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25 Letters to the Schools  1981

 邦訳 『学校への手紙』 古庄高 訳

→『アートとしての教育』小林真行 訳

コスモス・ライブラリー 

026時間の終焉.jpg

26 The Ending of Time   1985

コスモス・ライブラリー

019クリシュナムルティ・ノート.jpg

27 Krishnamurti's Journal  1982

たま出版

 

1949年 オハイの公開講話(第8回)

J. Krishnamurti Ojai 8th Public Talk 7th August 1949

 

 

 

 私はきっと、あなた方の多くが不死、霊魂、あるいはアートマンなどを信じていると思います。そして多分あなた方の何人かはこれらのことの一時的な経験を持ったでしょう。しかし、よろしければ、今朝は違った観点からそれに接近してみたいと思います。非常に真剣に、まじめに、それに突っ込んでいき、その真実を明らかにしましょう―何か特定の型の信念や宗教的教条、あるいはあなた自身の個人的経験に従ってではなく。それは雄大であるかもしれないし、美しくロマンチックであるかもしれませんが。それゆえ、どうか私たちが議論しようとしていることを、聡明に、何の先入観もなしに、それを拒否するとか防衛するというよりはむしろ見いだそうという意図を持って検査してください。なぜなら、それは議論するにきわめて難しい問題であるからです。含蓄は多く、それを新たに考えることができるなら 、たぶん私たちは行為と生に違った接近をするでしょう。

 私たちは観念が非常に重要であると考えるように思われます。私たちの心は観念で一杯です。私たちの心は観念です―観念のない、思考のない、言語化のない心はありません。そして観念は私たちの生の中で甚だしく重要な役割を演じます。私たちが考えること、感じること、私たちが条件付けられている信念と観念。観念は私たちの大部分にとって途方もない意義を持っています。首尾一貫し、聡明で、論理的に見える観念。そしてまたあまり意義のないロマンチックで愚かな観念。私たちは観念でぎゅうぎゅう詰めです。私たちの全構造はそれらに基づいています。そして、明らかにこれらの観念は、内部の要求を通してだけでなく、外部の影響と環境の条件付けを通して生じます。どんなふうに観念が生じるかを私たちは非常によく見ることができます。観念は感情です。感情なしに観念はありません。私たちの大抵は感情を餌にしているので、私たちの全構造は観念に基づいています。限定されており感情を通して拡張を求めるので、観念は非常に重要になります。神についての観念、道徳についての観念、社会組織の種々の形態についての観念などなど。

 それゆえ、観念が私たちの経験を形作ります。それは明らかな事実です。すなわち、観念が私たちの行為を条件付けます。行為が観念を作り出すのではなくて、観念が行為を作り出します。まず、私たちは考え抜き、それから行為します。すると行為は観念を基盤にします。それゆえ、経験は観念の結果です。しかし経験は経験することとは違います。経験している状態の中には、あなたが注意しているなら、観念形成はまったくありません。単に経験すること、行為することがあるに過ぎません。後にその経験から誘導されて、好きとか嫌いとかの観念形成が生じます。私たちはその経験が継続することを望むか、継続しないことを望むかどちらかです。それを好むなら、記憶の中の経験に戻ります。それはその経験の感情を求める要求です―新たに経験することではなく。確かに、経験することと経験の間には違いがあります。そしてそのことはかなり明確にされなければなりません。経験している中には経験者と経験はありません。経験している状態があるだけです。しかし経験することのあとで、その経験することの感情が要求されます、熱望されます。そしてその欲望から、観念が生じます。

 例えば、仮にあなたが楽しい経験を持ったとします。それは過ぎました。そしてあなたはそれを熱望しています。すなわち、その経験している状態ではなく、感情を熱望しているのです。そして感情は、快と苦、回避と受容、否定と継続に基づいて観念をつくり出します。さて、観念は基本的に重要ではありません。なぜなら、観念は継続性を持っているということを人は見るからです。あなたは死ぬかもしれませんが、あなたが持った観念、あなたがそれである観念の束は継続性を持っています。部分的にせよ 全部にせよ、充分に明らかであるにせよ 少々であるにせよ。しかしそれらは継続の形を明らかに持っています。

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 それゆえ、観念が感情の結果であるなら、それらはそうなのですが、そして心が観念で一杯であるなら、心が観念なら、そのとき観念の束としての心の継続があります。しかしそれは確かに不死ではありません。なぜなら観念は単に感情の、快と不快の結果であるに過ぎないからです。そして不死は観念を超えた、心がとても思索できないものであるに違いありません。なぜなら心は快と苦、回避と受容の見地で思索できるだけであるからです。心は、いかに広くあろうとも いかに深くあろうともそれらの見地で考えることができるだけなので、それはなお観念に基づいています。しかし思考、観念は継続性を持ち、継続するものは明らかに不死ではありません。それゆえ、不死を知る、あるいは経験するためには、あるいはその状態を経験していることのためには、何の観念形成もあってはなりません。人は不死を考えることはできません。私たちが観念形成がないでいられるなら、すなわち観念の見地で思わないなら、そのとき経験している状態だけが、その中に観念形成がまったく停止してしまっている状態があります。あなたはこれをあなた自身実験できます。そして私が言っていることを受け入れないでください。なぜなら、この中にはたくさんのことが含まれているからです。心は退いたり進んだりすることも、深く潜ったり高く舞ったりすることもなく、まったく静かであるに違いありません。すなわち観念形成はまったく止まっているに違いありません。そしてそれはきわめて困難です。それが私たちが魂、不死、継続、神、というような言葉に執着する理由です―それらはすべて神経学的な影響を持っており、それは感情です。そしてこれらの感情を心は餌にするのです。心からこれらのものを取り上げて御覧なさい。それは途方に暮れます。それゆえ、それは過去の経験に大きな力でしがみつきます。それはいまや感情になります。

 心がそんなに静かであることができるでしょうか―部分的でなく、その全体として―、考えることのできないものの、言葉にすることのできないものの直接の経験を持つように? 継続するものは明らかに時間の限界の内側にあります。そして時間を通しては、初めも終わりもないものは生じることができません。したがって神、あるいはあなたの呼びたいもの、は考えることはできません。あなたがそれを考えるなら、単に観念、感情があるに過ぎません。したがってそれはもはや真実のものではありません。それは単に継続性を持つ、相続され条件付けられた観念に過ぎません。そしてそのような観念は永遠の、不死の、初めも終わりもないものではありません。実際にこのことを感じること、その真実を私たちがそれを議論するとき見ることが絶対必要です―「これはそうである、あれはそうでない」、「私は不死を信じ、あなたは信じない」、「あなたは不可知論者で、私は神を敬う」と言わないでください。そのような表現のすべては未熟で、無思慮であり、意味がありません。私たちは単なる意見の、好きや嫌いの、偏見の事柄ではないものを取り扱っているのです。私たちは不死とは何であるかを見いだそうとしているのです―何か特別のカルトや何かに属するいわゆる信者がするようにではなく。そうでなくてそのものを経験するために、それに気づくために。なぜならその中に創造があるからです。一度それを経験することがあるとき、そのとき生の全問題は意義深い、革命的な変化を受けます。そしてそのことなしには、すべてのつまらない言い争いや取るに足らない意見は本当にまったく何の意味も持ちません。

 それゆえ、人はこの全体の過程に、どのように観念が生まれ、どのように行為が観念から跳び出し、そしてどのように観念が感情に依存して行為を制御し、それゆえ行為を限定するかに気づいていなければなりません。それらが誰の観念であるのか、左翼からか極右からかは問題ではありません。観念にしがみつく限り、私たちは経験することがまったくありえない状態の中にあります。そのとき私たちは単に時間の領域の中で生きているに過ぎません―過去の中で、それはいっそうの感情を与えます。あるいは未来の中で、それは感情のもう一つの形です。経験することがあり得るのは心が観念から自由であるときのみです。これをただ聞いてください。拒否したり受け入れたりしないでください。木々の中の風を聞くかのように、それを聞いてください。あなたは木々の中の風に抗議しません。それは気持ちがいいのです。あるいは、それが好きでないなら、あなたは去ります。同じ事をここでしてください。拒否しないでください。ただ見いだしてください。なぜなら、非常に多くの人がこの不死の問題について意見を述べました。宗教的教師が、街角のあらゆる牧師がするようにそれを話します。非常に多くの聖者が、非常に多くの作家が、否定したり主張したりします。彼らは不死があるとか、人は単に環境の影響の結果に過ぎないなどと言います―そんなにも多くの意見。

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 意見は真実ではありません。そして真実は瞬時瞬時、直接に経験されなければならないものです。それはあなたが欲する経験ではありません―それはそのとき単に感情に過ぎません。そして観念の束を超えることができるときのみ―それはミーです、それは心です、それは一部だけか全部そろった継続です―、それを超えることができるときのみ、思考が完全に静かであるとき、そのときのみ、経験している状態があるのです。そのとき真実が何であるか人は知るでしょう。

 質問: どうやって人は実在を、真実である経験の正確で不変の意義を間違いようなく知れば、あるいは感じればいいのでしょうか? 私が理解をもち、それが真実であると感じるときはいつでも、私がそれを伝えた人が、私は単に自分で惑わされているだけだと私に言います。私が理解したと思うときはいつでも、誰かがそこにいて私は幻想の中にいるのだと言います。思い違いなしに、自己欺瞞なしに、私自身について何が真実か知るやり方があるでしょうか?

 クリシュナムルティ: どのような形の同一化も幻想に通じるに違いありません。精神医学的幻想、そして心理学的幻想があります。精神医学的幻想をどうするか私たちは知っています。誰かが自分はナポレオン、あるいは偉大な聖者であると思うとき、あなたはどうするか知っています。しかし心理的同一化や幻想はまったく違います。政治的、宗教的な人が、国あるいは神と同一化します。彼は国です。そして、彼が才能があるなら、そのとき彼は、平和的にであろうが暴力的にであろうが、世界のほかの人にとって悪夢です。同一化の様々な形があります。権威との、国との、観念との同一化、信念との同一化、それは人にあらゆる種類のことをさせます。イデオロギーとの同一化、それのために、あなたはあらゆる人とあらゆる事を犠牲にするのをいといません。あなたが望むことを達成するために、あなた自身とあなたの国を含めて。理想郷との同一化、そのためにあなたは他の人たちを特定の型の中に強制します。それから、様々な役を演じる俳優の同一化があります。そして私たちの大抵は意識的にせよ無意識的にせよ、演技し、ポーズをつけるその位置にいます。

 それゆえ、私たちの困難は私たちが国と、政党と、宣伝と、信念と、イデオロギーと、指導者と、私たち自身を同一化させることです―そういったすべてが同一化の一つの種類です。

 次に私たち自身の経験との同一化があります。私は経験を、わくわくさせることを持ちました。そして私がそれにひたればひたるほど、それはますます強烈に、ますますロマンチックに、ますます感傷的に、ますますぼんやりとなります。そしてそれに私は神という名前を与えます―自己欺瞞の無数のやり方をご承知ですね。確かに幻想は私が何かに執着するとき起こります。私が過ぎ去った、終わった経験を持って、そしてそれに戻るなら、私は幻想の中にいます。私が何かが繰り返されることを望むなら、私が経験の反復を手離さないなら、それはきっと私を幻想に導きます。それゆえ、幻想の基礎は同一化です―イメージとの、神の観念との、お告げとの、あるいは私たちが熱狂的にしがみつく経験との同一化。私たちがしがみつくのは経験に対してではなくて、経験している瞬間に持った感情に対してです。自分の周りに種々の方法の同一化を樹立している人は幻想の中に生きているのです。感情のため、執着する観念のため信じるひとは、きっと幻想の中に、自己欺瞞のなかに生きます。したがってあなたが戻る、あるいは拒否するあなた自身についてのどんな経験もきっと幻想に通じます。幻想はあなたが経験を理解してそれをつかみ続けないときのみ止みます。この所有したいという欲望は幻想の、自己欺瞞の基盤です。あなたは何かであることを願います。そしてこの何かでありたいという願望は、幻想の、自己欺瞞の過程を理解するために理解されなければなりません。私が、私は来世において偉大な教師、偉大な大師、仏陀、X、Y、Zであるだろうと思うなら、あるいは私は今それであると思いそれをつかみ続けるなら、確かに私は幻想の中にいるに違いありません。なぜなら私は観念であるところの感情に生きており、そして私の心は、虚偽であろうが真実であろうが、観念を餌としているからです。

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 どうやって人は与えられた瞬間の経験が真実かどうかを知ればいいでしょうか? それが質問の一部です。なぜあなたはそれが真実であるかどうかを知りたいのでしょうか? 事実は事実です、それは真実や虚偽ではありません。私が欺瞞の中に入るのは、事実を感情、観念形成に従って翻訳することを望むときだけです。私が怒るときそれは事実です。自己欺瞞の問題はありません。私が欲望が強いとき、貪欲なとき、いらいらしているとき、それは事実です。私がそれを正当化し、それの説明を見いだしたり、私の好みの偏見に従って翻訳したり、避けたりし始めるときのみ―そのときのみ私は「何が真実か?」と尋ねるに違いありません。すなわち、事実に情緒的に、感傷的に、観念化を伴って接近する瞬間、そのとき幻想と自己欺瞞の世界に入るのです。事実を見、こういったすべてから自由であることは途方もない油断のなさを要します。したがって最も重要なことは、幻想の中や自己欺瞞の中にいるのかどうかではなくて、同一化しようという欲望、感情―それをあなたは経験と呼ぶのですが―を持とうという欲望、経験を反復したい、所有したい、あるいは回顧したいという欲望がないかどうかを自分自身で見いだすことです。結局、瞬時瞬時、あなたはあなた自身をあるがままに、事実に基づいて知ることができます。観念形成のスクリーンを通してではなく。それは感情です。あなた自身を知るためには、真実あるいは真実でないものを知る必要はありません。あなた自身を鏡の中に見て、あなたが醜いか美しいか、ロマンチックにではなく事実に基づいて知ることは、真実を必要としません。しかし私たちの大抵にとっての困難は、イメージ、表現を見るとき、私たちはそれに何かをしたがる、それを変え、それに違った名前を付けたがることです。それが快いなら、私たちはそれと同一化します。それが苦痛であるならそれを避けます。この過程の中に、確かに、自己欺瞞が横たわっています。それとあなたは少々親密です。政治家たちはそれをします。牧師は宗教の名において神を語るとき、それをします。そして私たち自身、観念の感情に捉えられそれをつかみ続けるとき、それをします―それは真実だ、これは虚偽だ、大師たちは存在する、あるいは存在しない―それはすべて非常にばかげていて、未熟で、子供じみています。しかし事実に基づくものを見いだすためには、人は途方もない油断のなさ、非難も正当化もない気づきを必要とします。

 それゆえ、国、信念、観念、人、などとの同一化があるとき、人は自分自身を欺き、そして幻想があると言うことができます。あるいは経験を、それは経験の感情なのですが、反復したいという欲望があるとき。あるいは子供のときに戻り、子供のときの経験、歓喜、親密さ、感受性の反復を望むとき。あるいは何かであることを望むとき。自分自身によって、あるいは他の人によって欺かれないことはきわめて困難です。そして何かでありたいという欲望がないときのみ、欺瞞は止みます。そのとき心は物事をありのままに見ること、あるがままのものの意味を見ることができます。そのとき虚偽のものと真実のものとの間の戦いはありません。そのとき虚偽のものとは別の真実を求める探索はありません。それゆえ、重要なことは心の過程を理解することです。そしてその理解は事実に基づいています。理論的ではなく、感傷的、ロマンチック、暗い部屋に入りすべてを考え抜くこと、イメージ・展望を持つことではなく―そういったすべては実在と何の関係もありません。そして私たちの大抵は感傷的で、ロマンチックで、感情を求めているので、私たちは観念に捉えられます。そして観念はあるがままのものではありません。それゆえ、観念、それらは感情です、のない心は、そのような心は幻想がありません。

 質問: 経験は、議論と葛藤が止み、ある種の平静さあるいは知的共感が実現されるときのみ理解が生じるということを示します。このことは数学的、技術的問題でも本当です。けれども、この平静さは分析、探査、実験のあらゆる努力がなされた後でのみ経験されてきました。このことは、この努力が平静さにとって、十分な準備ではないけれども必要であるということを意味するのでしょうか?

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 クリシュナムルティ: 皆さんは質問を理解したことと思います。質問者は、簡潔に言えば、掘り返し 分析し 検査する努力が、心の平静がある前に必要でないかと尋ねています。心が理解しうる前に、努力が必要ではないでしょうか? すなわち、創造的であることの前に、技術が必要ではないでしょうか? 私が問題を持っているなら、私はそのことに入って行き、充分に考え抜き、調査し抜き、分析し、解剖し、悩み、そして問題から自由になる必要があるのではないですか? 次に、心が静かなとき、答えが見いだされます。これが私たちが経る経過です。私たちは問題を持ちます。それを考えます。それを尋ねます。じっくり話します。それから心は、それに疲れて、静かです。そのとき、答えが知らないで見つかります。その過程を私たちはよく知っています。そして質問者は、最初にそれは必要ではないでしょうか?と尋ねています。

 なぜ私はその過程を経るのでしょうか? この質問を間違ってしないようにしましょう。それが必要か必要でないかではなく、なぜ私はその過程を経るのでしょうか? 明らかに、私はその過程を、答えを発見するために経るのです。私の悩みは答えを見出すことではないでしょうか? 答えを見いださない恐れは、私にこういったすべての事をさせます。そして次に、この過程を経た後で、私は疲れ果てて「私は答えることができない」と言います。それから心は静かになります。そして次に、時には、あるいは常に答えがあります。

 それゆえ、問題は、前置きの過程が必要であるかではなく、なぜ私がその過程を経るか?、です。明らかに、私が答えを求めているからです。私は問題にではなく、どうやって問題から逃げるかに興味を持っているのです。私は問題を理解することを求めているのではなくて、問題に対する答えを求めているのです。確かに違いがあるのではないでしょうか? なぜなら、答えは問題から離れてではなく、問題の中にあるからです。私は調査し分析し解剖する過程を、問題から逃避するために経ます。しかし私が問題から逃避せず、何の恐怖や不安もなしに見ようとするなら、私が単に数学的、政治的、宗教的、あるいは何か他の問題を見るだけで答えを目指さないなら、そのとき問題が私に語り始めるでしょう。確かにこれが起こることです。私たちはこの過程を経て、やがてそれからの出口がないので投げ捨てます。それゆえ、まさに始めから、なぜ出発できないのでしょうか、すなわち、問題に対する答えを求めないで?―それはきわめて困難ではないでしょうか? なぜなら、問題を理解すればするほど、ますます多くの意味がその中にあるからです。それを理解するためには、問題に私の考え、私の好きだとか嫌いだとかの感情を課さないで、それに静かに接近しなければなりません。そのとき問題はその意味をあらわにするでしょう。

 なぜまさに始めから心の平静を持つことができないのでしょうか? そして私が答えを求めていないとき、私が問題を恐れていないときのみ平静があるでしょう。私たちの困難は問題に絡んだ恐怖です。それゆえ、努力をすることが必要か否かという質問をするなら、虚偽の答えを受け取ります。

 違ったふうに見てみましょう。問題は注意を要求します、恐怖を通じての注意の散乱ではなく。そして私たちが問題から離れて答えを、私たちに適した、好ましい、満足や回避を与えるような答えを捜しているとき注意はありません。換言すれば、これらの何もなしに問題に接近することができるなら、そのとき問題を理解することができます。

 それゆえ、問題はこの分析し、検査し、解剖する過程を私たちが経るべきかどうか、それが平静を持つために必要であるかどうかではありません。平静は私たちが恐れていないとき生じます。そして問題を、問題の核心を恐れているので、私たちは私たち自身の追求の欲望、私たち自身の欲望の追求に捕らえられるのです。

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 質問: 私はもはや思考を抑圧しません。そして時に起こることによってショックを受けます。私はそのように悪くあることができるのでしょうか?(笑い)

 クリシュナムルティ: ショックを受けるのはいいことではないでしょうか? ショックは感受性を意味するのではないでしょうか? しかし、あなたがショックを受けないなら、あなたの中に好きでない特定のことがあると単に言い、それをしつけ、それを変えようとするだけなら、そのときあなたはショックプルーフなのではないでしょうか?(笑い) いいえ、どうかそれを笑い飛ばさないでください。なぜなら、私たちの大抵はショックプルーフであることを望んでいるからです。私たちは私たちがどんなであるかを知りたいと望んでいません。そしてそれが、私たちの国のためと私たち自身のため、隣人と私たち自身を抑圧し、鍛錬し、破壊することを学んできた理由です。私たちは私たち自身をあるがままに知ることを望まないのです。それゆえ、自分自身をそうであるままに発見することは、ショッキングなことです。そしてそれはそうあるべきです。なぜなら、私たちはそれが違っているように望むからです。私たちは私たち自身を美しく、高貴で、これやあれやであると思うことを、描くことを好みます―それはすべて抵抗です。私たちの徳は単に抵抗に過ぎなくなっており、したがってもはや徳ではありません。自分のあるがままに敏感であることは、ある自発性を要求します。そしてその自発性の中に人は発見します。しかし、思考と感情を非常に完全に抑圧し鍛錬したので自発性がないなら、そのとき何も発見する可能性はありません。そしてそれが私たちの大抵が望んでいることではないということが、私はまったく確かでないのです―内部で死ぬことが。なぜならそのように生きることがずっと容易であるからです―私たち自身を観念に、信念に、組織に、奉仕に、神様だけが知っているほかのことに捧げることが―そして自動的に作動することが。それはずっと容易です。しかし敏感であること、すべての可能性に内部で気づいていることはずっと危険で、あまりにも苦痛です。そして私たちは私たちを鈍くする立派なやり方、推奨されている形の鍛錬、抑圧、昇華、否定を用います―ほら、私たちを鈍く、鈍感にする様々な実践。

 さて、あなたがどんなであるかを発見するとき、それは質問者が言うように悪いのですが、あなたはそれをどうしますか? 以前に、あなたは抑圧し、したがって決して発見しませんでした。今あなたはもはや抑圧しません。するとあなたがどんなであるか発見します。あなたの次の反応は何でしょうか? 確かにそれがはるかに重要です―あなたがそれをどう扱うか、それにどう接近するか。そのとき何が起こりますか? あなたはあなたが悪いと呼ぶものである ということをあなたが発見するときに。あなたはどうしますか? あなたが発見するや否や、心はすでにそれに取り組んでいるのではないでしょうか? それに気づきませんでしたか? 私は私がさもしいのを発見します。それは私にはショックです。私はどうするでしょう? 心はそのとき言います。「私はさもしくあってはならない」、そこで気前のよさを養成します。手の気前のよさが一つのもので、ハートの気前のよさがもう一つのものです。気前のよさの養成は手で作ったものです。あなたはハートの気前のよさを養成することはできません。ハートの気前のよさを養成しようものなら、そのときあなたは心の物事でハートを一杯にします。それゆえ、気前のよくないある事を発見するとき、私たちはどうしますか? どうかあなた自身を見守ってください、私の答え、私の説明を待たないでください―それを見てください。そして私たちが共に進むにつれて、それを経験してください。これは心理学の教室であるということではありません。だが確かに、このような何かを聞くことの中で、私たちは経験し、進むにつれて自由になるに違いありません。来る日も来る日も同じ愚かなやり方で続けるのではなく。

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 それゆえ、私たちはどうしますか? 本能的な反応は正当化するか否定するかです。それは私たち自身を鈍感にすることです。しかしそれをあるがままに見ること、私がさもしいのを見ること、それから何の説明を与えることもなしに、そこに停止すること―単に自分がさもしいことを知ること、は途方もないことです。それは何の言語化も、自分の持つその感じの命名さえもないことを意味します。人が実際にそこに停止するなら、そのとき途方もない変容があるのがわかるでしょう。そのとき人はその感じの意味に広く気づいています。そのとき人はその感じに関して何かする必要はありません。なぜなら、事に命名しないとき、それは消えていきます。それを実験してください。するとあなたはいかに途方もない気づきの性質が生じるかを見出すでしょう。あなたが命名や正当化をしないで単に見ている、あなたが気前がよくない さもしいという事実を静かに観察しているなら。私は気前がいい、さもしいという言葉をただ伝達のために使っています。言葉はものではありません。それゆえ、言葉によって流されないでください。しかしこの事を見てください。確かに自分が何であるかが重要です。自分は非常にすばらしいと思っていたときに、自分のあるがままを発見してショックを受け、驚かされることが。自分がこれやあれやであると思うことはまったくロマンチックで、ばかげていて、愚かです。それゆえ、あなたがそういったすべてを脇にやり、単にあるがままのものを見るに過ぎないとき―それは途方もない油断のなさを要します。勇気でなく、徳でなく―、あなたがもはやそれを抑圧したり、正当化したり、非難したり、名づけたりしないとき―そのときあなたは変容があるのを見るでしょう。

 質問: 自分の思考-感情の知覚と、知覚された状態の修正や永久的な消滅の間の期間を決めるものは何でしょうか? 言い換えると、自分自身の中のある望ましくない状態が、観察されるとすぐに消えないのはなぜでしょうか?

 クリシュナムルティ: 確かに、それは正しい注意に依存するのではないでしょうか? 人が望ましくない性質を知覚するとき―私はこれらの言葉を単に伝達するために使用しているに過ぎません。私は「知覚すること」に何の特別な意義も与えていません―、変容がある前に時間の間隔があります。そして質問者は知りたがっています、なぜ? 確かに知覚と変化の間の間隔は注意に依存します。私が単にそれに抵抗しているに過ぎないなら、それを非難したり正当化しているなら注意があるでしょうか? 確かに注意はありません。私は単にそれを避けているに過ぎません。私がそれを克服しよう、鍛錬しよう、変えようとしているなら、それは注意ではないのではないでしょうか? 私が物事それ自身に十分に興味を持っているときのみ注意があります―どうやってそれを変えるかではなく。というのはそのとき、私は単に避けている、気をそらされている、逃げているに過ぎないからです。それゆえ、重要なことは、何が起こっているかではなくて、望ましくないことを発見するとき、正しい注意のその能力を持つことです。そして何かの形の同一化、何かの快や不快の感覚があるなら正しい注意はありません。確かにそれは非常に明確です。望む楽しさによって、あるいは望まないで私が気をそらされるや否や、注意はありません。そのことが非常に明確であるなら、そのとき問題は単純です。そのとき間隔はありません。しかし私たちは間隔を好みます。私たちは取り組まなければならない事柄を避けるために、こういったあらゆる、迷路のような、手の込んだやり方を経ることを好むのです。そして私たちは逃避を見事に、入念に養成しました。そして逃避は事柄それ自体よりずっと重要になりました。しかし逃避を見るなら、自分が逃避しているのを言葉の上でなくて実際に見るなら、そのとき正しい注意があります。そのとき逃避に対して苦闘する必要はありません。有毒なものを見るとき、あなたは逃避する必要はありません。それは有毒なものです。あなたはそれをそのままにしておきます。同様に、正しい注意は、問題が本当に大きいとき、自発的です。ショックが強烈なとき。そのとき即時の応答があります。しかしショック、問題が大きくないとき―そして私たちはどんな問題も大きくしすぎないように気を配ります―、そのとき私たちの心は鈍くなり退屈します。

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 質問: 芸術家、音楽家は無益なことに従事しているのでしょうか? 私は芸術や音楽をやり始める人ではなく、生得的に芸術家である人のことを話しているのです。これを調べていただけますか?

 クリシュナムルティ: それは非常に複雑な問題です。それでそれをゆっくりと調べましょう。質問者が言うように二つのタイプの人たちがいます。生得的に芸術家である人と、芸術や音楽をやり始める人と。それをやり始める人は、明らかに、感情のため、高揚のため、様々な形の逃避のため、あるいは単に娯楽、耽溺としてそれをするのです。あなたはそれを、ほかの人が飲酒や「主義」や宗教的教義をやり始めるようにやり始めるかもしれません。多分それはより害が少ないでしょう。自分だけであるからです。次に他のタイプ、芸術家があります―そのような人がいればですが。生得的に、それ自体のために、彼は絵を書きます、音楽を演奏したり作曲したり、その他もろもろをします。さて、その人に何が起こるでしょうか? あなたはそのような人たちを知っているに違いありません。彼に個人として何が起こっているでしょうか? 社会的存在としては? そのような人に何が起こっているでしょうか? 危険は、能力・才能をもつそれらの人々皆にとって、まず最初に自分はより優れていると思うことです。地の塩であると思うのです。彼らは特別に天から選ばれた人たちです。そしてその別個の、選ばれたという感じと共にあらゆる邪悪が生じます。彼らは反社会的です、個人主義的で、攻撃的で、途方もなく自己中心的です―ほとんどすべての才能ある人はそんなふうです。それゆえ才能、能力は危険です、そうでないですか? 人は才能や能力を避けることができるということではなく。だがその含み、危険に気づかなければなりません。そのような人々は研究所に、音楽家や芸術家の会合に集まるかもしれませんが、彼らは常に彼らと他のものとの間にこの障壁を持っていないでしょうか? あなたは素人で、私は専門家です。より知っている人とより知らない人、それと共に進行する同一化のすべて。

 私は誰かを軽蔑して話していません。なぜならそれはあまりに愚かであるでしょう。しかしこれらのことすべてに気づいていなければなりません。それらを指摘することは誰かを侮辱したり、あざけることではありません。まず第一に、私たちのごく少数しか生得的に芸術家ではありません。私たちはそれを演じることを好みます。なぜならそれは利益があるし、ある華々しさ、ある種のショウ、私たちが学んだ特定の言語的表現を与えるからです。それは私たちに場所を、地位を与えます。そして私たちが本当に、純粋に、芸術家であるなら、確かに、孤立性ではなく感受性があります。芸術はどんな特定の国にも、どんな特定の人にも属しません。しかし芸術家はやがて彼の才能を個人のものにします―彼は絵を書きます。それは彼の仕事、彼の詩です。それは彼を、他の者のように、のぼせ上がらせます。そこで彼は反社会的になります。より重要になります。そして、幸運にも、あるいは不運にも、私たちは大抵その地位にいないので、音楽や芸術を単に感情として用います。何か愛らしいものを聞くとき、私たちはすばやく経験を持ちます。しかしそのことを繰り返し反復することはやがて私たちを鈍くします。それは単に私たちが耽る感情に過ぎません。それに耽らないなら、そのとき美はまったく違った意義を持ちます。そのとき私たちはそれにいつも新たに接近します。そして重要なのは、感受性をつくるのは、醜いにせよ美しいにせよ、何かに対する毎回のこの新鮮な接近なのです。しかし、あなた自身の耽溺や能力によって、あなた自身の喜びによって、あなた自身の感情によって捕らえられるなら、あなたは敏感であることができません。確かに、本当に創造的な人は物事に新たに到達します。彼はラジオのアナウンサーが話したことや、批評が言うことを単に繰り返してしゃべりません。

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 それゆえ、このことの中の困難は、その感受性をいつも保つこと、油断なく気を配っていることです。あなたが芸術家であろうと、単に芸術をもてあそんでいるのに過ぎないのであろうと。そしてその感受性は、あなたが芸術家としてのあなた自身に重要性を与えるとき、鈍らされます。あなたはビジョンを持つかもしれません。そしてそのビジョンを絵に、大理石の彫刻に、言葉にする能力を持つかもしれません。しかしあなたがそれとあなた自身を同一視するやいなや、あなたは迷ってしまいます。それは終わります。あなたはその感受性を失います。世間はあなたを賞賛するのが、あなたが何とすばらしい芸術家であるかと言うのが好きです。そしてあなたはそれを好みます。そして、生得的な大芸術家ではない私たちの大抵にとって、困難は感情の中に迷ってしまわないことです。なぜなら感情は鈍くするからです。感情を通しては経験できません。経験することは、直接の関係があるときのみ生じます。そして感情のスクリーン、何かでありたい、変えたい、あるいは継続したいという欲望があるとき、直接の関係はありません。それゆえ、私たちの問題は油断なく気を配り、敏感であり続けることです。そしてそれは、私たちが単に感情と感情の反復を求めているとき、否定されるのです。

 1949年8月7日

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