もろもろを持つでしょう。それらはすべて起こるでしょう。しかし、それらに捉えられるなら、あなたは更に進むことは出来ません。それらに捉えられないなら、天国はあなたに開いています。あなたは尋ねています、ププル。準備されなければならない土壌が、それを受け取るためではなくて、準備されなければならない土壌があるでしょうか? 準備なさい。それに取り組みなさい。逃避の影がないほど完全に家をきれいになさい。そのとき、私たちが皆で話している状態が何であるか、私たちは尋ねることが出来ます。あなたがそれをしているなら、そのままにするのではなく、準備しているなら、悲しみの終わりに取り組んでいるなら、あなたがそれに取り組んでいて、そしてやって来て、クンダリーニ パワーとして知られている何かがあるのでしょうかと言うなら、そのとき、私は喜んで聞きます。

 A: あなた、何故私が異議を申し立てたかの理由は、ハタ ヨーガ プラヂピカ テキストの中に、このクンダリーニの探求は、探索の中であなたを強化するためであるという陳述がされているということです。

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 K: 一体全体、アシュユットジ、あなたは家をきれいにすることに取り組んでいるでしょうか?

 A: 確かに。

 K: さて、問題は何でしょうか? 非-機械論的な、終わりのない、それ自身を再生しているエネルギーがあるでしょうか? 私はあると言います。もっとも確かに。しかしそれはあなたがクンダリーニと呼ぶものではありません。身体は敏感でなければなりません。あなたが働いているなら、家をきれいにしているなら、身体は非常に敏感になります。身体はそのときそれ自身の英知を持ちます。心が身体に指図する英知ではありません。したがって、身体は途方もなく敏感になります。それの欲望に敏感、あるいは何かを望むことに敏感なのではなく、それ自体で敏感になるのです。いいですか? そのとき、何が起こりますか? あなたが、私がそれに入ることを本当に望むなら、そうしましょう。クンダリーニの覚醒について話す人たち、私は質問します。彼らは他方のものに取り組んでいません。しかし、クンダリーニを目覚めさせたと言います。したがって、私は彼らの能力、彼らの真実を問います。私は敵対的であるのではなくて、それを問うているのです。肉を食べ、評判を望み、これやあれを望み、そして自分のクンダリーニは覚醒していると言う人、私はそれは無意味なことであると言います。何時もこの家の浄化がなければなりません。それからププルが言います。「私が存在するに違いないと感じるエネルギーについて話すことができるでしょうか?」、理論的にではなくて、彼女がそれについて一瞥を持ったもの、それの感覚、終わりのないエネルギーを。そしてKがやって来て「はい」と言います、その様なものがあると。何時もそれ自体を再び新しくしている、機械論的でない、原因を持たない、始まりを持たず、したがって終わりのないエネルギーがあります。それは永遠の運動です。私はあると言います。聞き手に対してそれはどんな価値があるのでしょうか? 私は「はい」と言い、あなたは私の言うことを聞きます。私は自分自身に言います、それはあなたにとってどんな価値を持っているのでしょうか? あなたはそれの中に陥り、家を整理しないのでしょうか?

 P: そのことは、あなた、尋ねる人にとって、それは苦しみの終わりであり、不可欠である土壌の養成であるということを意味します。

 K: 唯一の仕事。ほかに何もありません。それはもっとも神聖なものであり、それゆえ、それを招くことは出来ません。そしてあなた方は皆それを招いています。

 家をきれいにすることはものすごい規律を要します、制御、抑圧、服従の規律ではなく。わかりますか? それ自体の中で、それはものすごい注意を要します。完全な注意を傾けるとき、そのとき、まったく異なる種類のことが起きているのを見るでしょう、反復のないエネルギーを、そして来たり去ったりしていないエネルギーを見るでしょう。それはある日それを持ち、一ヶ月後はそれを持っていないというようにではありません。それは心を完全に空白に保つことを意味します。あなたはそれをすることが出来るでしょうか?

 VA: しばらくの間は。

 K: いえ、いえ。私は尋ねました。心はそれ自体を空白に保てるでしょうか? そのとき、そのエネルギーがあります。あなたはそれを求める必要さえありません。空間があるとき、それは空白で、それゆえエネルギーに満ちています。そこで、浄化する中で、家の、悲しみの物事の終わりの中で、心はどんな動機も、どんな欲望もなしに完全に空白であることが出来るでしょうか? あなたがこれに、家をきれいに保つことに取り組んでいるとき、ほかのことは自然に生じます。それのために土壌を準備しているのは、あなたではありません。それが瞑想なのです。

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 P:そしてそれの性質は人間の心の変容です。

 K: あなたは、アパ サへブが言っていたように、私たちが数世紀の条件付けにプログラムされているのを見ます。それの停止があるとき、それの終わりがあります。あなたがコンピュータのプラグを抜くなら、それはもはや機能できません。さて、質問があります。その中心は、それは利己性ですが、終わることが出来るでしょうか? 持続し続けるのでなく? その中心は終わることが出来るでしょうか? それが終わるとき、時間の運動はありません。それがすべてです。中心から周辺への心の運動が停止するとき、時間は止まります。利己性の運動がないとき、まったく異なる種類の運動があります。

​ Bombay 18th January,1977

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