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207 ウィニーフレッド・パーレィ 編著 1921  アルテ

 

劣化の要因

J. Krishnamurti: Exploration into Insight -
'Factors of Deterioration' Bombay 25th January,1973
洞察の中への探究 - 「劣化の要因」

 P: 劣化と死の問題を議論していいでしょうか? 心の機構が劣化する固有の傾向、エネルギーの衰退を持っているのはなぜでしょうか?

 K: なぜ身体、心は劣化するのでしょうか?

 P: 年齢と共に、時間と共に、身体は劣化します。しかし、なぜ心が劣化するのでしょうか? 人生の終わりに、身体の死そして心の死があります。しかし 心の死は身体が生きているときでさえ起こり得ます。あなたが言われるように、脳細胞に意識が入っているなら、それなら、人間の身体の細胞の劣化と共に、人間の心の細胞、脳、もまた劣化するのは避けられないのではないでしょうか?

 K: 私たちは年齢、時間と共に、心と脳の全体の構造が劣化することについて話しているのでしょうか? 生物学者たちは答えを与えています。彼らは何と言っていますか?

 M: 脳と身体の細胞は、排出の過程がないために劣化します。それらは永続的に機能するよう造られていません。それらは自分自身の代謝の産物を完全に排出しないのです。もしもそれらが自分自身を完全に洗い流す機会を与えられるなら、永遠に生きることができるでしょうに。

 K: 質問はこうです。なぜ脳は、それはある期間活発にしてきたのですが、劣化するのでしょうか? そしてそれに対する生物学的答えは、十分な浄化能力が与えられるとすると、それは永遠に生き続けられるというのです。浄化する要素は何でしょうか?

 M: 適切な排出。

 K: 確かに、それよりもっと深いのです。

 M: 適切な排出は浄化する過程の外側の表現です。

 P: それは適切ではありません。もしもそうであるなら、人間の身体は、適切に浄化されるなら、劣化しないでしょう。しかし、死は避けられません。心は脳細胞と違うのでしょうか?

 K: それはエネルギーの劣化でしょうか、それとも、エネルギーを造り出す能力における脳細胞の劣化なのでしょうか? まず最初に質問を明確にしましょう。

 B: 私たちが脳が劣化すると言うとき、脳はある段階までは非常に生き生きとしているということが前提です。しかし、生存の問題の一つは心が凡庸なことです。

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 K: 質問はこうです。なぜ脳はその鋭さ、明晰さ、深いエネルギーを保ち続けないのでしょうか? 歳を取るにつれて、それは劣化するように思われます。これは二十歳でさえ起きます。それはすでに溝の中に捕まっており、次第に消えていきます。それが年齢の問題かどうか見出したいのです。ある心は、それらが非常に若くあってさえも、既にこの素早やさの性質を失っているのを見ることができます。彼らはすでに溝に捉えられており、劣化する要因が既に始まっています。

 S: それは私たちがある条件付けを持って生まれるということでしょうか? それが決定的要因なのでしょうか?

 K: それは条件付けと、エネルギーを解放し、したがって心が無期限に進み続けることができるようにする、その条件付けの打破の問題なのでしょうか? あるいは、劣化は、決定の中で機能する心と関係があるのでしょうか?

 S: 決定の中で機能するということはどういう意味でしょうか?

 K: 選択と意志を通して作用すること。人は自分が採ろうとしている行動の進路を決定します。そしてその決定は明晰さに、全体の場の観察に基づいているのではなくて、満足と楽しみにしたがっています。満足と楽しみはその場の断片です。そして人はその断片化の中で生きることを続けます。それは劣化の要因の一つです。科学者になろうという私の選択は周囲の影響、家族の影響、あるいはある方向で成功しようという私自身の欲望に基づいているかもしれません。特定の職業の選択についてのこれら多くの考慮、そしてその決定、その選択とその選択からの行動、は劣化の要因の一つです。私は場の残りのことを軽視し、その場の特殊な狭い隅をたどるだけなのです。脳細胞は全体的にではなくてただ一方向にのみ機能するのです。見てください、これはなかなか興味があります。これを受け入れないでください。私たちはそれを調べているのです。

 P: 脳は十分にではなくて、一方向にだけ機能しているとあなたは言っているのでしょうか?

 K: 脳全体が活動的ではないのです。そしてそれが劣化の要因であると私は思います。あなたは劣化の要因は何であるかと尋ねました。心が全体を見ることが出来るか出来ないかではなく。この多くの年月、私は観察したのです。行動の全体を軽視して特定の方向の行動にしたがってきた心は、劣化します。

 P: そのことを調べましょう。脳細胞それ自身は固有の時間の感覚、記憶の感覚、本能を持っています。脳細胞は反射として作用します。反射で作用する性質そのものが、全体的に機能することから脳を制限します。そして私たちはほかのやり方を知りません。

 K: 私たちは劣化の要因が何であるか見出そうとしています。要因が何であるかを見るとき、ことによると、私たちはもうひとつのこと、全体を見る、に達するかもしれません。

 P: 例えば、葛藤の二十の要素を考えることが出来ます。

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 K: 多く取り上げすぎないようにしましょう。選択に基づいた追求、それは成就の満足という動機や達成する欲望を持っているのですが、その行為は葛藤をつくりだすに違いありません。それゆえ、葛藤は劣化の要因の一つです。多分、それは劣化の主要な要因です。私は政治家になろうと決意します。私は宗教的な人間になろうと決意します。私は芸術家、苦行僧になろうと決意します。その決定は、性質そのものにおいて断片的である文化によってもたらされた条件付けによってなされます。すなわち、私は独身でいようと決意します。なぜなら、私が見たことから、私が聞いたことから、神、真理、悟りを得るためには、自分は独身者のままでいなければならないと思うからです。私は人間存在の全体の構造、生物的なもの、社会的なもの、その他全てを軽視します。その決定は明らかに私の中に葛藤を引き起こします。性的な葛藤、人々から離れていることの中の葛藤などなど。それは脳の劣化の要因の一つです。私は脳の一部分のみを使っているのです。私の生の一部分を残りから分割するという要素がまさに劣化の一つの要因です。それで、選択と意志は劣化の要因です。

 P: しかもなお、それらは私たちが持っている行為の二つの道具です。

 K: そうです。それをよく見ましょう。私たちの生の全てはこれら二つの要素に基づいています。差別もしくは選択、そして満足を追求する意志の行為。

 S: なぜ差別?

 K: 差別は選択です。私はこれとあれの間を差別します。私たちは劣化の要因、劣化の根本の要因は何か見ようとしています。私たちはまた違うものに出会うかもしれません。私は行為の中の選択と意志が劣化の要因であるということを見ます。そしてあなたがそれを見るなら、それなら質問があります。これら二つの要素、これら二つの原理をその中に持っていない行為があるでしょうか?

 P: 多くの他の要因があるので、ほかの要因も取り上げましょう。例えば、遺伝されたものがあります。またショックもあります。

 K: 私が鈍く愚かな心を遺伝しているなら、私はおしまいです。私は種々の寺院、教会に行くことができますが、しかし私の脳それ自体が影響されてしまっているのです。

 P: それからショックがあります。

 K: 何がどうなっているのですか?

 P: 生それ自身の行為。

 K: なぜ生それ自身がショックを引き起こすのでしょうか?

 P: それは起こります。

 K: なぜ? 私の息子が死にます、私の兄弟が死にます。それはショックを引き起こしました。なぜなら、私は息子が死ぬだろうということが、決してよくわかっていなかったからです。私は息子が死んだことを突然実感し、それは神経的なショックです。あなたは「ショック」という言葉を心理的に使っているのでしょうか、それとも肉体的に使っているのでしょうか?

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 P: それは肉体的なショックです。それは神経的なショック、終わる何かの効力に現実に接触することです。

 K: よろしい。ショックを取り上げましょう - 突然何かを失うことの、誰かを失うことの肉体的、心理的、情緒的ショック、一人でいることのショック、突然終わってしまった何かのショック。脳細胞はこのショックを受けます。さて、それについてあなたは何をするでしょうか? そのショックは劣化の要因でしょうか?

 S: いいえ、そのショックに対して私たちが反応するやり方が要因です。

 P: ひとは全く静かに応答できるでしょうか? 心はそれが理解できない何かを記録したのです。それを超えて応答できない深さがあります。私たちはショックと新しい反応のことを話しています。どの深さまで入ったでしょうか?

 K: 待ってください、ププルジ、ちょっとゆっくり行きましょう。私の息子が死にました。私の兄弟が死にました。私達は共に暮らし、共に遊んでいたので、それはものすごいショックです。そのショックは心を麻痺させました。そしてショックはしばらくの間心を麻痺させるのです。どうやって心がそれから出てくるかが重要な要素です。それは傷を負って、傷の意味するもの全てを負って出てくるのでしょうか、それとも一つの傷もなしに出てくるのでしょうか? 

 S: 私は知らないかもません。意識的には私はそれをうまく解決したと言うかもしれません。傷の痕跡もないことを、どうやって私は知るのでしょうか?

 D: あなた、ショックの場合、死があり、心のパターンの完全な終わりがあり、まさにそのことを見ることがそれの終わりであるということがありうるでしょうか?

 K: そのことはすべて含まれています。私の兄弟か息子が死んだとき、私の生全体が変化します。変化はショックです。私はこの家を去らなければなりません。私は違う生計を立てなければなりません。私は沢山のことをしなければなりません。その全てが「ショック」という言葉に含まれています。さて、私はそのショックが痕あるいは傷を残しているのかいないのかを尋ねています。それが一つの痕、一つの傷、一つの引っ掻き傷、悲しみの影も残していないなら、そのとき、心はすっかりリフレッシュされて、すっかり新しくなってそれから出てきます。しかし、それが傷つけられ、めちゃめちゃにされたのなら、そのとき、それは劣化の要因です。さて、どうやって心はそれが深く大いに傷つけられていないことを意識的に知るのでしょうか?

 P: それが深く大いに傷つけられるなら、それは望みがなく、全てが終わっているということでしょうか? それとも、拭い去るやり方があるでしょうか?

 K: 私たちはそのことを調べようとしているところです、ププルジ。ショックは自然です。なぜなら、私は突然路上に投げ出されたからです、比喩的に話して。神経的に、心理的に、内的に、外的に、全部のものが変わったのです。どんなふうに心はこれから出てきますか? それが質問です。それは傷を負って出てきますか、それとも全ての傷をすっかり除いて出てきますか? 傷は浅いのでしょうか、それとも、非常に深いため、意識的な心は与えられた瞬間にはとてもそれを知ることができず、したがって、傷は繰り返し保持されるのでしょうか? その全てはエネルギーの浪費です。どうやって心はそれが深く傷つけられているかどうかを見出すのでしょうか?

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 P: 浅い傷は忘れることが、処理することができますが、深い傷は...

 K: どうやってあなたはそれを処理しますか?

 P: 残虐、死があります。暴力があります。

 K: 暴力を持ち込まないでください。どうやって心は深い傷に出会うでしょうか? 傷とはなんでしょうか?

 P: 深い苦痛。

 K: 深い傷があるのでしょうか?

 P: ええ。

 K: 深い傷とはどういう意味ですか?

 P: 本当に深い傷は危機が原因です。自分の存在の性質そのものが悲しみの崖っぷちにあります。

 K: 私の兄弟が死にます。私の息子が死にます。夫、妻、何でも。それはショックです。ショックは傷の一種です。私は尋ねています。傷は非常に深いだろうか、そして「非常に深い」とはどういう意味だろうかと?

 P: 無意識の深みが投げ上げられます。

 K: 投げ上げられるものはなんでしょうか?

 P: 苦痛。

 K: 苦痛、それに気づいていなかったが、ショックが苦痛をあらわにします。さて、苦痛がそこにあったのでしょうか、それとも苦痛の原因がそこにあったのでしょうか?

 P: 苦痛の原因がそこにあったのです。苦痛の原因がそこにあり、私はそれを意識していなかった。ショックが来て私をその苦痛に気づかせます。

 M: ショックが苦痛をつくりだすというのは、どういう意味ですか?

 K: 苦痛がそこにありました。それは一つの要因です。私の兄弟が死にます。それは絶対的に最後なのです。私は彼を連れ戻せません。世界がこの問題に直面します。あなたや私だけではありません。誰もがこの問題に直面します。ショックがあります。そのショックは深い傷です。傷の原因は以前よりそこにあり、ショックがただそれをあらわにしただけでしょうか? 私が決してそれに直面しなかったから傷がそこにあったのでしょうか? 私は決して孤独に直面したことがありません。私は傷の要因のひとつである孤独の感覚に決して直面したことがありません。

 さて、ショックが来る前に、私は孤独を見ることができるでしょうか? ショックが来る前に、一人であるとはどういうことか、私は知ることができるでしょうか? ショックが来る前に、私はあてにすること・依存のこの問題を調べることができるでしょうか? それらは全て傷の要因、傷の原因です。それでショックが来るとき、それらはすべてあばかれます。さて、ショックがくるとき、何が起きるでしょうか? 私は傷を持ちません。これは正しいです。

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 M: 何があなたを準備させるのでしょうか?

 K: 私は準備しません。私は生を見守ります。私は愛着や、無関心や、依存してはならないので独立を養成することの意味がなんであるかを見守ります。依存は苦痛を引き起こします。しかし独立を養成することもまた苦痛を招くかもしれません。そこで私は自分自身を見守ります。そこで私は見守り、そしてどんな種類の依存も必然的に深い傷をもたらすということを見ます。そこで、ショックがくるとき、傷の原因はありません。まったく違うことが起こります。

 S: 苦しむことを防ぐために、あなたが述べた事すべてを私たちがするということが起こり得ます。

 P: あなた、これらのこと全てをしたのです。観察しました。愛着の問題を調べました。

 K: ショックは「苦しみ」であると、あなたはおっしゃるのですか?

 P: ショックは、私が以前には決して触れることが出来なかった私の存在の深みに触れるように思われます。それには私は接近したことがなかったのです。

 K: それはどういう意味ですか? 執着の反対としての独立や分離を追求することなしに、あなたが孤独、愛着、恐怖を通り抜けたのなら、そのとき、何が起こるでしょうか? ショックが来るとき、死のショック、何が起こるでしょうか? あなたは傷つきますか?

 P: それが、私が詳しく述べたい言葉です。それは私が持った苦痛をすべてあばくように思われます。

 K: それはどういうことですか? あなたは苦痛を解決していません - 孤独の苦痛を解決していません。私はそれを一例として話しているのですが。

 P: 私が聞きたいことはこういうことです。愛着の苦痛の解決があるのでしょうか、それともそれは何であるにせよ完全な理解、苦痛の全体の過程に対する覚醒なのでしょうか?

 K: いいえ。見てください、苦しむことは苦痛です。私たちはその苦しむことを孤独、愛着、依存、葛藤を覆い隠すために使います。私たちは、苦しみと苦しみの原因からの、人間の逃避の全分野を使います。私たちは「苦しみ」という言葉をその全部を含めて使います。それとも、「苦痛の全体」という言葉を使いたいですか? 隠された、そして観察できる、苦しみの全体 - 村人の苦痛、夫を失った女性の苦痛と悲しみ、無知で、文盲で、常に貧困の中にある人間の悲しみ。そして野心的で挫折した人間の悲しみ、人間の苦痛 - それの全てが苦しみであり、そしてショックは、あなたのものだけでなく、その全ての苦痛を表面にもたらします。同意しますか? 何が起こりますか? 私はそれをどう処理すればいいかわかりません。私は泣きます。私は祈り、寺院に行きます。これが起こることです。私は兄弟や息子とアストラル界で会うことを望みます。私はあらゆる事をします。この苦痛の拷問から逃れようとして。なぜショックがこの全てをあらわにするのでしょうか?

 P: 苦痛の根源は決してあらわにされてきませんでした。

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 K: ハンセン病の、道のあの乞食、あるいは悲しみの中で際限なく働く村人を見て、なぜそれが人間の心に触れてこなかったのでしょうか? なぜショックがそれに触れるのでしょうか?

 P: なぜという質問があるのでしょうか?

 K: なぜその乞食が、個人的に私に、また社会全体にショックを与えないのでしょうか? なぜそれは私を動かさないのでしょうか?

 D: ショックは苦痛の全体の構造を襲い、苦痛の構造を働かせます。

 K: 私はあなたに単純な質問をしています。あなたは道の乞食を見ます。なぜそれはあなたにショックではないのでしょうか? なぜあなたは泣かないのでしょうか? なぜ私は自分の息子が死んだときにのみ、泣くのでしょうか? 私はローマで僧侶を見ました。私は宗教と呼ばれる柱に縛られた誰かの苦痛を見て泣きました。私たちはそこでは泣かないで、ここでは泣きます。なぜ? 「なぜ」があります、明らかに。私たちが鈍感なので「なぜ」があります。

 B: 心は眠っているのです。ショックがそれを起こします。

 K: そのとおりです。ショックがそれを起こし、私たちは苦痛に目覚めます。それが私たちの苦痛です。私たちは以前は苦痛に目覚めていなかったのです。これは理論ではありません。

 P: ええ、あなた、あなたがそのような言明をするとき、私は苦痛に目覚め、そしてそれは私の苦痛の問題ではありません...

 K: それは苦痛です。さて、あなたは苦痛をどうしますか? 苦痛は苦しみです。何が起こりますか?

 P: それは嵐のようです。嵐の中にいるなら、「なぜ」と尋ねません。その中にはあらゆる苦痛があります。

 K: 私はそれはあなたの苦痛ではないと言いました。それは苦痛です。その乞食を見たとき、私は苦痛を感じました。その僧侶を見たとき、私は泣きました。私がその村人を見たとき、私はひどく苦しみました。私が金持ちを見たとき、私は「おやまあ、見てごらん」と言いました。社会、文化、宗教、人間の生全体もまた、私が兄弟を失う苦痛なのです。それで、それは苦痛です。私は苦痛をどうしましょうか? それは深いでしょうか、浅いでしょうか? あなたはそれは非常に深いと言います。

 A: それは非常に深いです。

 K: 「深い」というのはどういう意味でしょうか?

 P: 「深い」というのは、それが私の存在のあらゆる部分に行き渡るという意味です。それは部分的ではありません。それは私の生の一部にだけ作用しているのではありません。

 K: あなたは「それは非常に深い」と言います。それを深いと呼ばないようにしましょう。それは測定がありません。それは深くも浅くもありません。苦痛は苦痛です。それから何が? あなたはそれの中に留まります、この傷に耐えます?

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 B: 私たちはそれから逃げることやそれを置き換えることは出来ません。

 K:そこで、私は苦痛をどうしましょうか? それを無視しますか? 私たちは見出そうとしています。苦痛を除くために精神分析医の所に行くでしょうか、それとも、苦痛を除くために、本を読んだり、ティルパティ(訳注: ヒンズー教の聖地の一つ)や火星に行くでしょうか? 私はどうやってそれを除きましょうか? 私はそれをどうしましょうか?

 P: 私はじっとしているという立場にいます。

 K: あなたは苦痛の中にいます。あなたはその苦痛です。それを保持してください。あなたはそこにいます。あなたはそれを保持します。それはあなたの赤ん坊です。するとつぎに何が? 見出しましょう。私はその苦痛です - 村人の苦痛、乞食の苦痛、苦悩を通り抜けていく金持ちのあの人間の苦痛、僧侶やその他もろもろ。私はその苦痛です。私はどうしましょうか?

 B: この苦痛の覚醒への変容がないでしょうか?

 K:それが私の見出したいことです。

 S: 死の瞬間、あらゆることが挫かれます。

 K: 死の瞬間、その後数日、私の神経的、生物的、心理的組織の全部が麻痺させられます。私はその瞬間について話していません。それにまた戻らないでください。いまやそれは過ぎました。それは一年前のことです。私はこの苦痛と共に残されています。私はどうしましょうか?

 B: この脳の聡明でない作用があるとき、苦しみがそれを目覚めさせるのです。見たところでは、それはあまり聡明でない作用です。

 K: 母が息子をベトナムで失います。それにもかかわらず、母たちは、彼女たちの息子が国家主義によって、概念と因習的方式によって殺されたのかもしれないことを学んでいるとは思えません。彼女らはそれを理解しません。それは苦痛です。私は彼女らのためにそれを理解します。私は苦しみます。私たちは苦しみます。苦しみがあります。私はどうしましょうか?

 Rad: 私はそれが何であるか見るでしょう。

 K: 私はそれが何であるか見ます。その乞食は決して大臣になれないし、あの僧侶は彼自身の誓いによって、彼自身の神の観念によって苦しめられています。私はその全てを見ます。私はそれを非常にはっきりと見ます。私はもはやそれを調べる必要はありません。私はそれをどうしましょうか?

 M: 理解することによって乞食の苦痛とほかの人たちの苦痛があなた自身の苦痛になる、その理解は私たちには知られていません。誰もが乞食の苦痛を自分自身の苦痛として見ることはできません。

 K: 私はその苦痛を持っています。私はどうしましょうか? 私はあらゆる人がそれを見るか見ないかに関わってはいません。多くの人々は物事を見ません。私はどうしましょう? 私の息子は死んだのです。

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 P: あなたはその真っ只中にいます。それによって留められていること、それの中にいることを私は話しているのです。

 K: あなたはあの乞食が昨夜歌っているのを聞きました。それは耐え難い事でした。事実がそこにあります - 苦痛、苦しみ。どうしますか?

 M: 行動します。乞食の状態を変えようとします。

 K: それはあなたの固定観念です。あなたはそれをあなたのやり方でしたいし、ほかの誰かは別のやり方でそれをしたいのです。しかし、私は苦痛を話しているのです。私たちは、脳細胞と心の劣化の要因は何かと尋ねました。私たちは主な要因の一つは葛藤であると言いました。もうひとつの要因は傷、苦痛です。そして要因は何でしょうか? - 恐怖、葛藤、苦しみ、神 社会奉仕 国家のための仕事と呼ぶ快楽の追求。そう、これらは劣化の要因です。誰が行動すべきでしょうか? 私はどうしましょうか? 心がこれを解決しない限り、その行動は一層の苦しみ、一層の苦痛を作り出すでしょう。

 P: 劣化は加速されるでしょう。

 K: それは明白な事実です。私たちは苦痛、傷、苦しみという点に、そして、劣化をもたらすいくつかの要因として、恐怖という要因、そして快楽の追求に至りました。私は何をしますか? 心は何をしますか?

 SWS: これを尋ねることによって、心はあるがままのものとは別の何かになろうとします。

 K: それが苦痛の中にいるなら、どうやってそれは行動できるでしょう?

 S: どうやってそれはほかの何かになれるでしょうか? なることは劣化のもう一つの要因です。なることは要因です。なぜならその中に、葛藤があるからです。私は何かであることを望みます。したがって、なることは苦痛を避けることであり、したがって葛藤です。そこで、私はどうしましょうか? 私は村の活動を試みました。社会活動、映画、セックスを試みました。だがなお苦痛は残ります。私はどうしましょうか?

 Q: 苦痛をなくす何かのやり方があるにちがいありません。

 K: なぜ それはなくなるべきなのでしょうか? あなたが関わっていることは全てそれをなくすことです。何故それはなくなるべきなのでしょうか? 出口はありません、そうですか?

 SWS: それと共に生きなければなりません。

 K: どうやって苦痛であり、悲しみである何かと共に生きますか? どうやってそれと共に生きますか?

 Rad: それについてどんなこともするのを私がやめるとき。

 K: あなたはそれをしているのでしょうか、それとも、ただ理論としてそれを言っているだけなのでしょうか? 苦痛、苦しみを引き起こす、このものすごい傷、脳細胞の劣化をもたらすこの際限のない戦いを心はどうするのでしょうか?

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 B: ひとはそれを見守ろうとしなければなりません。

 K: 何を見守りますか、あなた? 私の苦しみ、私の苦痛は監視者と違うでしょうか? 違うでしょうか? 苦痛は監視者と違うのでしょうか? それで何が起こりますか? 観察者は言います、「私は苦痛を除かなければならない」。しかし、旅の終わりに、それはなおそこにあります。さて、観察者が観察されるものであるとき、何が起きるでしょうか?

 M: 私たちは、劣化の要因は何かで出発しました。私たちは、苦痛は劣化の要因であるという結論に到達しました。劣化を望まないなら、私たちは苦痛を苦しんではならないのです。したがって、苦痛を遠ざけることが重要で、私たちは「私は苦痛だ」、「私は苦痛と共に生きなければならない」と言うことは出来ないのです。これは終わりがありません。私たちは苦しむのを止めなければなりません。さて、それの秘密は何でしょうか? 私たちに教えてください。

 K: 何の秘密? あなたは私がこれまで一度も使わなかった言葉を導入しています。私は言葉を辞書にしたがって使っています。私は感じない空白の壁でありたくはありません。

 M: 免疫性は無感覚を意味しません。

 K: 私たちは皆苦痛を免れることを望みます。「私は苦痛を我慢しなければならない」と言うことは ばかばかしいでしょう。そしてそれがたいていの人がすることです。そして苦痛を我慢するので、寺院に行ってしまうなどのような神経症的な行動を取るのです。それで苦痛を我慢しなければならないと言うことはばかげています。そうではなく、苦痛は劣化の主な要因の一つであると知るとき、どんなふうにそれは終わるでしょうか? あなた、苦痛のはてに、心は途方もなく熱烈になります。それはただの鈍い、苦痛のない心ではありません。それの秘密をお望みですか?

 M: あなたは秘密を知っているのですか?

 K: お話ししましょう。お望みですか? それに違ったふうに近づきましょう。心が決して傷つけられないことが可能でしょうか? 教育が私たちを傷つけます。家族が私たちを傷つけます。社会が私たちを傷つけます。私は尋ねています。「心は、打撃がある世界に生きていて、決して傷付けられないことができるでしょうか?」 あなたが私をばかと呼びます。私を偉大な人と呼びます。あなたは私を悟った、賢い、あるいは、愚かな老人と呼びます。私を何とでも呼んでください。私は決して傷つけられないことが出来るでしょうか? それは違って述べられた同じ問題です。

 S: わずかな違いがあります。あちらでは問題はひとつの傷つけられることとどうやってそれを解消するかでした。ここでは問題はこうです。決して傷つけられない可能性はあるのか?

 K: 私はあなたにそれを示しているところです。そのことが秘密です。人間が蓄積してきた傷の全てをあなたはどうしますか? あなたがこの問題を解かないなら、何をしようが、それはより多くの悲しみにつながるでしょう。進みましょう。私たちはつい今しがた、観察者が観察されるものであるとき、何が起こるか尋ねました。

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 SWS: 中心のない観察がきっとあるでしょう。

 K: 中心のない観察とは、あなたが苦痛と呼ぶそのことだけがあるということです。私は苦痛を超えなければならないと言う実体はありません。観察者がないとき、苦痛がありますか? 傷を負うのは観察者です。お世辞に喜ばされるのは中心です。ショックを受けたと言うのは中心です。「私は苦痛を知っている」と言うのは中心です。では、あなたは苦痛と呼ばれるこのことを、中心なしに、観察者なしに、観察できますか? それは空白ではありません。何が起こりますか?

 M: 苦痛は気持ちを変えます。

 K: 苦痛は気持ちを変えるというのは、どういう意味でしょうか? あなた、私たちは、「自分は何かしなければならない」と言う観察者としての中心から常に苦痛を見ているので、これは難しいことなのです。それで、行動は苦痛に関して何かをしている中心に基づいていますが、しかし中心が苦痛であるとき、あなたはどうしますか? なされるべき何がありますか?
慈悲とは何でしょう? 「慈悲」という言葉は熱情を意味します。どうやってそれは生じるのでしょうか? 活動を追い回すことによって? どうやってそれは生じるのでしょうか? 苦しみがないとき、「他方のもの」があります。これはあなたに対して何かを意味しますか? どうやって苦しんでいる心が慈悲を知ることができるでしょうか?

 M: 苦痛があるとわかっていることは慈悲です。

 K: 失礼ですが、私は慈悲深くなれとは決して言いませんでした。私たちは事実を、「あるがままのもの」を見ているのです。それは苦しみです。それは絶対の事実です。私は苦しみます。そして心は、苦しみから逃げるためにそれが出来るあらゆる事をしています。それが逃げないとき、そのときそれは観察します。そのとき観察者は、それが非常に綿密に観察するなら、観察されるものです。そしてその苦痛そのものが熱情(passion)に変容します。それは慈悲(compassion)です。言葉は実在ではありません。それゆえ、苦しみから逃げないでください。それはあなたが病的になることを意味しません。それと共に生きなさい。あなたは快楽と共に生きないでしょうか? 何故あなたは完全に苦しみと共に生きないのでしょうか? あなたはそれから逃げないという意味でそれと共に生きることが出来るでしょうか? 何が起きますか? 見つめなさい。心は非常に明確で非常に鋭いのです。それは事実に直面しています。熱情に変化した苦しみそのものが巨大な何かです。それから決して傷つけられることのない心が起こります。終止符。それが秘密です。

​ Bombay 25th January,1973

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