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210 三浦 関造 著   1955頃

竜王文庫

 

恐怖の中心的な根

J. Krishnamurti: Exploration into Insight -
'The Central Root of Fear' New Delhi 13th November 1972
洞察の中への探究 - 「恐怖の中心的な根」

 P: クリシュナジ、恐怖に直面することの中で、英知が最大の守りであるとあなたは言いました。問題はこうです。危機の中で、無意識からの恐怖が押し寄せるとき、英知にとっての場所はどこなのでしょうか? 英知は邪魔をして入って来るものの否定を必要とします。それは聞くこと、見ること、観察を必要とします。しかし、存在全部が制御できない恐怖によって、原因を持っているが その原因は即座には識別されない恐怖によって押し流されるとき、その状態の中に英知にとっての場所がどこにあるのでしょうか? 人間の心のまさに基盤に横たわっている原始の、元型的な恐怖をどうやって処理しますか? これら恐怖の一つは自己の破滅、存在しないという恐怖です。

 K: 私たちが一緒に調べているものは何でしょうか?

 P: どうやって恐怖を処理しますか? あなたはまだそれに答えていません。あなたは最大の守りである英知について話しました。それはそうです。しかし、恐怖がどっと押し寄せるとき、英知はどこにあるのでしょうか?

 K: 恐怖の大きな波の瞬間、英知はないとあなたは言っています。そしてその瞬間、恐怖のその波をどうやって処理できるか? それが質問でしょうか?

 S: 人は恐怖をあたかも木の枝のように見ます。しかし、私たちはこれら恐怖を一つづつ処理し、しかも恐怖からの自由はありません。恐怖を枝がなく見る資質はあるのでしょうか?

 K: Kは言いました。「私たちは、葉、枝を見るのでしょうか、それとも恐怖の根そのものに行くのでしょうか?」

 S: 私たちは恐怖の各一本の枝の根に行くことが出来るでしょうか?

 K: 見出しましょう。

 P: 一つの恐怖を通じて、全体を見るに至るかもしれません。

 K: わかります。意識的と無意識的恐怖があり、時々 無意識的恐怖が途方もなく強くなり、それらの瞬間には英知は働いていないとあなたは言っていますね。制御できない恐怖のそれらの波をどうやって処理できるでしょうか? そういうことでしょうか?

 P: これらの恐怖は物質的な形を取るように思われます。それはあなたを圧倒する物理的なものです。

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 K: それはあなたを神経的に、生物的に動転させます。調べましょう。恐怖が存在します。意識的に、あるいは深いところに。孤独の感覚があるとき、他のひとによって完全に見捨てられたという感じ、完全な孤立の感覚、存在しないという感覚、まったくの無力感があるとき。そしてそれらの瞬間、深い恐怖が起きるとき、明らかに英知はなく、制御できない、招かれていない恐怖があります。

 P: 知っている恐怖に面していると感じるかもしれませんが、しかし無意識的に圧倒されます。

 K: それが私たちが言っていることです。それを討論してください。人は肉体的、意識的恐怖を処理できます。英知のぎりぎりのところがそれらを処理できます。

 P: それらの恐怖が開花するのを許すことさえ出来ます。

 K:そのとき、その開花そのものの中に英知があります。さて、もうひとつのものをどうやって処理しますか? 何故無意識は―さしあたってその「無意識」という言葉を使いましょう―これらの恐怖を保持するのでしょうか? あるいは無意識がこれらの恐怖を招くのでしょうか? それがこれらの恐怖を保持するのでしょうか、これらの恐怖は無意識の伝統的な深みに存在するのでしょうか、あるいは、それは無意識が周囲からかき集めるものなのでしょうか? さて、そもそも、何故無意識は恐怖を保持するのでしょうか? それらはすべて無意識の、人間の人種的 伝統的歴史の生まれつきの部分なのでしょうか? それらは受け継いでいる遺伝子の中にあるのでしょうか? どんなふうに問題を扱いますか?

 P: 二番目のものを、それは周囲から恐怖をかき集めることですが、議論できますか?

 K: まず最初に、一番目のものを取り扱いましょう。そもそも、何故無意識はそれらを保持するのでしょうか? 何故私たちは意識のより深い層を倉庫として、恐怖の残滓として考えるのでしょうか? それらは私たちが生活している文化によって、意識的な心によって押し付けられているのでしょうか? 意識的な心は、恐怖を処理できないので、それを下に押し込んでしまい、それゆえ恐怖は無意識のレベルに留まるのでしょうか? それとも、それはすべての内容を持っている心が、その問題を解消していないでいて、それらを解消できないことに脅えているということでしょうか? 私は無意識の意義が何なのかを見出したいと思います。あなたはこれらの恐怖の波がやって来ると言ったのに、私はそれらは常にそこにあると言います。しかし、危機の中で、あなたはそれらに気づくのです。

 S: それらは意識の中に存在します。何故あなたはそれらは無意識の中にあると言うのでしょうか?

 K: まず第一に、意識はその内容から成り立っています。その内容なしに意識はありません。その内容の一つはこの基本的な恐怖であり、意識的な心は決してそれに取り組みません。それはそこにあります。しかし、意識的な心は決して「私はそれを処理しなければならない」とは言いません。危機の瞬間に、意識のその部分は目覚め、怖れます。しかし、恐怖は常にそこにあるのです。

 P: 私はそれがその様に単純だとは思いません。恐怖は人間の文化的遺産の一部ではないでしょうか?

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 K: 恐怖は常にそこにあります。それは文化的遺産の一部でしょうか? あるいは、人は恐怖を認めない国に、文化の中に生まれることが出来るでしょうか?

 P: そのような文化はありません。

 K: もちろんその様な文化はありません。そこで私は自分自身に尋ねます。恐怖は文化の一部でしょうか、それともそれは人間の中に本来備わっているのでしょうか? 恐怖は、獣に存在するような、あらゆる生き物に存在するような、存在しないという感覚です。破滅させられることの恐怖。

 P: 恐怖の形を取る自己保存本能。

 K: それは細胞の全構造が存在しないのを怖れているということでしょうか? それはあらゆる生きているものに存在します。小さな蟻さえ存在しないことを怖れます。私たちは恐怖がそこにあるのを、人間の一部であるのを見ます。そして人は危機の中でそれにものすごく気づきます。恐怖の大波が起こるその瞬間、どうやって恐怖を処理しますか? 何故私たちは危機を待つのでしょうか? 私はただ尋ねているのです。

 P: それを避けることは出来ません。

 K: ちょっと待ってください。私たちはそれは何時もそこにある、それは私たち人間の構造の一部であると言います。生物学的、心理的、存在の全部の構造が怖れています。恐怖はそこにあります。それはもっとも小さい生きているもの、もっとも小さい細胞の一部です。私たちは何故危機が来てそれを持ち出すのを待つのでしょうか? それは恐怖のもっとも不合理な受容です。私は言います。恐怖を処理するのに何故危機を持つべきなのでしょうか?

 P: そうでなければ、それは非-存在なのです。私は一部の恐怖には聡明に直面できます。ひとは死の恐怖に直面します。それに英知をもって直面することが出来ます。ほかの恐怖に聡明に直面することが出来るでしょうか?

 K: あなたはこれらの恐怖に聡明に直面できると言います。私はあなたがそれらに聡明に直面しているのかどうか疑わしいと思います。恐怖を解消してしまう前に、英知を持てるかどうか疑わしい。英知は恐怖がないときのみ生まれます。英知は光であり、光がないとき、暗やみを処理できません。光は暗やみがないときのみ存在します。私は恐怖が存在するとき、恐怖を聡明に処理できるかどうかを疑っているのです。私は、あなたは出来ないと言います。あなたはそれを合理化するかもしれません。あなたはそれの性質を見、それを避けたり、それを超えるかもしれません。しかし、それは英知ではありません。

 P: 私は起きる恐怖に気づいている中に、それをかまわずにおくことの中に、それを形作らないことの中に、それから顔をそむけないで恐怖を解消することの中に英知はあると言いたいのです。しかし、あなたは英知があるところ、恐怖は起こらないと言います。

 N: 恐怖は起こらないでしょうか?

 K: しかし、私たちは恐怖が起こるのを許しません。

 N: 私は恐怖は起こると思います。私たちはそれが開花することを許しません。

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 K: ほら、私は要するに危機に対する反応全部を問うているのです。恐怖がそこにあります。なぜあなたはそれを目覚めさせるために危機を必要とするのでしょうか? 危機が起こり、目覚めるとあなたは言います。言葉、身振り、目つき、動き、思考、それらは恐怖を引き出すとあなたが言う挑戦です。私は尋ねています。何故私たちは危機を待つのでしょうか? 私たちは調査しています。「調査する(investigate)」というその言葉は何を意味するかご存知ですか?―「跡をたどり抜く」。したがって、私たちは跡をたどり抜いているのです。私たちはこれやあれや他のことを言っているのではありません。私たちはそれを追っているのです。そして私は尋ねています。私たちは何故危機を待つのでしょうか? 身振り、思考、言葉、目つき、ささやき、これらのどれも挑戦です。

 N: 私は危機を求めません。私が気づく唯一のことは、それが起こり、私が麻痺することです。

 K: あなたは麻痺する、何故? したがってあなたにとっては、挑戦は必要なのです。あなたはなぜ挑戦の前に恐怖に接触しないのでしょうか? あなたは危機が恐怖を目覚めさせると言います。危機は思考、身振り、言葉、ささやき、目つき、手紙を含みます。恐怖を目覚めさせるのは挑戦でしょうか? 私は自分自身に言います。何故挑戦なしにそれに目覚めないのでしょうか? 恐怖があるなら、それは目を覚ましているに違いありません。それともそれは眠っているのでしょうか? そして、それが眠っているなら、何故それは眠っているのでしょうか? 意識的な心は、恐怖が目を覚ますかもしれないことを怖れているのでしょうか? それが恐怖を眠りにつかせ、それを見ることを拒んでいるのでしょうか?

 

 ゆっくり行きましょう、私たちはロケットの跡を追跡しているのです。意識的な心が恐怖を見るのを怖れており、それゆえそれが恐怖を静かに保っているのでしょうか? それとも恐怖はそこに目覚めてあり、そして意識的な心がそれを開花させようとしないのでしょうか? 恐怖は人生の、生存の一部であることをあなたは認めますか?

 P: あなた、恐怖は外部の経験の刺激なしに、外部の経験から離れた独立の存在ではありません。

 K: 待ってください。私はそれを疑います。私はそれを受け入れません。あなたは、外部の刺激なしには、それはないと言っています。それがあなたにとって真実なら、私にとってもそうでなければなりません。なぜなら私は人間ですから。

 P: 私はその中に外部と内部の刺激両方を入れています。

 K: 私は外部と内部を分割しません。それは皆一つの運動です。

 P: 恐怖は刺激から離れて存在しません。

 K: あなたは話題を変えています、ププル。

 P: あなたは、何故それを見ないのか、何故それに直面しないのか?と尋ねています。

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 K: 私は自分自身に言います。「私はこの恐怖が目覚めるために、危機を待たなければならないのだろうか?」それが私の質問のすべてです。恐怖がそこにあるなら、誰がそれを眠らせたのでしょうか? それは、意識的な心が恐怖を解決できないからでしょうか? 意識的な心は恐怖を解決することに関わり、そうすることが出来ないので、それを眠らせ、それを黙らせます。そして、危機が生じ、恐怖が起こるとき、意識的な心は震えます。そこで私は自分自身に言います、何故意識的な心は恐怖を抑圧しなければならないのでしょうか?

 S: あなた、意識的な心の道具は分析、認識の能力です。これらの道具で恐怖を取り扱うことは不適切です。

 K: それは恐怖を取り扱えません。しかし必要なのは分析ではなく、実際の単純さです。意識的な心は恐怖を取り扱えません。したがって、それは私は恐怖を避けたい、私はそれを見つめることができないと言います。あなたがしていることを見てください。あなたは危機が恐怖を目覚めさせるのを待っています。そして意識的な心は何時も危機を避けています。それは避けており、理由をつけ、合理化しています。私たちはこのゲームの主人です。したがって、私は自分自身に、恐怖がそこにあるなら、それは目覚めていると言います。私たちの遺伝の一部であるものを眠らせておくことは出来ません。意識的な心が恐怖を眠らせたと思っているだけです。危機が起こるとき、意識的な心は震えます。したがって、それを違ったふうに取り扱いなさい。それが私の要点の全てです。これは真実でしょうか? 基本的な恐怖は非-存在に属するものです。不確かさの、生きていないことの、死についてのまったくの恐怖の感覚です。何故心はその恐怖を引き出し、それと共に動かないのでしょうか? 何故それは危機を待つべきなのでしょうか? あなたが怠惰であり、それゆえ恐怖の根に行くエネルギーを得ていないのでしょうか? 私が言っていることは不合理でしょうか?

 P: 不合理ではありません。私はそれが根拠があるかどうか見ようとしています。

 K: 私たちは、あらゆる生きているものは存在しないことを、生き残らないことを怖れていると言います。恐怖は私たちの血球の一部です。私たちの全存在は存在しないことを怖れます。死ぬことを怖れます。殺されることを怖れます。それゆえ、存在しないことの恐怖は、生物学的構造のみならず全心理的構造の一部です。そして私は自分自身に尋ねています。何故危機が必要なのでしょうか、何故挑戦が重要にならなければならないのでしょうか? 私は挑戦に異議を申し立てます。私は挑戦に後れを取るのではなく、挑戦に先んじたいのです。

 P: 人はあなたが言っていることに加わることが出来ません。

 K: なぜ出来ないのでしょうか? 私はそれをあなたに示しましょう。私は自分が死に掛けているのを知ります。しかし、私は死を知的なものにし、合理化してしまいます。したがって、私の心は死にはるかに先んじていると私が言うとき、そうではないのです。それは思考に先んじているだけです―それは先んじていることではありません。

 P: それの現実を取り上げましょう。人は死に直面し、自分が一歩先んじていると感じます。そしてどんどん進み、突然死に先んじていないことを実感します。

 K: それはわかります。それは全て挑戦の結果です。それが昨日起ころうが一年前に起ころうが。

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 P: そこで質問があります。どんな道具で、どんなエネルギーで、どんな次元から見るのでしょうか。そして何を見るのでしょうか?

 K: 私は明確でありたいと思います。恐怖は私たちの構造の、遺伝の一部です。生物学的に、心理的に、脳細胞は存在しないことを怖れます。そして思考は、私はこのことを見ようとはしないと言います。それゆえ、挑戦が起こるとき、思考はそれを終わらせることが出来ません。

 P: 「思考は、私はそれを見たくないと言います」とあなたが言うとき、何を意味しているのでしょうか?

 N: 思考はまたそれを見ることも望みます。

 K: 思考はそれ自身の終わりを見ることが出来ません。思考はそれについて合理化できるだけです。私はあなたに、心は何故挑戦を待つのか? と尋ねています。それは必要でしょうか? それが必要だと言うなら、そのときあなたはそれを待っているのです。

 P: わからないと私は言います。私は挑戦が起こり、そして恐怖が起こることがわかるだけです。

 K: いいえ、挑戦は恐怖を目覚めさせます。それに固執しましょう。そして私はあなたに言います。あなたは何故これを目覚めさせるのに挑戦を待つのでしょうか?

 P: あなたの質問は逆説です。あなたは挑戦を待たないが、しかし挑戦を引き起こすと言うのでしょうか?

 K: いいえ、私はまったく挑戦に反対します。あなたは私の要点を捕らえそこなっています。私の心はどんな時でも挑戦を受け入れようとはしないでしょう。挑戦は目覚めさせるのに必要ではありません。私は眠っており、私を目覚めさせるには挑戦が必要だと言うのは間違った陳述です。

 P: いいえ、あなた、それは私が言っていることではありません。

 K: それで、それは目が覚めています。さて何が眠っているのでしょうか? それは意識的な心でしょうか? それとも無意識の心が眠っていて、目覚めている 心の或る部分があるのでしょうか?

 P: 私が目覚めているとき、私は目覚めています。

 N: 恐怖を招くのですか?

 K: 目覚めているなら、何の挑戦も必要ありません。そこであなたは挑戦を拒否します。私たちが言ったように、私たちが死ぬであろうということが生の一部であるなら、そのとき人は何時も目覚めています。

 P: 何時もではありません。恐怖を意識していないのです。しかし、それは何時もそこに、絨毯の下にあります。しかしそれを見ないのです。

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 K: 私は、それは絨毯の下にある、それを持ち上げて見よ、と言います。それはそこにあります。それが私の要点の全てです。それはそこにあり、そして目覚めています。それゆえ、それを目覚めさせるのに挑戦はいりません。私は何時も存在しないこと、死ぬこと、達成しないことを怖れています。それは私たちの生の、私たちの血の基本的な恐怖であって、そしてそこにあり、何時も見張り、警戒し、それ自身を保護しています。しかし、それは非常に目覚めています。それは決して一瞬も眠っていません。したがって挑戦は必要ではありません。それについて何をするか、そしてそれをどうやって処理するかは後で生じます。

 P: それは事実です。

 A: この全てを見て、あなたは不注意の要素を受け入れないのでしょうか?

 K: 私はそれは目を覚ましていると言いました。注意については話していません。

 A: 恐怖は活動的で、機能しています。

 K: それは部屋の中の蛇のようなものです。それは何時もそこにいます。私はどこかよそを見るかもしれません。だがそれはそこにいます。意識的な心はそれをどう処理するかに関わります。そして、それはそれを処理できないので退きます。意識的な心は次に挑戦を受け、それに直面しようとします。あなたは生きているものに直面できますか? それは挑戦を必要としません。しかし、意識的な心は恐怖に対して、見て見ぬふりをしてきたので、挑戦が必要とされるのです。いいですか、ププル?

 N: そのことを考えるとき、それはただの思考です。その影はなお心の中にあります。

 K: それを追跡しましょう。結論に飛びつかないこと。あなたは結論に飛びついています。私の心は挑戦を拒否します。意識的な心は挑戦がそれを目覚めさせるのを許しません。それは目覚めています。しかしあなたは挑戦を認めます。私は挑戦を認めません。それは私の経験の範囲内にありません。
次の問題です。意識的な心が恐怖に目覚めているとき、そこにあるものを招くことは出来ません。一歩一歩行きましょう。どんな瞬間も結論しないこと。そこで、意識的な心はそれが十分に目覚めてそこにいるのを知ります。そのとき、私たちは次に何をしようとするでしょうか?

 P: そこに不適当が横たわっています。

 N: 私は目覚めています。

 K: あなたは要点全体を見失っています。これを怖れているのは意識的な心です。それが目覚めているとき、それは怖れません。本質的に、それは怖れません。蟻は怖れません。それが押しつぶされるなら、それは押しつぶされます。私はこれを、存在しないことを怖れると言うのは意識的な心です。しかし、私が事故に出会うとき、飛行機が墜落します、恐怖はありません。死の瞬間、私は「そうだ、私は今死ぬとはどういうことか知っている」と言います。しかし、意識的な心はその全ての思考と共に「神様、私は死のうとしている、私は死にたくない、私は死んではならない、私は自分自身を守らなければならない」と言います。それが怖れることです。今までに一度も蟻を見つめたことがありませんか? それは決して怖れません。誰かがそれを殺せば、それは死にます。いまあなたは或る事を見ます。

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 N: あなた、あなたは今までに蟻を見たことがあるのですか? 蟻の前に一枚の紙を置くと、蟻はそれから巧みに身をかわします。

 K: それは生き残ることを望みますが、生き残ることについて考えているのではありません。そこでそれに戻りましょう。思考は恐怖をつくり出します。「私は死ぬだろう、私は淋しい。私は成就していない。」と言うのは思考だけです。これを見てください。それは始めも終りもない永遠です。それは実在の永遠です。いかにそれが並外れているか見てください。恐怖が私の存在の一部であるなら、何故私は怖れなければならないのでしょう? 恐怖があるのは、生は違っていなければならないと思考が言うときだけなのです。心は完全にじっとしていることが出来るでしょうか? 心は完全に安定していることが出来るでしょうか? そのとき、そのことが生じます。そのことが目覚めるとき、そのとき恐怖の中心的な根は何でしょうか?

 P: それはかつて、あなたに起こったのでしょうか、あなた?

 K: 数回、何回も。どんなたじろぎ、否定でない受容も、合理化や逃避もいずれもなしに、心が完全に安定しているとき、どんな種類の運動もありません。私たちはそれの根に達したのではないでしょうか?

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