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107クリシュナムルティ・実践の時代.jpg

102 メアリールティエンス著  1983

めるくまーる

 

1961年 ザーネンの公開講話(第7回)

Saanen 7th Public Talk 8th August 1961

 

 

 

 よければ、一昨日話していたことを続けましょう。それは瞑想というものの内容全体でした。東洋では、瞑想は、事柄に非常に深く入って行ったそれらの人々にとっては、とても重要な毎日の出来事です。そしておそらく、欧米ではそんなに切迫したことでも真剣なことでもありません。しかし、それは生の全過程に関係するので、それに何が含まれているか熟慮すべきであると思います。
 

 いつも言っているように、もしもあなたが単に言葉あるいは句を追い、言葉のレベルに留まるに過ぎないなら、まったく効果がなく無意味でしょう。あなた方が知的にこの問題を追うだけのとき、それは墓に棺の後について行くようなものです。しかしそれを非常に深く調べるなら、それは生の中のもっとも途方のないものごとをあらわにします。申し上げたように、私たちはでき上がった本の最初の章を取り扱っているのではありません。なぜなら、生の全過程に終わりはないからです。しかし私達は問題点を、それらが起こるとおりに熟慮しなければなりません。

 おわかりになるように、私たちはそれをいくぶん深く、包括的に調べようとしています。しかしまず、何が否定的な思考で何が肯定的な思考であるか理解することが必要だと思います。私は「否定的」と「肯定的」というそれら二つの言葉を対立する意味で用いているのではありません。私たちの多くは肯定的に考えます。私たちは蓄積し、加えます。あるいはそれが便利で利益になるときは、取り去ります。肯定的な思考は模倣的、順応的であり、社会の型やそれが望むものに適応します。そしてその肯定的な思考に私たちの大部分は満足します。私にとっては、そのような肯定的な思考はどこにも導いてくれません。

 さて、否定的思考は肯定的思考の反対物ではありません。それはまったく異なった状態、異なった過程です。そして私たちが少しでも先に進み得る前に、そのことを明確に理解しなければならないと私は思います。否定的思考は心を全面的に裸にすることです。否定的思考は、反応の貯蔵所である脳を静かにさせます。

 あなたは脳が非常に活動的で絶えず反応していることに気づいたに違いありません。脳は反応しなければなりません。さもなければそれは死んでいます。そしてその反応の中で、それは肯定的思考と呼ぶ肯定的過程を作り出します。そしてこれらはすべて防御的、機械的です。あなた自身の思考を観察したなら、私が話していることは非常に簡単であり、複雑でないことが見えるでしょう。

 

 最初のことは脳が充分気づいていること、反応することなしに敏感であることだと私には思われます。それゆえ否定的に考えることが必要だと私は感じます。私たちはこの事を後程更に討論できるかもしれませんが、しかしあなたがこれを把握するなら、否定的思考は何の努力も包含していないのに、肯定的思考は努力を必ず包含していることを見るでしょう-葛藤である努力、その中に達成、抑圧、拒絶が含まれています。
 

 どうか作動しているあなた自身の心、働いているあなた自身の脳を見守ってください。単に私の言葉を聞かないでください。言葉は深い意味を持っていません。それらは単に伝えるため、伝達するために使われているに過ぎません。言葉の上のレベルに留まるなら、はるか遠くに行くことはできません。

 それで私たちは皆-教育を通して、文化を通して、社会、宗教などの影響を通して-非常に活動的な脳を持っています。しかし心の全体は非常に鈍いのです。そして脳を静かに、それにもかかわらず充分敏感に、活動的に、だが防御物を育成しないようにすることは、あなたがそのことに少しでも突っ込んで行ったのであればわかるように、非常に困難な課題です。そして脳がものすごく活動的であるがまったく静かであることは何の努力も伴ないません。

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 私たちの多くにとって、努力は私たちの生存の一部に見えます。どうも私たちはそれなしに生きることができないようです。朝起きる努力、学校に行く努力、事務所に行く努力、継続する活動を維持する努力、誰かを愛そうとする努力。私たちの全生涯は、生まれた瞬間から墓に入る瞬間まで、努力の連続です。努力は葛藤を意味します。そしてあなたがものごとをそうであるままに、事実をそうであるままに観察するなら、まったく努力はありません。しかし私たちは、意識的にも無意識的にも、決して私たち自身をそうであるままに観察したことがないのです。私たちは私たち自身の中に見るものを、常に変え、置換し、変容させ、抑圧します。そのすべては葛藤を意味します。そして葛藤の中にある心、脳は決して静かでありません。そして深く考えるためには、非常に深く行くためには、私たちは鈍い脳でなく、眠っている脳でなく、信念によって、防御によって麻痺した脳ではなく、強烈に活動的で、そのうえ静かな脳を必要とします。

 心の全体を鈍くするのは葛藤です。それで私たちがこの瞑想の問題を調べるつもりなら、深く広く生を調査するつもりなら、始めから葛藤と努力を理解しなければなりません。あなたが注意していたなら、私たちの努力は常に獲得すること、何かに成ること、成功することだということがわかるでしょう。それゆえ葛藤と挫折が、その惨めさ、希望と絶望を伴なってあるのです。そしていつも葛藤の中にあるものは鈍くなります。絶えず葛藤の中にある人たちを、そしてその人たちがいかに鈍いかを知りませんか? それゆえ、非常に遠く、非常に深く旅をするためには、葛藤と努力の問題を完全に理解しなければなりません。努力、葛藤は、肯定的な思考があるとき生じます。否定的な思考があるとき、それは思考の最高の形ですが、そのとき何の努力も何の葛藤もありません。

 さて、あらゆる思考は機械的です。なぜならあらゆる思考は経験の、記憶の背景からの反応として生じるからです。そして思考は、機械的であるので、決して自由であることができません。それはその背景、教育、条件付けに依存して、合理的で、正気で、論理的であることができます。しかし思考は決して自由であることはできません。
 思考とは何であるかを見出すために、あなたがとにかく実験したかどうかわかりません。私は辞書のそれの定義や哲学者のそれについての考えではなくて、思考は反応であるということを観察したかどうかということを言っているのです。

 それを調べなければならないので、どうかこれを追ってください。私があなたにありふれた質問を尋ねるなら、あなたは答えをよく知っているので即座に応答します。少しばかり複雑な質問が尋ねられるなら、脳が答えを見つけようと記憶を調べて働いている間、時間の遅れがあります。もう少し複雑な質問が尋ねられるなら、脳が考え、捜し、見出そうとしている間、時間の間隔はより長いのです。そしてまったくなじみのない質問を尋ねられるなら、そのとき、「私は知らない」と言います。しかし「私は知らない」というその状態は、本を調べたり誰かに尋ねたりすることによって、脳が答えを見つけようと待っている状態です。だがそれは答えを待っているのです。思考のこの過程全体は見るのがとても簡単だと私は思います。それは私たちがいつも皆やっていることです。それは私たちが集めた知識、経験の蓄えからの脳の反応です。

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 さて、「私は知らない」と言い、答えを待っている心の状態は、「私は知らない」と言い、答えを待っていない心の状態とはまったく違います。私はこのことをわかっていただきたいと思います。なぜならそれが明確でないなら、次のことがわからないだろうと思うからです。私たちはなお瞑想を話しており、脳と心の全問題を探っているのです。すべての思考の根源を理解しないなら、思考を超えることは不可能です。

 それで二つの状態があります。「私は知らない」と言い、答えを捜している脳があります。そして答えがないので知っていない、もう一つの状態があります。そのことを明確にしておくなら、そのとき私たちは前進して注意と集中の問題を調べることができます。

 誰もが集中が何であるか知っています。生徒も窓の外を見たいと思い、先生が「本を見なさい」というとき、それを知ります。子供は心に本を見るように強制します。彼が本当に窓の外を見たいとき、そこで葛藤があります。私たちの大抵は脳に集中するように強制する過程をよく知っています。そしてこの集中の過程は排除の過程ではないでしょうか? あなたは切り取ります。あなたは集中を妨げるどんなものも締め出します。したがって集中があるところ、注意散漫があります。わかりますか? 私たちは集中するよう訓練されてきたので、それは排除、切り取ることの過程ですが、したがって注意散漫が、それゆえ葛藤があります。

 さて、注意は集中の過程ではなく、その中に注意散漫はありません。注意はまったく違うものです。そして私はそれを調べようとしています。

 すみませんが、私たちが話しているこれは非常に真面目なことです。そしてここに来ることは、楽しみたいと思って音楽会に行くようなことではありません。それはあなたの側でのものすごい仕事を必要とします。それは望むとか望まないという感覚が何もなしに内部に入って行くことを意味します。あなたが真面目に追って行くことができないなら、そのときはただ静かに聞いてください、言葉を聞いてそれを忘れてください。しかしあなたがそれに深く入っていくなら、多くのことが含まれています。なぜなら私がそれにもう少し入って行くにつれて、自由が必要であるということが見えるでしょうから。心が努力をして、葛藤の中にあるところ、自由はありません。そして集中と、注意散漫に対する抵抗があるところ、そこにもまた自由はありません。しかし私たちが注意が何であるか理解するなら、そのとき私たちはまた、すべての葛藤がやんでおり、それゆえ心がまったく自由である可能性があるということも理解し始めています-表面の心のみでなく秘密の思考と欲望が隠れている無意識も。

 さて、私たちは集中が何であるか知っています。それで、注意とは何でしょうか? 私がその質問を尋ねます。すると私たち一人一人の本能的応答は答えを見つけること、説明を与えること、それを定義することです。そして定義が巧みであればあるほど、より満足します。私は定義を与えてはいません。そして私たちは言葉なしに調べているのです。それはきわめて骨の折れることです。私たちは否定的に調べているのです。肯定的思考で調べるなら、そのときあなたは注意の美を決して見出さないでしょう。しかし否定的思考が何であるかをあなたが理解してしまったなら-それは反応の見地で考えることではありません、脳は答えを求めていません-、そこであなたは注意が何であるか見出すでしょう。私はそれに少々突っ込んでいくつもりです。

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 注意は集中ではありません。その中に注意散漫はありません。注意の中に葛藤はありません。結果を捜し求めることはありません。したがって脳は注意深いのです。それは限界を持っていないということです。それは静かです。注意はすべての知識が止んで、探究だけが存在しているときの心の状態です。

 いつか、簡単なことをやってみてください。散歩に出かけるとき、注意深くあってください。そのときあなたは脳が集中しているときより、ずっと多く聞こえてくる、見えるということを見出すでしょう。なぜなら注意は知っていない、したがって探究している状態であるからです。脳は原因なしに、動機なしに探究しています-それは純粋な研究、本当に科学的な心の性質です。それは知識を持っているかもしれませんが、その知識は探究に干渉しません。したがって注意深い心は集中することができます。しかし(その)集中は抵抗、排除ではありません。あなた方の何人か、これについてきているでしょうか?

 それゆえ、それことから進むために、この注意の状態は情報、知識、経験を詰め込まれていない心のものです。それは知らないで生きている心の状態です。この事は脳、心があらゆる影響、あらゆる命令、あらゆる制裁を完全に捨てたということです。それは権威を理解してしまい、野心、羨望、貪欲を解消してしまい、社会とそのすべての道徳にまったく対立します。それはもはや何事にも従いません。そのような心はそのとき続けて探究することができます。

 さて、深く探究することは静けさを必要とします。私があの山々を見、勢いよく流れ過ぎるままにせせらぎに耳を傾けたいなら、脳が静かでなければならないだけでなく、全体の心、意識的なものも無意識的なものもまた、見るために、まったく静かでなければなりません。脳がおしゃべりをしているなら、心が把握しよう、掴もうと思っているなら、そのとき、それは見ることではありません。それは流れの響きの美しさを聞くことではありません。それゆえ探究は自由と静けさを意味します。

 瞑想と集中を通じて静かな心を得る方法について人々が本を書いていますね。それについて書物が書かれてきました-私がそれらのどれかを読んだということではありません。人々が私のところにやってきて、それについて話しました。心を静かであるようにしつけることはまったく無意味です。心を静かであるようにしつけるなら、そのときあなたは衰退の状態にあります。恐怖を通して、貪欲、羨望、野心を通して順応するあらゆる心が死んだ、鈍い、愚かな心であるように。鈍い、愚かな心は静かであることができますが、それはちっぽけで取るに足らないままであるでしょう。そして新しいどんなものも決してそれに生じることはできません。

 それゆえ注意深い心は葛藤がなく、したがって自由です。そしてそのような心は静まり、静かです。あなたがそこまで行ったかどうか私は知りません。あなたが行ったなら、私たちが話していることが瞑想であるということを知るでしょう。

 自己認識のこの過程の中で、あなたは静かな心は死んだ心ではないということ、それは途方もなく活動的であるということを見出すでしょう。それは達成の活動ではありません。加え 減じること、行き 至り 成ることの活動ではありません。なぜならその強烈に活動的な状態は、何の追求もなしに、何の努力もなしに生じたからです。いつもそれはあらゆる事を、その存在のあらゆる相を理解しています。どんな種類の抑制もなく、それゆえどんな恐怖も、模倣も、順応もなかったのです。そして心がこれらすべてのことをしたのでないなら、静けさはあり得ません。

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 さて、次に何が起こりますか? 今までのところ、伝達するために言葉を用いてきました。だが言葉はものではありません。「静けさ」という言葉は静けさではありません。そこでどうかこのことを理解してください。静けさがあるためには、心は言葉から自由でなければならないことを。

 さて、心が実際に静かで、したがって活発で自由であり、伝達、表現、達成にかかわっていないとき-そのとき創造があります。その創造は幻視ではありません。キリスト教徒はキリストの幻視を持ちます。ヒンドゥー教徒は彼ら自身の小さな神々、あるいは大きな神々の幻視を持ちます。彼らは彼らの条件付けにしたがって反応しているのです。彼らは彼らの幻を投影しているのであり、彼らが見るものは彼らの背景から出ているのです。彼らが見るものは事実ではなくて、彼らの願い、欲望、願望、希望から投影されているのです。しかし注意深く静かな心は、すべての条件付けから脱したので幻視を持ちません。したがってそのような心は創造が何であるかを知ります-それはいわゆる音楽家、画家、詩人の創造性とまったく違います。

 そのとき、あなたがそこまで行ったなら、時間がなく空間がない、したがって測ることのできないものを見ている、あるいは受取っている心の状態があるということを見るでしょう。そして見られ、感じられているもの、そして経験している状態は瞬時のものであり、しまい込んでおけるものではありません。

 それゆえ、測ることのできない、名付けることのできない、言葉を持たないその実在は、心が創造の状態の中で、完全に自由で静かである時のみ生じます。創造の状態は、ただのアルコールが入った、興奮した状態ではありません。しかし、ひとが理解して、この自己認識をやり通して、羨望、野心、貪欲のすべての反応から自由であるとき、そのときあなたは創造は常に新しく、それゆえ常に破壊的であることがわかるでしょう。そして創造は決して社会の枠組みの内に、限られた個性の枠組みの内にあることができません。したがって実在を求める限られた個性は意味を持たないのです。そしてその創造があるとき、ひとが集めたあらゆるものの全面的な破壊があり、したがって常に新しいものがあります。そして新しいものは常に真実であり、測り知れません。

 質問: 全体的な注意の状態と動機のない欲望-それらは同じものでしょうか?

 クリシュナムルティ: 皆さん、欲望はもっとも途方のないものではないでしょうか? 私たちにとって、欲望はたいへんな苦悩にさいなまれています。私たちは欲望を葛藤として知り、それゆえ私たちはそれにそのような制限をつけました。そして私たちの欲望はそんなにも限定され、そんなにも狭く、そんなにも取るに足らず、そんなにも凡庸です。自動車を欲しがり、もっと美しいことを望み、達成したがり。見てください、そのすべてがいかに取るに足らないか! そして私は何の苦悩もない、何の希望も絶望もない欲望があるかどうか疑わしく思います! あります。しかしそれは欲望が葛藤を引き起こす間は理解することができません。しかし、欲望の、動機、苦悩、自己否定、鍛練、人が通り抜ける労苦の全体の理解があるとき、そのすべてが理解され、解消され、そのためそれが完全に消えるとき-そのとき、たぶん欲望は他の何かです。それは愛かもしれません。そして愛はその表現を持っているかもしれません。愛は明日を持ちません。それは過去のことを考えません-それは脳は愛に基づいて作動しないということです。私はあなたが今までにそれをじっと見ていたことがあるかどうか知りません。いかに脳が愛に干渉し、愛は上品でなければならないと言い、それを神聖なものと罪深いものに分割し、常にそれを形作り、制御し、指導し、それを社会の型やそれ自身の経験に適合させているかを。

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 しかし愛情の、愛の状態があります。その中で脳は干渉しません。そして、おそらくその愛は見出されるでしょう。しかしなぜ比較するのでしょう? なぜ「それはこのようなのか、あのようなのか」と言うのでしょう?

 ほら、皆さん、雨粒をそれが空から落ちるとき見守ったことが今までにあるかどうか私は知りません。その一粒はすべての河、すべての大海、すべての流れとあなたが飲む水の性質を持つのです。しかしその一つの雨滴は河になるだろうと思っていません。それはただ落ちます。完全で、全体で。同様に、心がすべてのこの自己認識を通り抜けたとき、それは完全です。その状態の中に比較はありません。創造であるものは比較のものではありません。そしてそれは破壊的であるので、その中に古いものは何もありません。

 それゆえ、言葉の上や知的にではなく、ひとはこの自己認識の過程を今から果てしなく通り抜けて行かなければなりません。なぜなら自己認識に終わりはないからです。そして終わりを持っていないので、それは始まりを持ちません。したがってそれは今です。

 私が話したいもう一つのことがあります-それはなぜ崇拝したいのかということです。私たちは皆 象徴、キリスト、仏陀、を崇拝することを望みますね。なぜ? 私は多くの説明を与えることができます。あなたはより偉大なものと同一化したい、あなたが真実であると思うものにあなた自身を捧げたい、神聖なものの現存の下にいたい、などなど。しかし、崇拝する心は死につつある、衰退しつつある心です。あなたが月へ行こうとしている英雄や、過去 あるいは現在の英雄、あるいは演壇に腰掛けている人のどれを崇拝しようが、それは皆同じです。あなたが崇拝するなら、そのときあの創造は決して生じ得ません、決してあなたの近くに来ないでしょう。そしてその途方もない状態を知らない心は果てしなく苦しみます。それゆえ、この崇拝の問題を理解したとき、そのとき、秋に木の葉が落ちるようにそれは次第に消えます。そのとき心は何の障害もなしに進むことができます。

 1961年 8月8日

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