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58 TO BE HUMAN   2000

コスモス・ライブラリー

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59 THIS LIGHT IN ONESELF:TRUE MEDITATION  1999

真の瞑想 コスモス・ライブラリー

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60 The Mirror of Relationship:Love,Sex,and Chastity

UNIO

 

1949年 ロンドンの公開講話(第5回)

J. Krishnamurti London 5th Public Talk 30th October 1949

 

 

 

 私たちの大抵にとって、私たち自身の中に真の変容を引き起こすことは非常に困難に思われるに違いありません。私たちは内部と外部のものごとの中の両方に、真の、深い、根本的な革命の必要性を見ます。そしてこの変容は、一時的でなくて、持続するものでなければならないことは明白です。私たちは世界に変化を引き起こすことを望みます-経済的変化、社会的変化などなど。しかし根本的な心理的革命、変容があるのでない限り、意義のある外部の変化を本当に引き起こすことはできないと私には思われます。というのは内部は、確かに、常に外部を打ち負かすからです。人のいまそうであるものが、人が外部に創り出すものです。そしてこの変容が起こらない限り、単なる外側の改革、外側の変化は、いかに注意深く為されていようとも、不可避的に失敗するでしょう。なぜなら失われているものはこの内部の革命、この内部の変容であるからです。

 そしてどうやってこの内部の変容は引き起こされるべきでしょうか? 今朝それを本当に討論できるなら、それがそんなに不可能ではないということ、それはただ少数の人のためだけのものでなくて、本当に真剣でまじめな人のためのものであるということが見えるかもしれません。そして、この革命とは、この内部の変容とはどういうことでしょうか? なぜなら、内部の変容がないなら、外部的に何をしようと、どんな社会的な改革を引き起こそうと、必然的に失敗するだろうということを見ることが出来るからです。内的な動機、欲望、衝動が理解されない限り、それらは外部の構造を圧倒します。

 それゆえ、自分自身の内部で始めること、自分自身の態度、行為、方向の中に変容を引き起こすことが絶対必要です。その変容は確かに自己認識で始まるに違いありません。なぜなら、自己認識なしには、根本的な革命はあり得ないからです。革命は観念にしたがうもの、パターンにしたがうものではありません。そのとき それは革命ではありません-それは単に修正された継続にすぎません。しかし、自分自身の心理的過程、内部の要求、追求、恐怖、野心、希望を理解できるなら、そしてそれらの全過程を細かく調べることができるなら-そのとき変容を引き起こすことができます。それゆえ、外部や内部に変容を引き起こすことができる前に、自分自身を理解することが、確かに、必要です。

 さて、この自分自身の研究は関係を理解することなしに起こるはずはありません。そして私が何度も繰り返し言ってきたように、自己のやり方を見始めるのは関係の中においてだけです-人が自己をどんなレベルに置くにしても。なぜなら、関係は基本的な問題点であるからです。そうではないでしょうか? 関係、あなた自身と他の人の間の関係、の理解なしには、そしてそこに根本的な変容を引き起こすことなしには、社会的革命の単なる企ては必然的に失敗するでしょう。なぜなら私たちの全存在が関係-あなた自身と妻との間の、あなた自身と隣人との間の関係、それゆえ全体としての社会の関係に基礎を置いているからです。変容がなければならないのはそこです。そして自己が十分に調べられ、理解されていないなら、関係の中に変容があるはずがありません-なぜなら自己は明らかにすべての葛藤の源であるからです。人は自己がその人の持つ唯一のものであると考え、その自己に充実した表現を与えるかもしれません。しかしそれは常に関係の中に葛藤と混乱を引き起こすでしょう。そして変容が有り得るのは関係の理解の中でだけです。それゆえ、変容は確かに関係で始まるに違いありません。単に外部の環境の手入れで始まるのではなく。

 それゆえ、変容の問題、すなわち、完全な内部の革命の問題はそれほど難しくはありません。それは関係を理解することの中にのみ生じます。なぜなら、関係は、私が行為している私自身をその中に発見する鏡であるからです。そして私自身の全過程を理解することなしには、根本的変化はあり得ません。それゆえ、関係の展開の中に、私は私自身を発見し始めます-表面のレベルのみならず、より深いレベルでも同様に。確かに、そこで始めることができます。できないですか? 人は自分自身を絶間なく見守り始めること、所有の感覚、支配の感覚を観察し始めることができます。その感覚は事務所や家庭で、外部にそれ自身を表現するのです。

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 そしてなぜこの所有の感覚が関係の中にあるのでしょう? 明らかに、もしも私たちが、愛していると言うその相手の人を所有していないなら、私たちは挫折感を感じるでしょう。途方に暮れるでしょう。私たちは私たち自身に、私たち自身の空虚・私たち自身の孤独に直面させられるでしょう。それゆえ、私たちは所有し始めます。支配し始めます。そしてそれによって嫉妬に捕われます。それで、関係の中で私たちは私たち自身を発見し始めます。しかし、所有の中では、他人を支配することの中では、その関係はそれ自身を打ち明けません。私たち自身の過程を明かしません。

 私たちの大抵は私たち自身を知りたくありません。しかし私たち自身を理解したいなら、それが最初に必要なことではないでしょうか? 私たちの大抵は私たちがそうであるもの-醜いものや美しいもの-を、それが何であるにせよ知ることを恐れます。発見することを恐れます。それゆえ、私たちはそれから逃げ出し、関係を慰安の手段として、安全の手段として用います。それゆえ、私たちは決して私たち自身を理解しないのです。関係の中に慰安を求めるとき、自己は閉ざされた扉です。そして関係のあらゆる紛糾が起こるのは、この慰安を求める欲望からです-支配、嫉妬、差別化、一人の人を他の人よりもっと愛すること、非個人的に愛そうとすること、分離していようとすること、などなど。自分自身を理解することの中にのみ変容があり得るのです。そのときのみ、静かな心を持つことができるのです-静かにさせられたのでなくて、理解を通して、静かな心。

 それゆえ、重要なことは、いまあるもの、正確にいまあるものを、関係の中に発見しようとする意図です。そして非難なしに、正当化なしに、いまあるものを理解することの中で、ひとはそれを超えることができます。いまあるものを-嫉妬、野心、貪欲、関係を通して発見されるどんなものも、明確に見るこの能力。何の非難や抑圧の感覚もなしに、何の逃避の感覚もなしに、それを見る、それと共にあるこの能力。それがいまあるものを超えることを可能にするのです。そして根本的な変容があり得るのはそのときだけです。

 したがって、徳はいまあるものが超越されるとき、生じるその状態です。しかし超越すること、いまあるものを超えることは、何かであろうとする努力があるなら、起こり得ません。何といっても、それが私たち皆がしようとしていることではないでしょうか? 私たちは皆何かでありたいのです-もっと徳があり、もっと敬虔でありたい。私たちは真実にもっと近づきたい、あるいは私たちは世俗的に野心的である、などなど。私たちは何かでありたいのです。私たちはより大きな理解、より大きな幸福、より大きな知恵を持ちたいのです。何かであろうと望むことそのものが、いまあるものの否定です。私が何かであることを望むなら、私がいま何であるかを理解していません。私がいま何であるかを理解するためには、何かでありたいというこの欲望、なろうとするこの欲望は、必ず理解されなければなりません。なぜ私たちは自分がそうであるもの以外のものであることを望むのでしょう? 私が何かであろうとする努力をしないなら、それは満足に、あの虚偽の 世間体のよい停滞につながるでしょうか? それが私たちが何かであろうと望む理由でしょうか? それとも、それは私たちが、私たちのあるがままに直面しないからであり、したがって、それはいまあるものから逃避する過程なのでしょうか?-その騒動、混乱、苦闘、努力のすべてを伴なう、何かであろうとするこの絶え間ない欲望は、いまあるものからの逃避、私たち自身からの逃避です。そして私たち自身を理解せず、いまあるものから単に逃避している限り、私たちはただより大きな葛藤、より大きな悲惨をつくり出しているだけです。そしてそれを見ることが、何かに成ることの、心理的に何かを達成しようとすることの愚かさを見ることができるなら、そのとき、いまあるものでの満足が生じます。いまあるものとの苦闘、それを他の何かにしようとすることがないのはその時だけです。その時、それを理解することができます。しかし、いまあるものを修正しよう、変えようとしている限り、そのとき、それを超えることはありません。いまあるものを発見すること、いまあるものに満足していること、は停滞ではありません。それどころか、いまあるものに満足していること、はもっとも効果的な行為です。それは混乱をもたらしません。憎悪をつくり出しません。世界には非常に多くの憎悪と混乱が、非常に多くの悲惨があります。そして根本的な変化をそこにもたらそうと望むなら、私たち自身について始めなければ、いまあるものを理解することを始めなければなりません。それと共に生きる、それを昇華しよう、変えよう、修正しようとする何の感覚もなしにそれをよく見る。そしてそのことは、名前をつけることによって私たちがいまあるものを単に捨て去るに過ぎないとき、できません。なぜなら、それに命名することそのものが非難や受容の過程であるからです。しかし、私たちがいまあるものに命名しないとき、それは変容させられます。その変容と共に満足が生じます-獲得の満足ではなく、持つことや所有すること、あるいは結果を達成することの満足ではなくて、葛藤がないとき生じる満足。なぜなら不満足を作り出すのは葛藤であるからです。そして葛藤は創造的ではありません、それは理解をもたらすことはできません。葛藤は生のなかに不必要です。そして葛藤はいまあるものを私たちが理解できるときのみ終わります。

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 いまあるものの理解は非難、正当化、同一化の全背景からの自由と共に生じます。そして先日議論したように、非難は分析者、試験官、観察者がいるときにのみ起きます。しかし、観察者と観察されるものは共有の現象です。そして観察者と観察されるものの間のその統一、その統合は、非難や正当化、同一化の感覚がないときのみ起こります-すなわち、背景からの、それは「私」、『私(ミー)』、「私の」ですが、自由があるときに。挑戦に新たに応答する可能性があるのは、背景からのその自由があるときのみです。生は挑戦と応答の過程であり、応答が不適切なときはいつも葛藤があります。そして応答の不適切は関係の過程の理解を通してのみ除くことができます。そして関係の過程を、それは行為中の私自身の過程ですが、理解すればするほど、心が静かである可能性があるのです。静かでない心は-それが知識を追い求めていようが、貪欲であろうが、今あるいは今後 何かになろうとしていようが-そのような心は明らかに、発見することができません。なぜなら発見するには必ず自由があるに違いないからです。心が何かであろうとしている限り、発見はあり得ません。発見があり得るのは自由の中でだけです。そして自由は徳です。なぜなら徳が自由を与えるからです。しかし有徳であろうと努力することは自由ではありません。それは成ることの別の形で、それは自己拡張です。

 それゆえ、徳は成ることの否定です。そしてその否定はいまあるものの理解と共にのみ起こります。そして自己認識を通じてこの根本的な変容があるとき、そのとき 創造的な生の可能性があります。というのは、真実は獲得されるべき何かではないからです。それは終わりではありません。それは獲得されるべき何かではありません。それは瞬時瞬時生じます。それは蓄積され、貯め込まれた知識の結果ではありません、それは単に記憶、条件付け、経験にすぎません。しかし真実は心がすべての蓄積物から自由であることができるとき、瞬時瞬時生じます。というのは、蓄積者は自己であるからです。主張し、支配し、拡大し、自己実現するために収集する自己。自己の自由と共に真実は生じるのです-連続的な過程としてではなく、瞬時瞬時発見されるものとして。したがって、発見するには、心は新鮮で、油断なく、静かであるに違いありません。

 質問者: どんなやり方で私はあなたの仕事を助けることが出来るでしょうか?

 クリシュナムルティ: それは私の仕事でしょうか、それともあなたの仕事でしょうか? 私の仕事であるなら、そのときあなたは宣伝者になるでしょう。そして宣伝をするものは真実を告げることはできません。なぜなら、自分が何を言っているか知らない、単に反復的な機械に過ぎないからです。彼らは利口な表現、スローガン、決まり文句を知っているかもしれません。しかし決して真実であるものを発見することはできません。そして私たちの大抵は宣伝者によって指図されます。なぜなら私たちのたいていは、大した内容なしに、言葉によって生きているからです。私たちは言葉を非常に容易に受け入れます-民主主義や、平和、共産主義者、神、魂のような言葉を。私たちは決してこれらのことを調べないのです。これらの言葉が引き起こす一時的な感情を超えないのです。それで、単に宣伝者にすぎないなら、あるいは宣伝によって生きているなら、そのときあなたは永遠であるものを見出すことができません。そして真実の発見なしには、生は退屈な、苦痛に満ちたものになります。

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 それゆえ、あなたは私の仕事をしていません。私を助けていません。しかしあなたがこのすべての中でしていることは、あなた自身をありのままに発見すること、あなた自身を理解することです。なぜなら、あなた自身を理解することなしに、行動のための基盤はないからです。正しい思考のための基盤はないからです。それゆえ、あなたは私の仕事の中で私を助けているのではなくて、あなた自身を理解しているのです。そしてあなたがあなた自身について理解することは何でも、それが、さしあたり、真実です。そしてそれは日常の関係の中にのみ発見され得るのです-また 私が話しあなたが聞く、そしてどんなふうに聞くかというような、あなたと私の間の関係の中に。偏見を持って聞くなら、非難、偏見、賛成や反対を伴なうあなた自身の背景を持って聞くなら、そのときあなたは聞いていないのです。つまりあなたと私は関係を持っていません。しかしあなたがあなた自身を見出すために、関係の中にあなた自身を発見するために聞いているなら、そのときそれはあなたの仕事であり、私の仕事ではありません。そのとき、あなたは真実を求めているので、単なる宣伝者ではないでしょう。そのとき、あなたは他人をあなたの特定の形の信念に変えよう、他人を修正しよう、他人をあなたの特定のグループや協会に連れてこようとして、他人を納得させることにかかわっていません。そのときあなたは、あなたの信念と共に、重要ではありません。しかし信念を持った人間、彼は重要です。なぜなら、彼が同一化している信念が彼に重要さを与えるからです。真の自己認識を求めているひとは信念によって囲まれていません。彼は何の協会や組織によっても、何の宗教によっても、保護されていません。したがって、あなたの仕事と私の仕事の問題はありません。重要なことは真実を発見することです。そして真実の発見はあなたのものでも私のものでもありません。

 それゆえ、それは私の仕事ではなくてあなた自身のですから、どんなふうにあなたがそれを扱うか、どんなふうにあなたの生の全構造に接近するかが重要です。それが私たちが議論していることです-それを見ること、あなたの存在の構造を見ること、そしてそれによって変容をもたらすこと。いまあるものの知覚そのものが、根本的な変容をもたらします。しかしあなたが私の言っていることに順応するために聞いているなら、そのとき あなたは単なる宣伝者にすぎないでしょう。そのときあなたは信者です。憎悪と争いを作り出すでしょう。そして、確かに、十分なグループ、信念が世界にあり、皆がお互いに争い、お互いに金のために、会員の地位のために、そういったナンセンスのために戦っています。しかし自己認識を求めている人は憎悪を作り出さないでしょう。なぜなら彼は正直で、自分に対して真実であり、いまあるものに対して真実であるからです。

 しかし、この質問の中で重要なことは、宣伝者であることを止めること、そして直接経験することです-本を通してではなく、他人を通してではなく、あなた自身の特定の幻想と欺瞞を通してではなく-あなた自身が瞬時瞬時直接真実を経験すること。そしてそのような真実の知覚が解放する過程です。それは生に喜びをもたらします。明晰さ、気分に依らない強烈さをもたらします。したがって、それはあなたの仕事です。そしてその仕事は始まります。自己認識で。

 質問: すべての活動は逃避でしょうか? 最大に必要な人間愛の奉仕もまた逃避でしょうか? 個人的な創造的表現は自己の中の葛藤を解決する本当のやり方ではないでしょうか?

 クリシュナムルティ: 活動と逃避とはどういうことでしょうか? 確かに、私たちのともかく気づいている者は、私たちが途方もなく鈍く、途方もなく空虚であることを知っています。私たちは他の人たちが言ったこと、他の人が書いたことの知識をたくさん持っています。私たちは読みます、聞きます、真似しよう、模倣しようとします。しかし私たち自身の中では私たちは何もないようです。空虚で、不十分で、貧しく、孤独で、木の葉のように吹かれています。そして、そのことから、その巨大な恐怖の感覚、その孤独の絶え間ない苦悩から逃避するため、私たちはあるゆる種類の物事をします。宗教的、政治的、科学的、などなどのあらゆる種類の活動に没頭します。そしてこの私たち自身からの逃避は活動と呼ばれます。それは活動でしょうか? それは動くことです。それは動揺です。それは為すべき何かです。なぜなら、一人にされたなら、あなたはその孤独に気づくでしょうから。それゆえ、あなたはラジオをつけます。あるいは本を取り上げます。誰かを追いかけたり、その誰かが去るとき泣いたり、一人で残されたため死んだりします。

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 それゆえ、その空虚を理解すること、それを通り抜けること、それを十分に、完全に理解することなしに、どうやって人間を助けることができますか? 人間とは何でしょうか? あなた自身と他の人、そうではないでしょうか?-あなたとあなたの妻、あなたとあなたの隣人、あなたがその中に住んでいる直接の関連の世界。ロシヤ人の世界やインド人の世界でなくて、あなたが住んでいる世界。そこに理解がないなら、そこに葛藤、悲惨、努力、嫉妬、羨望があるなら、どうやって人類全般を助けることができますか? それは無意味ではないでしょうか? それは単に搾取者の、講演者の文句にすぎません。

 それゆえ、あなた自身を理解することなしには、あなたの活動すべて-逃避、あなた自身の醜さ、あなた自身の貧困、あなた自身の格闘を覆い隠す過程=大師の追求、徳の追求-を観察することなしには、これらの活動のどれも混乱と憎悪に通じるに違いありません。それゆえ、あなた自身を理解することなしには、すべての活動は逃避になります。しかし、あなた自身の理解は孤立を通しては、活動の中止を通しては生じません。活動は明らかに関係です、行為は関係です。そして何であれ、その行為の中にあなたが発見するものが避けられ、わきに置かれ、抑圧され、回避されるなら、そのとき、そのような活動は災いと悲惨をつくりだすに決まっています。しかし、行為のなかに、それは関係ですが、あなたがいまそうであるもの-狭量さ、浅薄さ、俗物根性、支配の感覚、などなど-を発見し、あなたがいまそうであるものと共にいるなら、そのときそれから、逃避の活動とはまったく異なる行為が生じます。そのとき、その行為は解放することです。創造的です。その行為は自己閉鎖の運動の結果ではありません。

 そして質問者は、個人の創造的表現が個人の葛藤を解消するやり方でないかどうか、知りたいと望んでいます。すなわち、葛藤を持っているなら、行って絵を描き、葛藤を忘れる。色彩を通して、行為を通して自分を解放する。詩を書き、散歩に行き、音楽会を聞き、本を手に取り、教会に行き、大師のことを思い、人類に奉仕する-何かをする。それは葛藤を終わりにするでしょうか? それは苦闘を、苦痛を解消するでしょうか? あなたは科学者として、あなたの部屋で、あなたの研究室で創造的であるかもしれません。あるいは創造的に絵を描くかもしれません。しかしそれは葛藤を解決するでしょうか? 創造的な表現のその瞬間には、あなたは葛藤から逃避するかもしれません。それをわきに置くかもしれません。しかし仕事が済むやいなや、あなたはいたところに戻るのではないでしょうか? あなたは科学者かもしれません。しかし、研究室を離れるやいなや、普通の人間ではないでしょうか? 偏見を持った、国家主義を持った、狭量さ、野心、その他あらゆるものを持った。同様に、あなたは創造的理解、創造的表現の瞬間を持つかもしれません-そこであなたは絵を描きます。しかし絵を描くことを中止するやいなや、あなたはあなた自身に戻ります。

 確かに、どんな行為も葛藤が終わるように助けないでしょう。どんな種類の活動も葛藤を解決しないでしょう。葛藤を解決するものは、完全に、葛藤であることです。そして、葛藤から逃避しようとしているなら、葛藤と直接に関係することはできません。そして逃避の多くのやり方の一つは、それを非難すること、正当化すること、抑圧すること、昇華すること、それの代わりを見つけることです。しかし、これらのことを何もしないで、単にそれと共に生きる、葛藤に受動的に気づいている、無選択に気づいているだけなら、そのとき葛藤それ自身がその意味を表わすでしょう。その内容をあらわにするでしょう。そして葛藤の内容があらわにされたときのみ、葛藤からの自由があるのです。

 したがって、逃避している心は、静けさとともに いまあるものを見ることができません。あなたはその逃避をどんなレベルに置くこともできます-それが飲酒、寺院、知識、興奮のいずれであろうが。活動が単にいまあるものからの逃避にすぎない限り、それは争いと憎悪を引き起こすに違いありません。しかし、いまあるものの理解があるなら、そのとき解放があり、それはそれ自身の行為をもたらします。そしてその行為は逃避の活動とはまったく異なります。

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 質問: あなたが何と言っても、指導者、案内者、大師、教師はあるし、なければなりません。あなた自身がそういった人の一人です。この明白な事実を否定し、私たちの中に新しい葛藤を作り出すあなたの目的は何ですか?

 クリシュナムルティ: 指導者、案内者、大師、教師があるかどうかは重要ではありません。しかし重要なのはなぜその人たちを必要とするかです。大師や案内者、教師があるか、ないかを論じ始めるなら、私たちは意見といわゆる経験の中で-それは実際には自己投影の反応ですが、迷ってしまうでしょう。しかし、なぜ指導者を要求するか、なぜ教師に従うか、なぜ大師を崇拝するか、なぜ導師や案内者に従うかを見出すことが重要ではないでしょうか? それゆえ、なぜあなたが彼らを望むか、なぜ彼らを必要とするか見出すことができるなら、そのとき問題に取り組むことができます。

 あなたは彼らを必要とします。あなたは、自分が混乱しているから、つまりどの方向に行けばいいのか知らないからだと言うでしょう。あなたは隠れ家、慰め、松葉杖、寄り掛かる誰かが必要です。あなたは美化された父、美化された母を必要とするのです。あなたにどうすればいいか教える、行為の型、基準を与えてくれる誰かが欲しいのです。あなたを激励する、あなたがいかに素晴らしいか、あなたが進歩していると告げてくれる誰か。これはすべて非常に単純な事実に変ります。つまり、あなたは葛藤と混乱の中にいる、悲惨と格闘の中に、絶望的な不幸の中にいる、うんざりする関係の日常の慣例に捕われているということ。それゆえ、あなたは大師、教師のロマンチックな世界、超-知識のロマンチックな世界を作り出すか、あるいは、混乱しているので、混乱を一掃するよう助けてくれる誰かを欲しがっているかです。

 それゆえ、言い換えれば、あなたは混乱して、惨めです。そしてその混乱をはっきりさせるために誰かからの助けを欲しがっているのです。それであなたはどうしますか? あなたが混乱の結果から指導者や導師、大師を選ぶとき、その指導者、その導師、その大師もまた混乱しているに違いありません。明確さがあるとき選びますか? あなたが明確であるなら選択はありません。案内者を要求する、頼む、捜すという問題はありません。案内者、教師を捜すのはあなたが混乱しているときだけです-幸福なときではなく、喜びにあふれたときではなく、あなた自身を完全に忘れているときではなく。それはあなたが惨めさ、葛藤を伴うあなた自身といて、そして逃避しようと望むときだけです-そのときのみあなたは案内を捜します。そして混乱から選択するのです。したがって選んだものもまた混乱しているに違いありません。したがって、あなたの指導者は、政治的であれ 宗教的であれ、混乱しているのです。

 それゆえ、あなたはあなたの混乱からあなたを助け出してくれる誰かが欲しいのです。言い換えれば、あなたはあなたの混乱から逃げ出したいのです。そして逃避の手段を与える人をあなたは崇拝します、指導者とします。そしてあなたが造ったこと、あなたがつくり出した混乱、はあなた自身の結果、あなたの環境、背景、教育、社会的・環境的影響の結果です。それゆえ、あなたはあなた自身この混乱のすべての原因であるので、逃げること、助けてくれる誰かを求めることは役に立ちません。あなた自身でそれをきれいにしなければなりません。そしてそれは苦しい仕事なので、あなたはロマンチックで、感傷的でありたいのです。それであなたは導師、大師、を追いかけ、信者と信者でない者の間の争いをつくり出します。ところが、あなたの混乱に気づくこと、その複雑さ、その微妙さ、その構造を見ること、誰が混乱、つまり物事・財産・所有に関しての混乱、人々・関係に関しての混乱、観念、何を信じるべきで、何を信じるべきでないか、何が真実で何が虚偽かに関しての混乱、を作り出したかを理解すること-この過程すべてに、心の表面のレベルだけでなくて隠れた深みにおいても気づいていることは、大きな油断のなさ、大きな注意深さを必要とします。それは私自身を含めて、どんな教師も必要としません。それどころか、あなたが選ぶどんな教師もあなたを欺くでしょう。なぜならあなたは欺かれたいからです。しかし重要なことはこの混乱の過程を見守ること、あなたの関係の中でそれに気づいていることです。いまあるものへの気づきそのもの中に、混乱のこの過程への気づきそのものの中に、自由があります。

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 それは私たちの問題、あなたのそして私のであるので、あなたと私がそれをきれいにしなければなりません。他の誰かではないのです。私たちは他人に光を求めるのではなく、私たち自身に対して光でなければなりません。私たちは誰かの救い主によって灯される灯火ではありません。私たちが世界の中にこの混乱を作り出したのです。それは私たち自身の混乱の結果です。そして私たち自身を理解することを通じることを除いて、それをきれいにすることはできません。私たち自身を理解するためには、私たちは大師を必要としません。大師はあなたを誤って導くでしょう-なぜならあなたが選ぶ大師は自己投影されているからです。この混乱を一掃するには、あなた自身を関係の中に観察しなければなりません。それは行為です。あなたは関係の中で、行為の中で、瞬時瞬時あなた自身に気づいていなければなりません。あらゆる言葉、あらゆる思考、あらゆる感情を見つめて。何の歪みもなしに、何の非難もなしに。愛する子供を見て理解しようと願う様に単純に見て。そのとき自由があります。そのときあなたはもはや混乱をつくり出していません。混乱は中心-『私』と『私のもの』の、蓄積された記憶、経験、挫折と恐怖の中心、がある限りにおいてのみ起こります。そしてその中心が存在しないとき、教師、大師、案内人のどんな必要があるでしょうか?

 重要なことは誰が教師で、誰が案内人であるかではなくて、私たち自身を理解することです。というのはそれが幸福をもたらすから、それが創造的な喜びをもたらすからです。そしてその喜び、その至福は大師から学ぶことができるものではありません。言葉を学ぶことができます。テクニックを学ぶことができます。しかしテクニックはものではありません。言葉は実在のものではありません。テクニックを通して経験することはできません。経験することはその中に『私』が存在しない状態です。『私』はテクニックです。『私』はそれを通して私たちが結果、利益を獲得する、あるいはそれを通して否定するやり方です。そして『私』は決して経験のその状態の中にあることができません。何といっても、何かを経験しているとき『私』という意識はないのです。しかし『私』は、要求し、否定し、混乱をつくり出す中心の意識がある限り存在します。その意識は経験の状態であり、その中に命名と記録があります。しかし『私』のような記録する者がいないなら、経験の状態のみがあります。そしてその実在するものを経験することは自己認識なしに起こることはできません。あなた自身を知ることなしに他人に従うことは-政治的指導者にせよ、宗教的指導者にせよです。誰であるかは問題ではありません-錯覚に、破滅に、悲惨につながります。

 それゆえ、重要なことは、なぜあなたが指導者、大師をつくり出したか、彼らが存在するか存在しないか、彼らの存在は事実か事実でないかを見出すことではなくて、なぜあなたは彼らに従うのか、なぜ聞くのか、なぜ崇拝するのかです。あなたは偶像崇拝を否定します。けれども、これは偶像崇拝の一つの形なのです。あなたは手で作られた偶像、切望される像を否定します。しかし心によって彫られた像を、あなたは崇拝します。それらはすべてあなた自身の貧困、あなた自身の不十分さ、あなた自身の悲惨からの逃避です。そしてあなたはその葛藤を理解することができるのです。関係の中であなた自身と直面するときだけ。それは行為です。

 質問: 真の簡素とは何ですか?

 クリシュナムルティ: この種の質問を理解するためには、それを言葉のレベルで熟慮するだけでなく、また、それを直接に経験しなければなりません。たぶん私たちは、少なくとも数分、この質問を実験できるでしょう。私は伝達するためにそれに表現を与えて、言葉を使って話すでしょうが、私たちはなお何が真の簡素であるかを見出し、それを経験することができます。決定的に重要なことは単に言葉を聞くことではなく、経験することです。

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 それで、真の簡素とは何でしょうか? 明らかにそれを見出すためには、それに否定的に接近しなければなりません。なぜなら私たちの心は、辞書、聖書、宗教的な本などによって、それが何であるかの肯定的概念を詰め込まれているからです。しかし、それは単に模倣、単に近似にすぎません。それは簡素ではありません。一つの明白な事実があります。つまり、結論でいっぱいの心は簡素な心ではないということです。したがって、私たちは否定的な過程を通してのみ、それを理解することができるのです。

 そこで、簡素は腰布で始まるのではありません。わずかな不可欠のもののみを所要することは、明らかに簡素を示しません。禁欲とその効果、それは優越感です、簡素ではありません。心が結果を得ようとしている限り、心が何かになろうとしている限り、心が否定的、あるいは肯定的に努力に-何かでであることや何かでないことに、捕らえられている限り、簡素はありません。簡素は主として、わずかな所有物しか持たないことにあると私たちは考えるように思われます。わずかな所有物は便利です。それがすべてです。旅行しようと思うなら、身軽に旅行しなければなりません。しかしそれは徳ではありません。それはあなたを簡素にしません。

 簡素は心が信念から自由であること、成ることの苦闘から自由であること、いまあるものと留まることです。そして、信念、苦闘、努力、徳の追求で一杯の心は、簡素な心ではありません。しかし残念ながら、私たちは簡素の外側の表現を崇拝します。なぜなら私たちは私たちの生を、物で、財産で、家具、本、衣服でそんなにいっぱいにしてしまったので、そういったことを否定する人を崇拝するのです。私たちは彼が素晴らしく簡素な人、聖者であると思うのです。確かにそれは簡素ではありません。簡素は自己がいないとき生じます。そして自己は肯定的、あるいは否定的に、何かであろうとする欲望があるときにいるのです。そして、何かであろうとする欲望が複雑さ、混乱をつくり出すのです。そこで恐怖から、僅かのものを持つという簡素な表現を崇拝することによって、私たちはこの混乱、この複雑さと苦痛を否定します。確かに、現世を捨てた、しかし観念と信念の、隠れた追求と秘密の野心の世界の中に生きる、彼自身の欲望で燃えている人間、は簡素な人ではありません。彼は聖者ではありません。肯定的でも否定的でも、何かであろうとする欲望がないときのみ簡素があります。そのとき『私』は不在です。それはどんなものとも-国家と、団体と、特定の主義や宗教的教義と同一化していません。その『私』がまったく不在であるとき、そのとき、簡素があり、行為の世界の中にそれ自体を表現します。しかし真似すること、模倣すること、わずかな物しか持たないようにし、心を観念、信念、欲望、熱情でいっぱいにすること-そのような生は簡素な生ではありません。

 それゆえ、簡素は複雑な『私』、私自身の構造を理解する過程と共にのみ生じます。私がいまあるものを理解すればするほど、そしてその理解が広く深ければ広く深いほど、葛藤からの、悲惨からの自由はより大きくなります。そして簡素をもたらすのはこの自由です。そのとき心は静かです。心はもはや、いっぱいになっていません。追跡していません。そして努力の全過程が理解されるとき、池は静かなので、それで心は静かです。そして心の静かさと共に始めも終わりもないものが生じます。原因のないものは簡素です。そして原因のないものは真実です。それはあなたによって発明されることができません。なぜならあなたの発明する真実、あなたの製造する真実は原因を持っています。しかし真実であるものは原因を持っていません。神は原因を持っていません。それはあるのです。そしてその状態があるためには、心は途方もなく簡素でなければなりません-管理されたのでなく、訓練されたのでなく、それは簡素ではありません。それは単に束縛にすぎません。心が簡素であるとき、祝福であるものが生じるのです。

 1949年10月30日

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