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123 デヴィッド・ボーム 著 2013

コスモス・ライブラリー

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124 AS THE RIVER JOINS THE OCEAN 1998 G.ナラヤン 著 2015

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125 THOUGHT AS  A SYSTEM  1994 デヴィッド・ボーム 著 2016

コスモス・ライブラリー

1970年 ザーネンの公開対話(第7回)

Saanen 7th Public Dialogue 8th August 1970
J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)

 

Part2 Dialogue 6

 断片的な意識から出るどんな活動も混乱をつくり出す。内容が意識の構造を支配するのか、それともそれはその内容から自由なのか?

 意識はそれ自身のその内容を空にすることが出来るだろうか? 外へ出ようとする、意識のぬかるみの中の蛙。

 中心 によって制限された空間の中の猿-自己中心的活動。中心のない空間とは何か?

 「悟り...は猿が決して作動していない心のその性質である」。注意。注意の問題と猿の妨害。

 注意の絶頂とともに、人間の構造全体に何が起こるか?



 

 クリシュナムルティ: 昨日私たちがやめたところから続けましょう。そのとき私たちは意識の性質と構造をじっくり考えていたのでした。人の心の中に、したがって社会の中に根本的な変化があるべきであるなら、私たちはこの問題を熟考しなければならないと私は実感します。この意識が変容、本質的に完全な変化を受ける可能性があるかどうかを見出すために、私たちはそれを深く究明しなければなりません。なぜなら、私たちの活動はすべて、浅薄であれ深遠であれ、真面目であれ軽薄であれ、この意識の結果、あるいはそれから生じたものであるということを見ることが出来るからです。そして私たちはこの意識の内に多くの断片があると言っていました。いろいろなときに権威につく各断片。意識の内容を―そしてそれを超える可能性を理解していないなら―どんな活動も、いかにそれが重要であろうとも、私たちの意識の断片的な性質を理解することなしには混乱を生むに違いありません。このことは非常に明確でなければならないと思います。それは大変多くの注意を知性や、信念や、身体などのような一つの断片に注ぐようなものです。これらの断片化は、それが私たちの意識を構成し、それからすべての活動が起こるのですが、不可避的に矛盾と悲惨をもたらすに違いありません。このことは少なくとも言葉の上で明確でしょうか? これらの断片は組み立てられなければならない、あるいは統合されなければならないと思うことは意味がありません。なぜならそのとき、誰がそれらを統合するのか、そして統合の努力という問題が起きるからです。そこでこの断片化の全体を、断片化していない心で見るやり方がなければなりません。そしてそれが今朝、私たちが討論しようとしていることです。

 私の心は脳、すべての生理的な神経の反応を含めて、その意識の全部が断片的であり、ばらばらになっており、自分が生きている文化によって条件づけられているということを私ははっきり理解します。その文化は過去の世代と次の世代によって作り出されてきました。そして他の上に立つ一つの断片に基くどんな活動、あるいは強調も、不可避的に巨大な混乱を引き起こすでしょう。社会的活動を、宗教的信念や知的な概念やユートピァを強調することは不可避的に矛盾し、それゆえ混乱を引き起こすに違いありません。私たちはこのことを見ているでしょうか?

 そこで私は質問を尋ねます。「断片的でなく、次の瞬間に起こるであろう活動と矛盾しない活動があるだろうか?」

335



 私たちは思考がこの意識の中で途方もない役割を果たしているのを見ます。過去の反応であるのみならず、私たちの感覚のすべての反応である思考、私たちの神経的諸反応のすべて、将来の希望、恐怖、快楽、悲しみ―それらはすべてこの中にあります。それで意識の内容は意識の構造を生み出すのでしょうか? それとも意識はその内容から自由なのでしょうか?

 意識が私の絶望、私の不安、恐怖、快楽、数え切れない希望、罪悪感、過去の巨大な経験から成り立っているなら、そのとき、その意識から生じるどんな活動も決して意識をその制限から解放する事はできません。これに同意しないでください。それは単に生徒のばかげた考えなのではありません! どうかそれを私とわかちあってください―そのことは働く、それをあなた自身の中に観察するということです―そしてそのとき、私たちはさらに進む事ができます。私はただ前置きとして話しているのです。

 私の意識は私が生きてきた文化の結果です。その文化は種々の活動、種々の快楽の追求、恐怖、希望、信念を励ましたり、思いとどまらせたりしてきました―その意識が「私」です。条件づけられたその意識から生じるどんな活動も不可避的に断片化しており、それゆえ矛盾し、混乱しているに違いありません。共産主義や社会主義やカソリックの世界に生まれるなら、その特定の心―脳―が生まれている文化は、その文化によって、その社会の基準、価値、熱望によって条件づけられています。そしてこの意識から生まれるどんな行動も不可避的に断片化しているに違いありません。まだ何も質問しないでください―ただあなた自身をじっと見てください。最初に話し手が言わなければならない事を聞いてください。あなたの質問や思考を持ち込まないでください。次に、非常に静かに聞いた後で、そのとき質問を始める事ができます、そのとき「あなたは間違っている、あなたは正しい」などと言うことができます。しかし、その質問する事が心の中で進行しているなら、そのときあなたは聞いていないのです。したがって私たちの伝達は終ります。私たちは共にしていません。私たちが調べていることは非常に複雑で微妙な問題なので、あなたはまず聞かなければなりません。

 私たちは何が意識なのか見出そうとしています。それはそれが含んでいる多くのものから成り立っているのでしょうか? それともそれはその内容から自由な何かなのでしょうか? それがその内容から自由であるなら、そのときその自由の活動は内容によって指図されません。自由でないなら、そのとき内容はすべての活動を指図します。それは単純です。いまや、私たちはそれを学ぼうとしています。

 私自身を見守るとき、私は過去、現在、未来の希望の結果であるということをはっきり理解します。意識の鼓動する性質全体が、そのあらゆる断片化を伴って、すべてこれです。この内容から生まれるどんな活動も不可避的に断片化しているだけでなくて、そのことによって、少しの自由もまったくないに違いありません。

 それゆえ、この意識はそれ自身を空にすることができるかどうか、そして自由である意識、それからまったく異なる種類の活動が起こる意識があるかどうか見出すことが出来るでしょうか? 私は、私が話していることをあなたに伝えているでしょうか?

336



 意識の内容の全ては浅い濁った小さな池のようなものです。そして小さな蛙がその中ですごい音を立てています。その小さな蛙は言います。「私は見出そうとしている」。そしてその蛙はそれ自身を超えようとしています。しかし、それはなお濁った池の中の蛙です。この濁った池はそれ自身の内容をすべて空にすることが出来るでしょうか? 私の小さな濁った池は私が生きてきた文化であり、そして小さな「私」、蛙、は「私は脱出しなければならない」と言って、文化に対して戦っています。しかし、たとえ脱出するとしてもそれは小さな蛙であり、それが脱出して入るものは何でも、なおそれが作り出す小さな濁った池です。どうかこれを見てください。心は、それがふけったり強いられたりする活動のすべては、その内容を伴う意識の範囲内での運動であるということをはっきり理解します。これをはっきり理解して、心はどうすればいいでしょうか? いったい心はこの限定された意識を超えることができるでしょうか? それがひとつの要点です。

 二番目の点はこうです。この小さな蛙のいるこの小さな池は拡大し広くなるかもしれません。それが作り出す空間はなお特定の次元の縁の内にあります。その小さな蛙は―いや、その小さな猿のほうがいいでしょう―たくさんの知識、情報、経験を得ることができます。この知識と経験は拡大するために猿に特定の空間を与えるかもしれません。しかしその空間は常にその中心に小さな猿を持っています。

 それで意識の中の空間は常に中心によって限定されています。中心を持っているなら、意識の周囲は、意識の境界は、それは拡大するかもしれませんが、常に限定されています。小さな猿は瞑想するかもしれませんし、多くの方式に従うかもしれませんが、その猿は常に残るでしょう。したがってそれがそれ自身で作りだす空間は常に限定されており浅薄です。それが二番目の問題です。

 

 三番目はこうです。中心のない空間とは何でしょうか? 私たちはこれを見出そうとしています。

 質問者: その限定を持っているこの意識はそれ自身を超えることができるでしょうか?

 クリシュナムルティ: 意向と熱望のすべてを持っている猿は、その全精力で、その条件付けから脱し、それが作り出した意識の境界を超えることができるでしょうか?

 それを違ったふうに述べると、「私」は、それは猿ですが、あらゆる種類のものごとをすることによって―瞑想すること、抑制すること、順応すること、順応しないこと―絶えず活動的であることによって、それの運動はそれ自身の向こうにそれを連れて行くことが出来るでしょうか? すなわち、意識の内容は「私」が―それゆえ猿の側での企てが―池の限界から脱するのを許すでしょうか? それで私の質問はこうです。猿はそれ自身の境界の限度を見るために完全に静かであることが出来るでしょうか? そしてそれらを超えることはいったい可能なのでしょうか?

 質問者: 中心には常に猿がいます。それゆえ空っぽの空間はありません。自由のための空間はないのです。

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 クリシュナムルティ: あなた、あなたはあなたがいつも中心から行動していることに、あなた自身で気がついていますか? 中心は動機かもしれません。中心は恐怖かもしれません、野心かもしれません―あなたはいつも中心から行動しているのではないでしょうか? 「私はあなたを愛している」、「私はあなたを憎む」、「私は強力でありたい」―私たちが知っているような活動はすべて中心からです。その中心が共同体や哲学と同一化していようといまいと、それはなお中心です。同一化されているものが中心になります。常に進行しているこの活動に気づいていますか、あるいは中心が活動していないときがありますか? それは起こります―突然、中心なしに、あなたは見、生き、感じています。そしてそれはまったく違った次元です。次に思考が言い始めます。「それは何と素敵なことだったか、私はそれを継続したい」。そこでそれは中心になります。数秒前に起こった何かの思い出が、思考を通じて中心になります。私たちは中心がそれ自身の周りに作りだす空間に気づいているでしょうか?―孤立、抵抗、逃避。中心がある限り、中心が作り出した空間があり、私たちはこの空間を拡大することを望みます。なぜなら、広く生きるためには空間の拡大が必要だと感じるからです。しかしその広々とした意識の中に常に中心があります。したがって空間は拡大されているけれど常に限定されています。それをあなた自身の中に観察してください。私の言うことを聞かないでください。それをあなた自身の中にじっと見てください。これらのことをとても簡単に発見するでしょう。そして関係の中の戦いは二つの中心の間にあります。拡大し、主張し、支配することを望んでいる各中心―働いている猿!

 そこで私はこのことを学びたいのです。心は「私はそれを非常にはっきりと見る」と言います。心は学んでいます。どうやってその中心は生じるのでしょうか? それは社会、文化の結果でしょうか、それともそれは神聖な中心なのでしょうか?―「神聖な」というその言葉を使ってすみません―それは常に社会によって 文化によって覆い隠されてきました。 ヒンズー教徒やほかのものはそれをアートマン、偉大なるものと呼びます。その内部は常に抑え込まれているのです。したがって、心を抑え込まれていることから解放し、本当のもの、本当の猿が出て来ることができるようにしなければなりません。

 明らかに中心は自分が生活している文化によって、自分自身の条件づけられた記憶と経験によって、自分自身の断片化によって作り出されています。それで、中心を作り出しているのは社会であるのみではなく、中心もまたそれ自身を推し進めているのです。この中心はそれが作り出してきた境界を超えることができるでしょうか? それ自身を静めることによって、それ自身を制御することによって、瞑想することによって、誰かに従うことによって、その中心は爆発し、超えることができるでしょうか? 明らかにできません。型に順応すればするほど、それはますます強くなるのです。自由になりつつあると想像するけれども。悟りは、確かに、猿が決して作動していない心のその状態、その性質です。どうやって猿はこれらの活動を終りにすればいいでしょうか? 模倣によってではなく、順応によってではなく、「誰かが悟りを得た。私は行って彼から学ぼう」と言うことによってではなく―それらはすべて猿のごまかしです。

 猿は、「私は社会を助ける、変える用意が出来ている。私は社会の価値や正しい行動や社会正義に関心がある」と言うことによって、それ自身に仕掛けているごまかしを見るでしょうか? これに答えなければなりません、あなた! それはそれ自身に仕掛けているごまかしだと思いませんか? それは非常に明白です。それに疑問はありません。確かでないなら、あなた、どうか討論しましょう。それをじっくり話し合いましょう。

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 質問者: あなたは時に、社会を助けること、社会奉仕をすることはほかの誰かよってなされることのように話します。しかし、私は社会と異なっておらず、それゆえ社会奉仕をすることは私自身のために働くことであるという感じを私は持っています。それは同じものです。私は区別をしません。

 クリシュナムルティ: しかし区別をしないなら―私は個人的なことを言っているのではありません、あなた―私は尋ねているのです。中心は残っていますか?

 質問者: それは残るべきではありません。

 クリシュナムルティ: 「べきではない」ではなく。その場合には私たちはまったく異なる分野に入るのです―「べきである、べきでない。なければならない、あってはならない」―その場合それは理論的になるのです。実際の事実は、「私」と社会は一つであるということを私は認識するけれども、中心は、「私」は、猿は、なお作動しているのでしょうか?

 私の質問はこうです。猿の側からの何かの運動がある限り、その運動はある種の断片化、思い違い、混乱につながるに違いないことを私は見ます。それをもっと単純に述べると、その中心は自己です。それは常に働いている利己性です。私が神のようであろうと、私が社会と関係していて、「私は社会だ」と言おうと―その中心が作動していますか? 作動しているなら、そのときそれは無意味です。

 次の質問はこうです。どうやってその中心は消えてゆけばいいでしょうか? 決心によって、意志によって、練習によって、種々の形の神経症的な衝動、献身、同一化によって? そのような動きはすべてなお猿の一部です。したがって、意識は猿の手の届く範囲内にあります。そしてその意識の内側の空間はなお猿の腕の長さの範囲内にあります。したがって自由はありません。

 そこで心は言います。「私はこれを非常に明確に見る」―知覚の意味での「見る」、マイクロフォンを見るように、何の非難もなく、ただそれを見る。そのとき何が起こりますか? 何かを見るためには、聞くためには、完全な注意がなければならないのではないでしょうか? 私があなたの言っていることを理解したいなら、私は注意のすべてをそれに注がなければなりません。その注意の中に猿が活動しているでしょうか? どうか見い出してください。

 私はあなたの言うことを聞きたいと思います。あなたは重要な、あるいは重要でない何かを言っています。そしてあなたが何を言っているのかを見出すためには、私は注意を注がなければなりません。それは私の心、ハート、身体、神経、あらゆるものが注意して聞くために調和していなければなりません。心は身体から分離していない、ハートは心から分離していない、などなど。それは注意深い完全な調和した全体でなければなりません。それが注意です。心はそのような完全な注意で猿の活動に注意していますか?―それを非難せず、「これは正しいとか間違っている」と言わず、猿のごまかしをただじっと見て。このじっと見ることの中に分析はありません。これは本当に重要です皆さん、それを強化してください! ひとつの断片を分析する瞬間、猿は作動しています。それで心は、猿の運動のすべてに対するそのような完全な注意をもって、このようなやり方でじっと見ていますか? そのような完全な注意があるとき、何が起こりますか? あなたはそれをいましていますか?

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 注意するということはどういうことか知っていますか? あの雨を完全に聞いているとき、それに対する抵抗はありません。いらいらはありません。さて、そのように聞いているとき、動作している猿を持つ中心がありますか? 見出してください、あなた、私があなたに話すのを待たないでください―見出してください! あなたは完全な注意で話し手の言うことを聞いていますか? それは彼の言っていることを解釈しないこと、同意や不同意をしないこと、彼の言っていることを比較したり、あなた自身の特定の心を満足させるために翻訳したりしないことを意味します。何かのそのような活動が起こるとき、注意はありません。完全に注意しているということは心が聞くために完全に静かであるということです。あなたはそれをしていますか? 今その注意で話し手の言うことを聞いていますか? しているなら、中心はそこにありますか?

 質問者: 私たちは受動的です。

 クリシュナムルティ: 受動的か能動的かを私は気にかけません。私は、あなた、あなたは聞いていますかと言いました。聞くことは注意深いことを意味します。そしてその注意の中に猿は働いていますか? はいとかいいえとか言わないでください―見出してください、それを学んでください。そして中心のない、猿がごまかしをもてあそんでいないその注意の性質はどんなでしょうか?

 質問者: それは無思考なのでしょうか?

 クリシュナムルティ: 私は知りません、あなた、それを「無思考の」、「空っぽの」のような言葉にしないでください。見出してください。学んでください。それは持続した注意を意味します―束の間の注意ではなく―そのように完全に注意深い心の性質を見出すための。

 質問者: 心がそこにないと言う瞬間、心はそこにあります。

 クリシュナムルティ: いいえ、あなた―言葉を通じて伝達するために、それはそこにないと言うとき、そのとき記憶はそこにあります。しかし私は尋ねています。そのように完全に注意深いとき、中心はありますか? あなた、確かにこれは単純です!

 あなたが本当に面白くて笑わせる何かをじっと見ているとき、中心がありますか? あなたに興味を起こさせる何かがあるなら、そして片方の味方をしないでただじっと見ているなら、そのじっと見ることの中に中心が、それは猿ですが、あるでしょうか? 中心がないなら、そのとき質問はこうです。この注意は流れることが、移動することができるでしょうか―ただの一瞬で次に不注意になるのではなく―自然に、容易に、努力なしに流れることが? 努力は猿が生じていることを意味します。このすべてがわかりますか?

 猿は、されなければならない何かの機能本位の仕事があるなら、入ってこなければなりません。しかし猿の側のその仕事は注意から生じるのでしょうか、それともその猿は注意から離れているのでしょうか? 事務所に行くことと事務所で働くこと、それは注意の運動でしょうか、それとも肩代わりした猿、「私は他人よりよくなければならない、私はより多くの金を儲けなければならない。私はより精出して働かなければならない、私は競争しなければならない、私は支配人に―それが何であっても―ならなければならない」と言う猿の運動でしょうか? それを調べてください、あなた。あなたの生活の中ではそれはどちらでしょうか? 注意の運動、それゆえずっと効率的で、ずっと生き生きした。それとも猿が肩代わりしていますか? それに答えてくださいあなた、あなた自身で。猿が肩代わりして何かの害をするなら―そして猿は害をするのです―その害が消し去られ跡を残さないことができるでしょうか? さあ、皆さん、あなたはこのすべての美しさを見ていません。

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 きのう誰かが私に何かを言い、それは本当ではありませんでした。猿が作動して「あなたはうそつきだ」と言いたいと思ったでしょうか? それともそれは中に猿が働いていないあの注意の運動だったでしょうか?―そのとき、本当でないその話しは跡を残しません。猿が反応している時、そのときそれは跡を残します。そこで私は尋ねています。この注意は流れることが出来るでしょうか? 「どうやって私は絶え間ない注意を持てるだろうか?」ではなく。なぜならそのとき尋ねているのは猿であるからです。しかしいつも注意の運動があるとき、心はただそれと共に移動するだけです。

 あなたはこれに答えなければなりません。それはほんとうに途方もなく重要な質問です。私たちは猿の運動を知っているだけであり、そしてただ時たま、猿がまったく表われないこの注意を持つだけなのです。それで猿は「私はあの注意が欲しい」と言います。それでそれは瞑想をしに日本に行ったり、誰かの門下生になるためにインドへ行くなどなどをします。

 私たちは尋ねています。この注意の運動は私たちが知っているような意識にまったく無関係でしょうか? 明らかにそうです。この注意は、運動として、すべての運動が必ず流れるように流れることができるでしょうか? そして猿が活動しそうになるとき、猿はそれ自身、それが活動的なことに気づいて、そこで注意の流れに干渉しないことが出来るでしょうか?

 誰かがきのう私を侮辱し、猿が答えようと目を覚ましました。そして自分自身と猿のごまかしの含む意味のすべてに気づいたので、それは静まり、注意を流れさせました。「どうやって注意を維持するか」ではなく―これは本当に重要です―「私はそれを保持しなければならない」と言う瞬間、それは猿の活動です。そこでその猿はそれが活動的であるときを知り、それの気づきの感受性が即座にそれを静かにさせます。

 質問者: この注意の運動のなかには利己心はなく、したがって抵抗、エネルギーの浪費はありません。

 クリシュナムルティ: あなた、注意は最高のエネルギーを意味します。そうではないでしょうか? 注意の中にはすべてのエネルギーが断片化しないで、そこにあります。それが断片化し活動が起こる瞬間、そのとき猿が働いています。そして猿が、それもまた学んでいるのですが、敏感になったとき、気づいたとき、それはエネルギーの浪費を実感し、それゆえ、ひとりでに静かになります。それは「猿」と「注意」ではありません―それは猿と注意の間の分離ではありません。分離があるなら、注意はそのとき「高位の自我」になります―猿が案出したごまかしをすべてご存知ですね―しかし注意は全体の運動です。それは全体の行為です。注意に対立するのではなく。不幸にも猿もまたそれ自身の生を持っており、そして目を覚まします。

 

 さて、中心がないとき、注意の完全な頂点があるとき、何があるか私に話してくれませんか? 浪費されるエネルギーのかけらもない状況にある、非常に高度に注意深い心に何が起こりましたか? 何が起こりますか? さあ皆さん―私はずっと話しています。

 質問者: 全面的な沈黙があります。自己同一化はありません...

 クリシュナムルティ: 猿のごまかしは無し! 何が起こりましたか? 知性、脳にだけでなくて、身体に。私は話しましたがあなたは学んでいません! 話し手がもはや来ないなら、彼が死ぬなら、何が起こるでしょう? どうやってあなたは学ぶつもりですか? 誰かヨガの行者に学びますか? いいえ、あなた、したがっていま学んでください! 高度に注意深くなった心に何が起こりましたか、その中にはすべてのエネルギーがそこにあります―知性の性質に何が起こりましたか?

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 質問者: それは見ています。

 クリシュナムルティ: いいえ、あなたはわかっていません! どうか推測しないでください。

 質問者: それはまったく静かです。

 クリシュナムルティ: 見てください、みなさん―機能し、働いてきた、猿を発明した脳―その脳は途方もなく敏感になっていないですか? わからないなら、どうか推測しないでください。そしてあなたの身体があります―損なわれていない、浪費されていない、この様なものすごいエネルギーを得たとき、組織全体に、人間の構造全体に何が起こりましたか? それが私の尋ねていることです。

 質問者: それは目覚めます。それは活気づきます。それは学び...

 クリシュナムルティ: いいえ、あなた、それは学ぶために活気づかなければなりません。さもなければ学ぶことはできません。あなたが眠っていて「私は私の先入観を信じる、私は私の先入観が好きだ、私の条件付けは素晴らしい」と言うなら―そのときあなたは眠っています。あなたは目覚めていません。しかしあなたが尋ね、学び始めるやいなや、あなたは生き生きとし始めています。そのことは私の質問ではありません。何が身体に、脳に起こりましたか?

 質問者: 完全な相互作用があります。分離はなくて、全体的気づきがあります。

 クリシュナムルティ: あなた、あなたがぶらぶらしてエネルギーを浪費していないなら、脳という機械装置に、それは純粋に機械的なものですが、何が起こりましたか?

 質問者: それは生き生きしています。

 クリシュナムルティ: どうか、あなた―あなた自身をじっとよく見てください。あなたのハートで、あなたの身体で、あなたの心で、あなたの中のあらゆるもので、あらゆる粒子で、あらゆる細胞で、何かにそんなにも完全に注意を傾けてください。そして何が起こるか見てください。

 質問者: そのとき私は存在しません。

 クリシュナムルティ: ええ、あなた。しかし何が脳に起こりましたか、あなたにではなく? 私は中心が存在しないことに同意します。しかし身体はそこにあります、脳はそこにあります―脳に何が起こりましたか?

 質問者: それは休息します。それは再生します。

 クリシュナムルティ: 脳の機能は何ですか?

 質問者: 秩序。

 クリシュナムルティ: 私の後について繰り返さないでください、後生ですから!

342


 

 脳とは何でしょうか?―それは時間の中で進化して来ました。それは記憶の貯蔵庫です。それは物質です。それは高度に活動的です。認識し、保護し、抵抗し、考え、考えないで、脅え、安全を求めてなお不確実でいます。それがその記憶のすべてを持つその脳です―ただ昨日の記憶だけでなくて、数世紀の記憶、人種の記憶、家族の記憶、伝統―その全部の内容がそこにあります。いま、この途方もない注意があるとき、その脳に何が起こりましたか?
 
 質問者: それは新しいです...

 クリシュナムルティ: 私は失礼でありたくありませんが、あなたの脳は新しいでしょうか? それともあなたが言っているのはただの言葉でしょうか? すみませんが、そんなに機械的になってしまったこの脳に何が起こりましたか。非-機械的になったと言わないでください。脳は純粋に機械的です。その条件付けの背景、恐怖、快楽等にしたがって反応して。エネルギーの浪費がまったくないとき、この機械的な脳に何が起こりましたか?

 質問者: それは創造的になり...

 クリシュナムルティ: 明日までそれをそのままにしておきましょう。

 1970年8月8日

343

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