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203 H・P・ブラバツキー 著  1892  夢魔物語 竜王文庫

いかに深く人は旅が出来るか

J. Krishnamurti: Exploration into Insight - 'How Deep Can One Travel'
洞察の中への探究 -「いかに深く人は旅が出来るか」

 P: あなた、いかに深く人は旅ができるでしょうか?

 K: 質問をこのように述べていいでしょうか? 私たちの生はたいてい非常に表面的です。大きな深みで生き、そしてまた表面的にも機能することができるでしょうか? 心が非常な深みに住む、あるいは生きることができるでしょうか? 私たちがみな同じことを尋ねているのか私にはさだかでありません。私たちは表面的な生を送り、大部分はそれに満足しています。

 P: 私たちは満足していません。しかし、どうやって深みに行くか、私たちは知らないのです。

 K: 私たちはたいていそれで我慢します。では、どうやって心は非常な深みに入り込めばいいのでしょうか? 私たちは測定の見地から深さを議論しているのでしょうか? 深さは測定を含みます。私は、私たちがその言葉を測定の意味で、あるいは時間の意味で使用しているのではなく、深遠な何かとして用いていることを明確にしたいのです。これらの言葉は時間の意味を持っていますが、私たちは時間と測定の意味をすべて洗い落としましょう。概して表面的に生きている心が、非常な深みに入り込むことができるかどうかを私たちは尋ねています。そのことが問題です。私は、それはエネルギー、気力の高まりを要すると言います。そして尋ねますが、このエネルギーはどうやって高まればいいのでしょうか?

 P: 私はほかの次元を知りません。それはやり通すエネルギーの高まりを要します。どうやってエネルギーは高まればいいでしょうか、それともそれは間違った質問なのでしょうか?

 K: しばらくの間、「エネルギー」という言葉を忘れましょう。私は非常に表面的な生を送っていますが、知的に、あるいは言葉の上で、それ自身の中にとても深く入っている生の、心の美しさがわかります。さて、私は自分自身に、私はその美しさを見る、その性質を見ると言います。どうやってこれはなされるでしょうか? エネルギーやその他もろもろを持ち込む代わりに、そのことにしがみつきましょう。どうやってこれはなされるでしょうか? 思考はそれに入り込むことが出来るでしょうか? 思考は深遠になりうるでしょうか?

 あなた、どうかこれをよく聞いてください。私は表面的な生を生きています。私は大きな深みで、違った種類の生を生きたいのです。測定や降りていくための時間を意味する深さではなく、底知れぬものとしての深さを私は理解します。深さが測れないもの。私はそれを見出し、それと生きたいのです。さて、どうすればいいか教えてください。 私は知りません。私は尋ねています。時間であり、過去のものである思考ができるかどうか、思考がこの深みに入り込むことができるかどうか?

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 私が言っていることをちょっと聞いてください。私は非常に明確に、どんな測りうる深さもなお小さな測定の範囲内にあるのを見ます。私は時間に巻き込まれているものとしての下降を見ます。それは何年もかかるかもしれません。そこで私はそれを論理的に考え、知的に見ます。私は、深みが時間のない測り知れない性質、いつまでも底に到達することのない無限を意味するのを見ます。それは概念ではありません。それは私には言葉の上のものではありません。私はあなたにそれを単に言語化しただけなのです。それで、それはあなたにとっては概念になります。

 M: あなたは私に質問をしているのでしょうか、それとも私が私自身に質問しているのでしょうか?

 K: 私は質問を私自身にしています。それゆえ、質問をあなた自身にするようにあなたに頼みます。私は自分の生が表面的な生であるのを見ます。そのことは明白です。そこで、私は自分自身に言います。 思考はこの深みに入り込むことができるでしょうか? 思考は私が持つ唯一の道具ですが。

 Q: その場合、私たちは道具を使うことができません。

 R: 道具を使うことなしに、どうやってこの深みに出会いますか?

 K: 私はとても表面的な生を生きており、測り得ない何かの深みがあるかどうか、私自身で見出したいのです。そして私は思考がそれに到達できないことを見ます。なぜなら、思考は測定であり、思考は時間であり、思考は過去のものの反応であるからです。それゆえ、思考はとてもそれに触れることができません。では、何がこれをもたらすでしょうか? 思考がそれに触れることができず、それが人間の持つ唯一の道具であるなら、それなら彼はどうすればいいでしょうか? 運動している、機能している思考が、私がその中で生きている、私が属している表面的なこの世界をつくり出したのです。それは明らかです。さて、思考の使用なしに、心が、底の知れない何かに触れることができるでしょうか? 睡眠中のある瞬間や一人で散歩しているときだけではなく、そこで生きるために。心がその性質に属するには、深みが見出されなければならないと私の心は言います-私は名のないものの、その未知の測り知れない深みに気づかなければなりません。

 P: 何の中に入り込む、掘り下げて調べるのですか?

 K: 私はそれらの言葉を使いたくありません。

 P: いいえ、あなた。思考は測定の道具です。測定をする機械装置から自由でなければなりません。

 K: いえ、いえ、これについて単純でありましょう。

 P: 思考とは何であるか掘り下げて調べられますか? 

 K: 私たちはその中に入りました。思考は時間です。思考は測ることです。思考は記憶の反応です。思考は知識、経験、過去です。したがって過去のものは時間です。その思考は常に表面的に機能するに違いありません。そのことは単純です。

 P: 今あなたが言ったことは、結局すごい抽象に終わっています。

 K: いいえ。

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 P: それはなっています。あなた。

 K: それは抽象ではありません。それは事実です。しかし、思考とは何でしょうか?

 P: あなたは思考は時間であると言いました。あなたはそのことを思考から抽象しました。

 K: 思考はそのことの中に入り込むことはできません。それがすべてです。それをそのようにして置きましょう。

 P: それは測定する道具なので、この道具に入り込むことができるでしょうか?

 K: いいえ、私は深みに関わっています、測定の機械装置にではありません。測定の機械装置はかなり明白です。私はその全てを掘り下げて調べる必要はありません。

 P: そう言われるなら、では私は言います。何の次元へ入り込むのでしょうか? あなたがそのことをしたくなく、私たちの知っている唯一の道具である思考も持ちたくないなら、人は思考なしに何の次元に入り込むのですか?

 K: 入り込むことについての問題はありません。

 P: ではそれは何でしょうか?

 Q: 私たちはなお、自分たちが持っている利用できる機械装置の構造に束縛されています。それは私たちが住みたいあの底知れぬ状態をあらわにする立場にありません。なぜなら、言語は微妙だからです。その道具はあまりにも脆弱すぎます。私たちはその次元を扱う言語を持たなければなりません。私たちは伝達する道具を持たなければなりません。

 P: 道具は何ですか? 言語は脆弱すぎます。私がその状態にあるとき、あなたに「どんなであるか」について話すことができません。

 K: 私たちは言語による伝達に関わっているのでしょうか、それとも、その深みに触れることに関わっているのでしょうか?

 Q: 時には私は触れるということを、私は知っています。どうやって私はあなたにその状態を告げることができるのでしょうか?

 P: あなたは、あなたの持つ現存する道具を用いないと言われました。それは思考ですが。

 R: しかし、クリシュナジが違いを指摘されたと思うのですが。それをたまたま感じるという問題ではなく、どうやってその中にいるか、その中に生きるかです。

 K: 食べるにつれて欲求が生じます。人間がしているように表面的な生を送っているので、たいへんな広さと美、巨大なもののあるその深みを見出したいと私は自分自身に言います。では、私は何をすればいいでしょうか? 思考が機能していないとき、起こるにちがいない別の作用、別の運動というのは何でしょうか? 心は測ることなしに留まれるでしょうか?

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 P: そこで質問があります。測ることがないところにその状態は生じることができるのでしょうか?

 K: それがすべてです。あなたが知っているあなたの生はすべて測ります。さて、あなたにお尋ねします。心は測ることなしにいることが出来るでしょうか?

 P: もしも、私が「どうやって」とあなたに聞くならば、あなたは「いいえ」と言うでしょう。では、残された唯一のことは、測っている心を観察することです。なぜなら、ほかの道はないからです。

 K: あなたはそれをしましたか? 観察しましたか? 心はその運動と測定を観察しましたか?

 P: はい。

 K: 比較する、測る、終わる。それから何が?

 P: それから静寂があります。

 K: 測定の運動が終わったとあなたは言います。それは正しいでしょうか? あなたは測定を伴う運動が終わったと正直に、本当に言えますか?

 P: ちょうどいま、終わりました。

 K: それは充分ではありません。充分とは、まさに私の生を通して測定が終わるはずであるということを意味します。

 P: どうやって私はそれを知ることができるのでしょうか?

 K: 私は見出そうとしています。測定 - 測定は比較、模倣、順応、理想、抵抗と同じであり、非測定から私の心を保護します - 測定の運動の中で条件づけられた私の心が次のように言えるかどうかを私は見出したいのです。心は「さて、私は測定の運動全体を理解してしまった。そしてその道理に適った場所であるところと、それがまったく場所を持たないところとが見える。」と言えるでしょうか?

 P: 思考がない心によって、それはどうやって理解されるのでしょうか?

 K: それは知覚します。それをあなたに示しましょう。思考はしばらくそれを調査し、分析しました。思考は尋ね、推し進め、調査しました。そしてそれは自分は測定の運動全体を見てしまったと言います。そしてその運動についての知覚そのものが、その運動の終わりです。それについての知覚そのもの、すなわち、見ることが行為であり、終わりです。この運動が時間であるということ、測ることであるということを見て、その全体図、その性質、その構造を見て、その知覚そのものが、それを終わらせることの中に働きます。それゆえ、見ることが終わりです。その中すべてに努力は含まれていません。あなたは言います、「私はこれを見た。」 見ました?

 Bombay 30th January,1973

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