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絶望の性質

J. Krishnamurti: Exploration into Insight -
'The Nature of Despair' Madras 20th December 1976
洞察の中への探究 - 「絶望の性質」

 P: 絶望の根を調べていいでしょうか? それは生の中でとても現実の問題です。ある意味で、悲しみの根は絶望の根です。それは同じ性質であるにちがいありません。

 K: 私は絶望とは何かなと思います。私は決してそれを感じたことがありません。したがって、どうかそれを私に伝えてください。「絶望」によってあなたは何を意味しますか?

 P: まったくの無益さという感覚。

 K: それはそう―まったくの無益さという感覚、なのですか? 私はそれを疑います。それはまったく絶望ではありません。どうすればいいかわからないこと、それを絶望とあなたは言うのでしょうか?

 R: 意味と意義のまったくの欠如。それがあなたの意味するものでしょうか?

 FW: 私は「希望が麻痺させられた状態」を示唆したいのですが。

 P: ある意味で、絶望は希望と本当に何の関係も持ちません。

 K: それは悲しみに関係がありますか? それは自己憐憫ですか? 私は尋ねています。示唆しているのではありません。

 P: それは自己憐憫ではありません。自己憐憫はその規模が狭いのです。

 K: 私たちは調べているのです。それは悲しみに関係しているのでしょうか? 悲しみは絶望と出口を見出せない深い自己憐憫の感覚に関係しているのでしょうか?

 P: 私はこれらの記述はすべて狭いと感じます。

 K: それらは狭いですが、しかしそれをより広くしましょう。それは道の終り、つなぎ綱の端への到達だとおっしゃるのでしょうか? 何かについて何の方法もないなら、あなたはほかのどこかに目を向けます。しかしそれは絶望を意味しません。

 FW: 子供が死ぬ母親は絶望的であると想像できるのでは。

 K: まったく違います。それを絶望的と私は言わないでしょう。これは悲しみに関係していると私は思いますが。

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 P: 私たちは皆絶望を知っていないでしょうか?

 K: 私は知りません。私は尋ねています。私に教えてください。

 P: まったくの全面的な無益さの感覚があります。

 K: いいえ、ププル。「無益さ」の代わりにもっと意味のある言葉を使ってください―無益さはまったく役に立ちません―それを違う風に述べてください。

 R: 私はそれはつなぎ綱の端だと思います。

 K: 希望の終わり、捜索の終わり、関係の終わり。ほかのどなたか、絶望を知りませんか?

 FW: 私はそれは空白の壁であると思います。

 K: 空白の壁は絶望ではありません。

 A: あなたの身体が死んでしまう前でさえ何かが死にます。

 K: それは絶望ですか?

 Par: まったくどうすることも出来ないこと。

 B: 悲しみに何かの関係があるでしょうか? 私はそれは悲しみの底、悲しみの穴ぐらであると思います。

 K: バラサンダラム、あなたは、言わばあなたは決して絶望を知ったことはないと言っているのでしょうか?

 Par: それは希望の反対です。

 K: いいえ、博士。絶望が何であるかご存知ですか? それが何であるか私に教えて頂けるでしょうか?

 Par: 失敗から生じた状態。

 K: 失敗? あなたはそれをあまりにも小さくしています。私は絶望はむしろ大きな背景を持っていると思います。わたしは絶望の中にいる人々と話してきました。どうやらあなたがたの誰一人として絶望を知らないようです。知っています?

 R: 私は自分が絶望を知っているとは思いません。私は苦しむことが何か知っています。

 K: 私は尋ねたいのです。私たちが絶望を話すとき、それは深遠な何かでしょうか、それともそれは単なる一人の人のつなぎ綱の端に過ぎないのでしょうか?

 P:あなたは絶望を知っています。では、私たちに少しそれを話してください。

 Par: それは暗やみですか?

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 K: いいえ、あなた。絶望とは何なのか知っていますか? 苦しんでいる人間はそれが何を意味するか正確に知ります。彼はやぶを打って獲物を追い出しません。彼は私は苦しんでいる、私の息子が死んだのを知っていると言います。そして、孤独、喪失のぞっとするような感覚、自己憐憫の感覚、凄まじい嵐があります。それは危機です。絶望は危機だとあなたはおっしゃいますか?

 JC: はい、あなた。

 K: どうかまだ私に同意しないでください。どうも、一人か二人を除いて、誰も絶望の中にあるとは思えません。

 R: それは苦しみからの逃避の一形態でしょうか?

 K: 絶望の中に、嫉妬が含まれているでしょうか、喪失の感覚が? 私はあなたを所有しています。あなたは突然私を捨て、私に対して壁を立てます―それは絶望の一部でしょうか? すみませんが、これはまったく私の理解できない何かなのです。私はそれが正しいとも正しくないとも言っていません。ただ「絶望」とは何か尋ねているのです。辞書の意味は何でしょうか?

 FW: その言葉の起源は希望から来ています。

 K: 絶望したことがありますか、あなた? 一般的な言葉を用いて、それをあなたと私が使っているのですが、それがどういうことかあなたは知っていますか―絶望? それは深い恐怖の感覚でしょうか?

 P: あなたがあなた自身の奥底に、あなた自身のまさに根に達するとき、恐怖と絶望を区別することが出来ると思いますか?

 K: いいえ、そのとき何故あなたは「絶望」という言葉を使うのでしょうか?

 A: あなた、絶望という言葉は恐怖の感覚とは異なると私は思います。

 P: あなたが自分のどん底にぶつかるとき、そのとき恐怖、悲しみ、絶望を区別することは非常に困難です。

 K: お尋ねしていいでしょうか―あなたに個人的ではなく―本当にあなた自身のもっとも低い深さに達したでしょうか? そして達するとき、それは絶望でしょうか?

 P: あなた、あなたがその質問をするとき、可能な答えは有り得ません。どうやって人は深さを知るのでしょうか?

 K: それは無力さの感覚でしょうか、それとも、もっとそれ以上のものでしょうか?

 P: それはもっとそれ以上のものです。なぜなら、無力さの中には希望があるからです。

 K: したがって、それは希望よりもっとずっと意義のあるものです。完全に、まったく絶望の中にあると感じるその感情、その状態は何でしょうか? それはどんな種類の運動も起こらないということでしょうか、そして何の運動もないので、あなたはそれを絶望と呼ぶのでしょうか?

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 P: あなたはどうやって区別しますか?

 K: 見てください。私は息子を愛し、彼は堕落してしまい、私は何も出来ません。彼に話すことさえ出来ません。彼に近づくことさえ出来ません。彼のそばに行き、触れることが出来ません。その状態は絶望でしょうか? 「捨て鉢(desperate)」という言葉、捨て鉢と絶望(despair)。捨て鉢は絶望の状態と考えますか?

 FW: 私たちは時に「捨て鉢で何かを望む」と言います。その中に、何かを望んでいる投影があります。

 P: 前者にはある方向に向かっての緊急性があります。後者には何かに向かっての緊急性がありません。

 FW: そのとき絶望は適当な言葉ではありません。

 P: 絶望は生の中で非常に重要な言葉です。

 B: それはまたエネルギーの欠如です。絶望の中にあることは何かに対して捨て鉢になっていることではありません―しかしエネルギーのどん底に触れるためには、それらは皆一つでなければなりません。

 P: 深みに飛び込むとき、悲しみを絶望から分離することは出来ません。区別が根本的に妥当であるとは私は思いません。

 S: ププルジ、出発したとき、あなたは絶望と悲しみの間に区別をすることを望んでいましたが。

 P: 下に行く、深く掘り下げるとき、絶望と悲しみの間の区別が存在しないことを、私は見出しつつあるのです。

 K: あなたは悲しみの根が何かを尋ねているのでしょうか?

 P: いいえ、あなた。私は、私にとっては悲しみが絶望から分離できないことを見出します。

 JC: 絶望は無の感じです。

 FW: しかし言葉の起源はある意義を持っている筈です。

 P: それは意義を持っていないのかもしれません。言葉はその意味をカバーしていないのかもしれません。あなた、ある人々は絶望してあなたのところに来たに違いありません。無の、絶望の悲しみがあります。

 K: ププルジ、私たちは、絶望は悲しみに関係している、あらゆる関係のまったくの拒否のあの感覚に関係していると言っているのでしょうか?

 P: はい、全面的苦痛。

 K: 全面的苦痛、どんなものとも接触あるいは関係を持たないことを意味する完全な孤独の全面的感じ。絶望は悲しみに関係しているのでしょうか、孤立、保留することに関係しているのでしょうか?

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 JC: それに対する最終的な状態、全ての希望あるいは期待の終わりがあります。

 K: あなた、あるいは誰かがその点に達したでしょうか? 魂の暗やみ、キリスト教徒はそれをそう呼びます、魂の暗夜? あなたはそれをそう呼びますか? それは絶望でしょうか? それは絶望よりもっと有力です。

 P: 私がこのレベル、あるいはあのレベルにあると私に言うことはできません。

 K: このように始められないでしょうか、ププル? 言葉とその言葉の深み、「悲しみ」というその言葉の意味を最初に用いましょう。それで始めましょう。

 P: 様々な程度で、私たちは皆悲しみを知っています。

 K: 悲嘆、無力の感覚、出口のない感覚。それは絶望を引き起こすでしょうか?

 P: それは絶望です。何故あなたは異議を唱えるのでしょうか?

 K: 私はそれを絶望とは呼ばないでしょう。ゆっくり行きましょう。手探りで進みましょう。私の息子が死にました。そしてそれは私が悲しみと呼ぶものです。私は彼を失いました。私は決して彼を二度と見ないでしょう。私は彼と生きました。私たちは共に遊んできました。あらゆるものは去り、そして突然、夜通し、いかにまったく孤独であるかを私は実感します。あなたはその感じ、その仲間を持たない深い孤独の感覚を絶望と呼びますか? あるいは、それは誰ともどんな種類の関係も全面的に欠如していること、それは孤独ですが、それについての深い気づきの感覚でしょうか? あなたはその孤独が絶望であると言うのでしょうか?

 P: あなたは状況を記述するために、状況にぴったりはめ込むために、言葉を使っています。

 K: 私は状況を記述しようとしているのです。

 P: あなたは「悲しみ」という語を使うことが出来ます。あるいは「絶望」という語を使うことが出来ます。しかし状況は同じままです。

 K: それは何でしょうか、どうやってそれから出たらいいでしょうか、それをどうすればいいでしょうか?

 P: いいえ、あなたは「悲しみと全面的に留まる」と言いました。悲しみは全てのエネルギーの総計でしょうか?

 K: わかりません。

 P: あなたは、悲しみの深みの中にエネルギーの総計があると言いました。これは同じ性質のものであるに違いありません。

 K: あなたが言っていることがわかります。昨夜Kは、悲しみはあらゆるエネルギーの本質、あらゆるエネルギーの精髄であると言いました。すべてのエネルギーがそこに焦点を合わせます。私はそれは正しいと思います。さて、それは事実でしょうか? それは現実でしょうか?

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 P: 今朝、私は確かに私が絶望と呼ぶ他方の感情を持ったのです。私は確かにそれを持ったのです。全面的な、絶対の。私が今どんな声明をしても、私をよそへ移してしまうでしょう。

 K: 見てください。ププル、私はそれをわかりつつあると思います。私の息子は死に、そのことの中に含まれているものを私は実感します。それは決して変えることの出来ない事実です。現実の事実を受け入れることの拒否が絶望でしょうか? 私は息子が死んでいることを全面的に、完全に受け入れます。私はそれについて何も出来ません。彼は去ったのです。私は事実と共に残ります。私はそれを絶望、悲しみと呼びません。それに名前をつけません。私は、彼は終わったという現実の事実と共に残ります。どう思いますか? それから離れるどんな動きもなしに、その事実と共に残ることが出来るでしょうか?

 P: 悲しみあるいは絶望もまた変えることの出来ない事実ではないでしょうか?

 K: いいえ...それをゆっくり、注意深く見ましょう。私は私の息子を愛し、突然彼は死にます。その結果は悲しみと解釈される驚くべきエネルギーの感覚があるという事です。いいでしょうか? 「悲しみ」という言葉はこの事実を示します。その事実だけが残ります。それは絶望ではありません。

 そのことから移りましょう。この巨大な危機があり、心がどんな形の逃避も未来への投影であることを実感・理解し、どんな動きもなしにその事実と残るとき、実際に何が起こるかを私は見たいのです。事実は動かせないです。私は、心は、その動かせない事実と残り、それから立ち去らないことが出来るでしょうか? それをごく単純にしましょう。私は自分の人生をあるものに捧げ、そしてある人がそれを裏切ったのを見出したので怒っています、激怒しています。その激怒はエネルギーのすべてです。わかりますか? 私はそのエネルギーに従って行動しませんでした。それは怒りの猛威に表現された、全てのあなたのエネルギーの集積です。私はその怒りの猛威と共に残ることが出来るでしょうか? 解釈せず、激しく非難せず、合理化せず、ただそれを保つ。それが出来るでしょうか? 何が起こりますか? 私はそれを絶望と呼びさえしないでしょう。

 A: それは意気消沈の状態であると言われるのですか?

 K: いえ、いえ、それは反応です。これは、私は共に残るのです。それは私に告げようとしています。私はそれを意気消沈と呼ぼうとはしません。それは私がそれに従ってふるまうことを意味します。

 A: 私はそこに患者がいる、伝染病と熱があると言います。今、熱はその伝染病の徴候です。その様に、私は怒りと共に、それに何をしようとすることもなしに、自分自身を見守っています。

 K: いいえ、アシュユットジ、私はそれを見守ることを意味していません。あなたはその怒りです。あなたはその全面的な激怒です。その激怒の全エネルギーなのです。

 A: エネルギーはありません。それと共に進むのはまったくの無力の感情です。

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 K: いいえ、あなた。私はププルジが話していることがわかると思います。それは、私が私自身の作った網の中に捕らえられているということを理解するに到って、そして私は動くことができない、私は麻痺しているということです。それは絶望でしょうか?

 JC: 泳げない女性が息子が海で溺れているのを見るなら、そのとき、私は絶対的絶望があると思います。なぜなら、彼女は息子が助かり得る事を知っているが、彼女はそうすることが出来ないからです。おわかりでしょうか?

 K: とてもよく、あなた。しかし、私たちはことから離れつつあると思います。私たちは今、種々なやり方で絶望の意味、悲しみの意味、それの全ての意味を描写しているのです。

 A: あなたがたった今描写した条件とププルジが描写していたことは怒りとは違います。怒りは誰か他の人の振る舞いに対する反応です。これはあなた自身の立場に対する反応です。

 K: それは反応ではなくて、自分自身の不十分さについての気づきです。そして、 表面的ではなくその深みにおける不十分さが絶望です。それはそうでしょうか?

 FW: これよりもっと多くのものがないでしょうか? 私はこの不十分さの気づきを疑います。なぜなら、その不十分さを受け入れたくないという要素がすでにあるからです。

 P: どうやってあなたはわかるのですか?

 FW: 私はあなたが言ったことから集めようとしました。

 K:見てください、 フリッツ、あなたがそれを感じようが、それが事実でなかろうが。あなたはそう言うのでしょうか、お尋ねしてよければ、あなたは全面的に不十分に感じたことがありますか?

 FW: 私は思い出せません。私は知りません。

 K: しかし私はあなたのところに来て言います。私はこのまったくの不十分さを感じています。そしてそれを理解したいのです。それは私の中で沸騰しています。私はそれについてやけっぱちの状態にあります。あなたはそれにどうやって取り組みますか? 私がそれを超えるのをあなたはどうやって助けてくれるのでしょうか?

 FW: 私はそれに非常によく似通ったものを知っています。例えば、生の中の大部分のものを私は理解できません。そしてまた、私の脳は理解するのに完全に不適当であるのを見ます。それで、あなたがその不十分さのことを言っているなら、私はその不十分さに気づいています。

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 K: あなた、私は自分が不十分であるのを実感します。私はそれに気づいています。そのとき、私はそれを種々のもので満たそうとします。私は私がそれを満たしているのを知っており、それを満たすとき、それはなお空虚であり、なお不十分であるのを見ます。私は、私が何をしようが、その不十分さは決して拭い去れない、満たされ得ないという事を見る地点に到達したのです。それは本当の悲しみ、あるいは絶望です。それはそうではないでしょうか、ププルジ? 見てください、私は此処で何かを得たいのです。私は続けていいでしょうか? 私の息子は死にました。私はただやけっぱちであるだけでなくて、深いショック、悲しみと私が呼ぶ喪失の深い感覚の中にあります。私の本能的な反応は逃げ去る事です、説明することです、それに従って行動することです。今、私はその無益さを理解し、私は行動しません。私はそれを悲しみと呼ぼうとはしないで、それを絶望と呼ぼうとはしないで、それを怒りと呼ぼうとはしないで、事実が唯一のものであるのを見ます。ほかに何もありません。ほかのあらゆるものは非-事実です。さて、そこに何が起きるでしょうか? それが私が発見したいものです。それが絶望なら、それに命名せずに、それを認識することなしにそれと共に残るなら、どんな思考の動きもなしにそれと全面的に残るなら、何が起こりますか? それが私たちが討論しようとしていることです。

 R: それは非常に困難です。なぜなら、思考はそれと共に残れと言い、それはなお思考ですから。

 K: いいえ、それは知的なゲームです。それはまったく無効です。私は動かせない事実に出会い、それを動かそうとする絶望的な欲求を持ってそれに至ります。どんな理由であれ―恋、愛情、どんな動機であれ。それで私はそれに対して戦います。しかし事実は変えることは出来ません。私はどんな意味の希望、絶望、言葉の構造のすべてなしに事実に直面し、そして、「そうだ、私は私がそうであるものなのだ」とただ言うことが出来るでしょうか? 私がそこに残ることが出来るなら、そのとき、ある種の爆発的な行為が起こると私は思います。

 A: あなた、これが起きる前に、求められるある浄化があります。私がそれを見るとき、ある心の浄化が求められています。

 K: 私はそれを浄化と呼びません。見てください、アシュユットジ、悲しみが何か知っていますね? どんな動きもなしにそれと共に残ることができるでしょうか? 動きがないとき何が起こりますか? 今私はそれを得つつあります―私の息子が死ぬとき、それは動かせない、取り戻せない事実です。そして私がそれと共に残るとき、それはまた動かせない、相容れない事実ですが、二つの事実が出会います。

 P: 何のわかる原因もない悲しみの深みに、やり直すべき何もありません。やり直すべき何の出来事もありません。

 K: どんな分析的な過程も不可能です、わかります。

 P: ある意味で、そこでは思考は麻痺させられます。

 K: はい、その通りです。私の息子が死んでいるという動かせない事実があり、そしてまた、私は逃げ道を持っていないということがもう一つの事実です。そこで、これら二つの事実が出会うとき、何が起こるでしょうか?

 P: 私が言ったように、過去はなお、何の意志のせいでもなしに、そこにあります。

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 K: わかります。

 P: さて、その後に何ができるでしょうか?

 JC: 私たちの気づきの欠如は二つの事実を認めないでしょう。

 K: それが私が見出したいことです。何かが起こるに違いありません。私は二つの事実があるのか、それともただ一つの事実があるのかを疑っています。私の息子が死んだという事実と私はそれから離れてはならないという事実。後者は事実ではありません。それは観念です。それゆえ事実ではありません。ただ一つの事実があります。私の息子は死にました。それは絶対の動かせない事実です。それは現実です。そして私は自分自身に私は逃げてはならない、それに完全に出会わなければならないと言います。そしてそれは事実であると言います。私はそれが事実であるかどうかを疑います。それは観念です。それは私の息子が死んだという事実と同様に事実なのではありません。彼は死んでしまいました。ただ一つの事実があります。あなたが事実を自分自身から切り離して、「私は全ての注意をもってそれに出会わなければならない」と言うとき、それは非-事実です。事実は他方のものです。

 S: しかし私の動きは事実です。そうではないでしょうか?

 K: それは事実でしょうか、それとも観念でしょうか?

 S: そこに留まりたいと望むことではなくて、その怒りのエネルギーから離れることや傷のエネルギーから離れること、それは事実ではないでしょうか?

 K: ええ、もちろん。覚えてますね、私たちは先日議論しました―抽象概念も事実であり得ます。私は私がイエスであると信じます。そのことは事実です。私が「私はいい人間である」と信じることが事実であるのと同様に。両方とも事実です。両方とも思考によってもたらされています。それがすべてです。悲しみは思考によってではなくて、悲しみとして解釈されてきた現実によってもたらされたのです。

 S: 悲しみは思考によってもたらされたのではない?

 K: 待ってください、待ってください、それをゆっくり調べてください。私は確かでありません。私が言ったように、これは対話、討論です。私があることを言います。あなたはそれをずたずたに引き裂かなければなりません。

 S: 様々な型の悲しみがあります。

 K: いえ、いえ。私の息子は死にました。それは事実です。

 R: そして問題は息子がそこにいないという事実に出会うことについてです。

 JC: 悲しみは事実ではないのでしょうか?

 K: 私の息子は死んでいます。それは事実です。そしてその事実は私の彼への関係の性質、彼への傾倒、彼への愛着等をあらわにします。それらは皆非-事実です。

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 P: あなた、それは後に来ます。私の息子が死ぬとき、ただ一つのものがあります。

 K: それが私の言っていることのすべてです。

 P: 現実にあなたの息子が死んだなら、その瞬間心は立ち去ることが出来るでしょうか?

 K: しばらくそれは麻痺、すっかり麻痺させられます。

 P: それは瞬間です。

 K: いいえ、見てください、私の息子は死にました。それによって私は麻痺させられます。心理的にも物理的にも私はショックの状態にあります。そのショックは次第に弱まります。

 P: ある意味で、その状態の強さはすでにそれ自身を消散させたのです。

 K: いいえ、ショックは事実の理解ではありません。それは物理的ショックです。誰かが私の頭を打ちました。

 P: ショックがあります。

 K: それがすべてです。麻痺が起こりました。数日間、数時間、数分間。ショックが起きるとき、私の意識は機能していません。

 P: 何かが機能しています。

 K: いいえ、ただ涙。麻痺させられています。それは一つの状態です。しかしそれは永続する状態ではありません。それは私が抜け出ようとしている過渡的な状態です。

 P: しかし、私が出ようとするや否や...

 K: いいえ、ショックを私は受けたのです。その場で私は現実に直面します。

 P: どんなふうにあなたは現実に直面するのですか?

 K: 見ましょう。私の兄弟、あるいは姉妹が死にます。そしてその瞬間、その瞬間は数日か数時間続くかもしれませんが、それはものすごい心身相関のショックです。何の心の活動、意識の活動もありません。これは麻痺させられているようです。それは状態ではありません。

 P: それは悲しみです、それは悲しみのエネルギーです。

 K: そのエネルギーはあまりに強すぎたのです。

 P: 何かの離れる運動がそのエネルギーを消散させます?

 K: いいえ、しかし身体は身心的にショックの状態の中に残れません。

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 P: では、どうやってそれは悲しみに直面するのでしょうか?

 K: 私はそのことに到りつつあります。それは麻痺させられてそして話そうとしている人のようです。彼は話せません。

 P: ショックが去るとき、何が起きますか?

 K: あなたは事実に、あなたの息子が死んだという事実に目覚めます。思考がそのとき始まります。思考の運動全部が始まります。涙があります。私は「私は礼儀正しく振る舞ったらよかったのに。最後のときのあの最後の狂った言葉を言わなかったらよかったのに」と言います。次にあなたはそのことから逃げ始めます―「私は兄弟に次の生で、アストラル界で会いたい」。私は逃避します。あなたが逃げず、また事実をあたかもあなた自身から違うように観察するのでないなら、そのとき観察者は観察されるものであると私は言っています。

 P: そのことの全体はショックのあの最初の状態です。

 K: 私はそれを疑います、ププル。もう少しそれを調べましょう。それは身体も魂も耐えられないショックです。起こった麻痺があります。

 P: しかし、エネルギーがあるなら?

 K: それは強すぎます。それはあまりに強すぎます。これは事実です。

 P: ゆっくり進みましょう、あなた。

 K: では、私たちは同じ事を話していません。

 P: この事の全面的な理解があるのは死の瞬間です。それはそれから消散します。

 K: いいえ、それをこの様にしませんか、ププル? しばらく死を脇に残してください。

 P: しかしそれもまた全体的なものです。

 K: 待ってください、私はそのことに到りつつあります。死があるとき、ものすごいショックがあらゆるものを追い出しました。それは山、その素晴らしい景色と同じものではありません。これら二つはまったく違います。

 P: それは、あなた、心の状態に依存します。

 K: それは関係の状態に依存します。

 P: そして死が現実に起こるときの心の状態。

 K: ええ。それでいま私たちは何を討論しているのでしょうか? 何について話し合っているのでしょうか?

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 P: 私たちは絶望、死、悲しみから起こったこの最大のエネルギー指数の中でのやり方を発見しようとしています。見たところ破壊的で有害なエネルギーを、あなたが熱情と呼ぶものに変える化学錬金術は何であるかを。人をむしばむ悲しみや絶望、それは自然な過程ですが、を許すなら、そのとき、別の要素を持ち込んでしまったのです。

 K: エネルギーが言葉によって消散させられないとき、ある重大な出来事のショックのエネルギーが消散させられないとき、その動機のないエネルギーはまったく異なる意義を持つのです。

 P: お尋ねしてよければ、意識の中にエネルギーを保つことは...

 K: それは意識の中にありません。

 P: それは意識の中にないのですか?

 K: それは意識の中にありません。あなたが意識の中にそれを保持するなら、それは思考の一部です。あなたの意識は思考によって組み立てられています。

 S: それは意識の中に起こりました。

 K: いいえ。

 S: では、それは何でしょうか?

 K: それの保持。それから逃げるのではなく、それと共に残ること。

 P: 移らない実体は何でしょうか?

 K: 実体はありません。

 P: ではそれは何でしょうか?

 K: 実体は事実から離れる運動があるときにあります。

 P: どうやって実体はそれ自身を終わらせるのでしょうか?

 K: 見てください、ププル、それをとても単純に、明確にしましょう。

 P: それは非常に重要です。

 K: 同感です。それは非常に興味深いものです。ショックがあります。理解はショックから出て行ってしまい、悲しみがあります。「悲しみ」という言葉そのものが気がそれることです。逃避は事実から気がそれることです。その事実と共に全面的に残ることは、思考の運動の干渉がないことを意味します。したがって、あなたは今意識的にそれを保持してはいないのです。私はそれを繰り返して話しましょう。意識は思考によって組み立てられています。内容が思考を作ります。私の息子の死という出来事は思考ではありませんが、私がそれを思考の中に持ち込むとき、それは私の意識の内にあります。そのことは非常に重要です。私はあることを発見しました。

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 P: 思考を全面的に静まらせるのは、まさにそのエネルギーの力なのでしょうか?

 K: そう言いたいならその様に言ってください。思考はそれに触れることが出来ません。しかし、私たちの条件付け、伝統、教育はそれに触れること、変え、修正し、合理化し、それから逃げることです。それは意識の活動です。

 R: それの最も重要な点は、それがとる形に名前をつけることのようです。そしてそれはそこから気の散ることの残りのものが成長する種なのです。

 K: それは非常に興味深いことです。私は自分の兄弟が死んだときを思い出すことが出来ません。しかし、シバ ラオとほかの人たちが私に話したことから、ショックの期間があったように思われます。そしてKがそれから出てきたとき、彼はそのことと残りました。彼はベザント博士のところへ行って助けを求めることをしませんでした。それゆえ、今私はどうやってそれが起こるか見ることが出来ます。ショック。ショックが過ぎるとき、あなたはものすごい出来事が起こったという事実に至ります―死。私のやあなたの、私の兄弟のやあなたの兄弟のではなくて、死が起きたのであり、それは誕生がそうであるのと同じように並外れた出来事です。さて、それを見ることが、その中にはいってくる思考としての意識なしにそれを観察することが出来るでしょうか?

 P: 悲しみに戻りましょう。あなたは「悲しみは思考から生まれたものではない」と言われました。

 K: ええ。悲しみは思考から出たものではありません。それについてあなたはどう思いますか?

 P: 悲しい死があるとき、思考はありません。

 K: 待って、待って、ププル。悲しみは思考の子供ではありません。それがKの言ったことです。何故?「悲しみ」という言葉は思考です。言葉はものではありません。したがってその悲しみの感情は言葉ではありません。言葉が用いられるとき、それは思考になります。

 JC: 私たちはショックがあった状況について話しています。そのエネルギーの激発、意識へ戻ってくることが悲しみです。

 K: 私はそれに悲しみと名付けました。

 JC: それは悲しみの状態への回帰です。

 K: いいえ、ショックがあります。次に、そのショックから離れることがあります。

 P: 悲しみが言葉を剥がされるなら...

 K: もちろん。それが私が非常に明確でありたい理由です。言葉はものではありません。したがって、悲しみの感情は言葉ではありません。言葉がないなら、思考はありません。

 P: 悲しみは一つの事柄です。あなたが言葉を除いてさえも、内容はあります。

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 K: もちろん。そこで、それに名付けないことが出来るでしょうか? 命名するやいなや、あなたはそれを意識の中に持ち込むのです。

 S: 命名より前に、存在している条件は意識の一部ではないのでしょうか? 言葉は「悲しみ」です。つまり、それに「悲しみ」と命名するや否や、それは違ったものです。命名されていない「あるがままのもの」、それは意識の一部でしょうか?

 K: 私たちは意識はその内容であると言いました。その内容は思考によって組み立てられます。出来事が起こり、そこでエネルギーショックが意識を一秒、数日、数ヶ月、何であろうが追い出します。次に、ショックが弱まるとき、あなたは状態に命名し始めます。そのとき、あなたはそれを意識に運び込むのです。しかし、それが起こるとき、それは意識の中にありません。

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