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201 シークレット・ドクトリン H・P・ブラバツキー 著 1888

​宇宙発生論 宇宙パブリッシング

自己を知ることと教え

J. Krishnamurti, Exploration into Insight - 'Self-knowledge and the Teaching'
洞察の中への探究 -「自己を知ることと教え」

 P: あなたが本や講話の中で用いる、言葉で表現されたものとしてのあなたの教えと、現実の自己を知る過程との間の関係は何でしょうか? 真理に到達する他の全ての方法においては、教師の言葉は方向、それに向かって動くべきものの指示として受け取られます。あなたの言葉も同じ性質のものでしょうか、そしてもしそうなら、自己を知る知覚の過程に対するあなたの言葉の関係は何でしょうか?

 K: 私は質問を理解しているのかなと思います。それをこのように述べるなら正しいでしょうか。言葉と、Kが話している現実との間の関係は何か? そういうことでしょうか?

 P: Kが規律について話す、あるいは全体観的(holistic)な接近について話すとき、それは言葉です。さらにまた、自己を知る現実の過程と自己を知ることの中であらわにされるものがあります。このあらわにされる知ることに対するKの言葉の関係は何でしょうか?

 K: これは私はよくわかりません。

 P: あなたは「権威はない」と言います、心理的あるいは精神的権威。私たちは「権威はない」というその表現を取り上げる傾向があり、それを自分の生活に適用します。つまり、その状態にあるのではなく、自己を知る過程の中で権威からの自由を見出すのではなく、単に無権威という状態に到達できるかどうかを見出だそうとするのです。私たちはあなたの言葉を真理として受け取るのです。

 K: わかります。「権威はない」、それは言葉からなる抽象、それゆえ観念であり、それで人はその観念を追求するのでしょうか? Kが「権威はない」と言うとき、それは自己暴露でしょうか、それとも単に結論、スローガンに過ぎないのでしょうか?

 A: またもう一つの側面があります。あなたが「権威はない」と言うとき、それは命令、人が出来るだけ接近しようとする命令になりませんか?

 K: ええ、そうですね。

 A: 一つは行為の場にあり、もう一つは抽象の場にあります。

 P: 自己を知ることがあります。自己を知る過程の中であらわにされるものは、言葉によって知ることは出来ません。人はあなたが話すのを聞きます、あなたが言うことを取り入れます、あるいはあなたの本を読んでそれを自分の日常生活に適用します。したがって自己を知ることとあなたの言葉との間にギャップがあります。さて、どこに真理はあるのでしょうか?
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 K: 言葉にも自己暴露にもありません。それは完全に別のことです。

 P: それを討論していいでしょうか?

 K: 私はKに聞き入ります。彼は自己を知ることについて語ります。そして自己を知ることを強調します。それがいかに重要であるかを。自己を知ることなしには基礎がないということを。彼はこのことを言います。私はそれを聞きます。どんな態度で私はその陳べられたことを聞くでしょうか? 私はそれを観念、命令、結論として聞くのでしょうか? それとも、自己を知ることの中で権威の含む意味を実感し、それゆえ、彼が言っていることが、私が自分自身で見出すことと一致するのを見るのでしょうか? 私が言葉を聞き、その言葉について結論を観念として引き出し、観念を追求するなら、そのとき、それは自己を暴露することではありません。それは単に結論にすぎません。しかし、私が自分自身を学んでいるとき、私が私自身の思考を追っているとき、そのとき、Kの言葉の中に自己発見があるでしょう?

 P: では、Kの言葉は自己発見に必要なのでしょうか?

 K: いいえ。私は声明します。 自己を知ることなしには、私が考えるどんなことも、私がしたり、続けたりするどんなことも基礎を持たないのです。そこで、私は自己を知ることに関心があるので、講話に来たり本を読んだりして、そのことを追求します。そしてKが「権威はない」ことについて話すのを聞くとき、それらの言葉を聞くときの私の心の状態はどんなでしょうか? それは一つの受容でしょうか、それは私が引き出す結論でしょうか、それとも、それは事実でしょうか?

 P: どうやってそれは事実になるのでしょうか? 自己を知ることの知覚の過程の中での、そのことの発見によって事実になるのでしょうか? それとも、あなたがそう言ったから事実なのでしょうか?

 K: マイクロホンは事実です。私がそれはマイクロホンだと言うからではありません。

 P: しかしあなたが「マイクロホン」と言うとき、マイクロホンが事実であるのと同じ意味で事実なのではありません。

 K: そう、言葉はものではありません。描写は描写されたものではありません。それで、言葉は決してものではないというその点について私は明確でしょうか? 「山」という言葉は山ではありません。それについて私は確かでしょうか? それとも私には描写で十分であって、描写に巻き込まれているのでしょうか? 描写されたそのことを望み、観念にしがみついて、私は描写を受け入れるのでしょうか? 言語構造をまったく拒絶しないでください。私は伝達するために言語を用います。私はあなたに何かを告げたいのです。私は私たち両方が知っている言葉を使います。しかし、私たちが使っている言葉は私が持っている実際の気持ちではないことを、私たち両方が知っています。それゆえ言葉はものではないのです。

 D: 人は知的過程を通して話したり、知的過程なしに話したり、どちらもします。

 K: あなた、それらは二つの違った要素です。言葉を通じて伝達も、言葉なしに伝達もどちらもします。

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 D: いいえ、言葉はそこにあります。しかし私たちがあなたを聞くとき、あなたは私たちが話すやり方で話してはいないことを、私たちは知っています。

 K: なぜあなたはそう言うのでしょうか?

 D: それは難しい質問です。しかし、それはマイクロホンを見るように現実的な、明確な感覚です。Kは私が話すやり方で話してはいません。彼の言葉の源は、私たちが使う言葉よりもっと深い所にあるのです。

 K: わかります、あなた。私は「愛している」と浅薄に言うことが出来ますが、また「本当に愛している」と言うことも出来ます。それはまったく違ったことです-声の調子、言葉の質、気持ちの深さ。言葉は深さを伝えます。

 D: もう少し進みたいのですが。

 K: 更に進んでください。

 D: 言葉は名状しがたい、私たちが愛と呼ぶ深い気持ちを実際に伝えます-しかし、私はそのための言葉を知りません。

 K: あなたは言葉を知らないかもしれません。だがなお、私はあなたの手を取るかもしれません。身振りをするかもしれません。

 D: それは本当です。しかし今、身振りと言葉の間には、関連がありません。

 K: それがあなたが伝えようとしていたことですか、ププル?

 P:理解し超えていくことの中での私たちの困難の一つは、話された言葉にせよ 書かれた言葉にせよ、あなたの言葉を受け取り、そしてそれが、それに向かって近づく抽象になるということです。そのとき、他方、自己を知る過程があり、その中にあなたの言葉の真実があらわにされることが有り得ます。しかし、それは一般にはそのようには起こりません。妨害なしにあなたに傾聴することは、私の心の性質にそのような変化を引き起こすかもしれませんが、しかしあなたの用いる言葉の実際の状態の発見は、自己を知る過程の中にあらわにされることができるだけであると、いつも私には思われます。

 K: それに対し私は何を言えばいいのでしょうか?

 P: あなた、まず第一に、私たちは自己を知ることを詳細に調べるべきだと考えます。私たちは非常に長い間、それをしませんでした。

 K: それをしましょう。「自己を知ること」は何千年も昔、ソクラテスによって、また彼の前の他の人たちによって話されていました。さて、自己を知ることとは何でしょうか? どうやってあなたはあなた自身を知りますか? 自分自身を知るとはどういうことでしょうか? あなたはあなた自身を経験の観察から知るのでしょうか? ある思考の観察から、そしてその思考から起こる別の思考の観察。そして私たちは最初の思考を去らせるのに気が進まず、そのため一番目の思考と二番目の思考の間に葛藤が起きます。それとも自己を知るということは、最初の思考を放して二番目の思考を追跡し、そして次に二番目のを落として起こる三番目の思考、三番目のものについて行く。三番目のものを落として四番目のものについて行く。その結果、思考の動きについての絶え間のない油断のなさと気づきがあるということでしょうか? さて、進みましょう。私は私自身が嫉妬深いのを観察します。嫉妬に対する本能的な反応は合理化です。合理化の過程で私は嫉妬を忘れてしまいます、あるいは除きます。そこで私は合理化に、言葉に、調べてから抑圧する能力に捕らえられます。私は全体の運動を一組のものとして見ます。そのとき、それから逃げようとする欲求が生じます。私はその欲求、その逃避を調べます。それは何への逃避でしょうか?

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 P: 時には瞑想に逃避します。

 K: もちろん、それはより容易なごまかしです-瞑想の中にというのは。そこで私は言います、瞑想とは何でしょう? それは「あるがままのもの」からの逃避でしょうか? それは瞑想でしょうか? それが逃避なら、瞑想ではありません。そこで私は戻り、私の嫉妬を調べます。なぜ私は嫉妬深いのでしょうか? なぜなら私は執着しているから、なぜなら私は私が重要であると思っているからなどなど。この全体の過程は暴露なのです。そのとき、私は要点に達します: 検査している者、観察している者は観察されるものと違うでしょうか? 明らかに違っていません。それゆえ、真の観察は観察者がないときなのです。

 P: あなたは「明らかに違っていません」と言いました。そのことを調べましょう。

 K: 観察者は過去のものです。記憶に貯えられた過去、思い出、経験、知識です。過去のものが観察者であり、私は現在を観察します。現在とは私の嫉妬、私の反応です。そして私はその気持ちに対して「嫉妬」という言葉を使用します。なぜならそれを過去に起きたものとして認識するからです。それは過去の一部である言葉を通しての嫉妬の思い出です。それで、私は言葉なしに、過去のものである観察者なしに観察できるでしょうか? 言葉がその感情をもたらすのでしょうか、それとも言葉なしに感情があるのでしょうか? この全ては自己を知ることの一部です。

 P: どうやって言葉なしに観察しますか?

 K: 観察者なしに、思い出すことなしに。それは非常に重要です。

 P: 実際にどうやって観察者の問題に取り組みましょうか?

 A: 観察者を見守ることの中に、彼自身についての観察者の不賛成や賛成もまたあると言っていいでしょうか。

 K: それが過去のものです。それが彼の条件付けです。それが過去のものの運動の全体です。それが観察者の中に含まれています。

 A: その非難が障害です。

 K: それがププルが尋ねていることです。彼女は言います:どんなふうに私は観察者を観察するのでしょうか? 観察者を観察する過程は何なのでしょうか? 私はKが観察者は過去のものであると言うのを聞きます。それはそうなのでしょうか?

 Par: そのような質問を尋ねる中に、別の観察者が創り出されます。

 K: いいえ、私は何も創り出していません。私はただ観察しているだけです。質問は、観察者は何か?-観察者は誰か? です。どんなふうに私はこのマイクロホンを観察しますか? それがマイクロホンであるということを示すのに使った言葉を通じて、私はそれを観察します。それは脳の中にマイクロホンとして、記憶として登録されています。私はその言葉をマイクロホンという事実を伝えるために用います。それは十分単純です。

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 P: 人は観察者を観察するでしょうか?

 K: そのことに入りましょう。どうやって観察者を観察しますか? あなたは観察しないのです。

 P: 観察者の性質の理解をひとに与える観察者の観察はできないことでしょうか?

 K: いいえ。あなたは観察者を観察しません。あなたはただ「あるがままのもの」と観察者の干渉を観察するだけです。あなたは観察者を認識すると言います。違いがわかりますか? ちょっとゆっくり行きましょう。嫉妬があります。観察者が入ってきて言います。「私は過去に嫉妬した。私はその感情が何であるか知っている」。そこで、私はそれを認識し、そしてそれは観察者です。 あなたは観察者をそれだけでは観察できません。観察されるものとの関係の中においてのみ、観察者についての観察があります。観察者が観察を阻むとき、そのとき、観察者についての気づきがあります。あなたは観察者をそれだけでは観察できません。あなたは観察者を何かとの関係の中にのみ観察できるのです。それはかなり明らかです。感情の瞬間には観察者も観察されるものもありません。その状態があるだけです。そのとき観察者が入ってきてそれは嫉妬だと言い、そこに在るものに干渉し続けます。彼はそれから逃げ出します、それを抑圧します、それを合理化します、それを正当化します、それから逃避します。それらの動きが、そこに在るものに対する関係の中で、観察者を示すのです。

 FW: 観察者が存在する瞬間、観察者を観察する可能性があるでしょうか?

 K: それが私たちが言っていることです。私は怒っている、あるいは暴力的です。暴力の瞬間は何もありません。あなた、観察者、も観察されるものもありません。暴力のその状態があるだけです。そのとき観察者が入り、それは思考の動きです。思考は過去のものです-新しい思考はありません-そして思考のその動きが現在に干渉します。その干渉が観察者であり、あなたはその干渉を通してのみ、観察者を学びます。それは暴力の中の非合理であるものから逃げようとか、それを正当化するなどなどをしようとします。それらは全て現在に対する伝統的な接近です。伝統的接近は観察者です。

 P: したがって、ある意味では、現在から逃げる見地においてのみ、観察者はそれ自身を告白するのです。

 K: 逃避、または合理化。

 D: あるいは干渉。

 K: 現在へのどんな形の干渉も観察者の行動です。これを受け入れないでください。それをずたずたに引き裂いてください、見出してください。

 Par: 過去のものが何もないなら、干渉はありませんか?

 K: いや、それは要点ではありません。過去のものとは何ですか?

 Par: 蓄積された、貯えられた私の経験の内容。

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 K: それは何でしょう? あなたの経験、あなたの傾向と動機、その全ては過去のものの運動であり、それは知識です。過去のものの運動は知識を通してのみ起こることができ、それが過去のものなのです。そこで過去のものは現在に干渉します。観察者が作動し始めます。干渉がないなら、観察者はありません。観察のみがあります。
 観察の中には観察者も、観察という観念もありません。これは理解することが非常に重要です。観察者も、観察者を持っていないという観念もありません。それは言葉なしの、過去の思い出と連想なしの、純粋な観察のみがあることを意味します。何もなく、観察のみがあります。

 FW: そのように観察者の観察ができますか?

 K: いいえ、私は言いました。観察者の観察は過去のものが干渉するときのみ生じるのです。過去のものが観察者なのです。その過去のものが現在に干渉するとき、観察者が行動しているのです。観察者があることに気づくのはそのときだけです。さて、それを見るとき、それに洞察を持つとき、そのとき観察者はなく、観察のみがあります。
そこで、あなたが私に教えたからではなく、自分で、「権威がないこと」を観察できるでしょうか?

 P: いいえ、私は一つのもの:権威の動き、を観察できるだけです。「権威がないこと」を決して観察できません。

 K: もちろん出来ません。しかし、権威の観察があります。開悟のための他人からの要求の中にある権威の観察。他人への寄り掛かり、傾倒、それは全て権威の一つの形なのです。そして私の脳、私の心、私の存在の中に機能している「権威」があるでしょうか? 「権威」は過去によって決まっている経験、知識かもしれません-見解など。「権威」としての思考の運動の観察があるでしょうか?

 P: 何が重要なのでしょうか? 私の人間の心の、私の意識のあらゆる動きの観察ですか、それとも、あなたが言っていることの真実、現実であることを、私の意識の中に発見しようという試みでしょうか? それは非常に微妙なことです。私はそれをどう述べればいいかわかりません。

 S: それをこのように述べていいでしょうか? 例えば、私は傷を観察します。

 K: あなたはKがそれを言ったから傷を観察するのでしょうか?

 S: 私は自分が傷ついたのを見ます。私は傷の発生を見ます。傷の観察は私が自分を知ることの一部として行なうことが出来るものです。しかし、どこで私は権威をつくるのでしょうか? クリシュナジが「一度傷を見るなら、それは終わったのです」と言うとき、私が権威をつくりだすのはそのときです。そのとき、私はある状態、その状態に向かっての運動をもくろみます。傷の絶え間ない観察という罠に捕まりたくないからです。しかし、意識にはいくつかの他の要素があります。傷の観察の代わりに私はそれを見ます。観察者なしの傷の観察が傷の終わりであると人が言うのを、私は時折り聞きます。それが私が権威をつくりだす場所です。

 K: わかります。私は傷と傷の成り行き、その傷がどうやって生じたかなどなどを観察します。私はその傷の過程全体に気づいています。そして心の中でKが、一度あなたがそれをそっくりそのまま 全体観的に見るなら、そのときそれは終わり、あなたは決して傷つかないであろうと言うのを聞きます。彼はそれを言いました。

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 S: それは私の意識の中のそこにあります。

 K: あなたの意識の中に何があるのでしょうか? 言葉?

 S: 言葉とは別に、彼がそのことを述べたとき伝えたところの状態が。なぜならKが話しているとき、彼は言葉を超えて「状態」を示しているように思われるからです。

 K: スナンダ、見てください:私は傷ついています。私が傷ついていることを知っています。あなたの言うことを傾聴することによって、私はことの成り行きすべてを見ました-引っ込み、孤立、暴力、その全てを見ました。私はそれを、あなたがそれを私に指し示したので見るのでしょうか? それとも、あなたが私に指し示したけれども、それを見るのでしょうか?

 S: 明らかに事実がそこにあります。あなたは私の生に入って来て、私はあなたを傾聴しました。

 K: そのとき質問が生じます。一度あなたがそれを十分に全体観的に見るなら、そのとき全部の傷は終わるとKは言います。権威はどこにありますか?

 S: 権威はそこにあります。なぜならそれは私が持ちたい状態を断言するからです。

 K: では野心であり、欲望であるその状態を調べましょう。

 P: 私は「全体観的」という言葉のあなたの使い方を調べたいのですが。そしてまた、あなたが言われたあることも尋ねたいのです。それはこうです。あなたは傷を保持し、それと共に留まることができますか-すなわち、全体観的に? 保持することには何が含まれているのですか?

 K:私は傷ついています。私はなぜ自分が傷ついたか知っています。私は傷つけられたイメージとその傷の結果に気づいています-逃避、暴力、狭量、恐怖、孤立、引っ込み、心配、その他もろもろ。どんなふうに私はそれに気づいているのでしょうか? あなたがそれを私に指し示したからでしょうか? それとも私がそれに気づいており、それを見、あなたと共に動いているのでしょうか? そのことの中には権威はありません。私はあなたが言っていることから離れていません。それが落とし穴があるところです。

 S: ある点まで、あなたと一緒の動きがあります。

 K: 私はあなたと一緒に動いています。

 D: それゆえ、あなたの言葉は指示棒のようなものです。

 K: いえ、いえ。

 S: 私があなたと共に動いている限り、関係があります。

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 K: 私がその関係を破る瞬間、そのとき、私の質問が始まります。どうやって私はそれをすればいいのでしょうか? 私が正確にあなたの言っていることを追っているなら-イメージが傷つき、そして次に逃避、暴力、ということを見ているなら-私はあなたと共に動いています。それはオーケストラのようです。言葉のオーケストラ、気持ちのオーケストラ、全部のものが動いています。私があなたと動いている限り、矛盾はありません。そのときあなたは「一度あなたがこれを全体として見るなら、事は終わる-」と言います。私はあなたと共に居るでしょうか?

 S: それは起こってません。

 K: あなたになぜか教えましょう。聞いていなかったからです。

 S: 言わば、私が二十年間も聞いていなかったということでしょうか?

 K: それは問題ではありません、ある日で十分です。あなたは聞いていなかったのです。あなたは言葉を聞いているのです。あなたは反応を持ち運んでいるのです。あなたは彼と共に動いていないのです。

 R: その聞くことと全体観的展望との間に、違いはあるのでしょうか?

 K: いいえ、聞いてください。解釈なし、吟味なし、比較なしの意味で聞くことが出来ますか?

 R: 期待なしに。

 K: 何もなしに。ただ聞くこと。私は聞いています。それは、そこで一つの川のように一緒に流れている二つの川のようなものです。しかし、私はそのようには聞きません。私はあなたが「全体観的に」というのを聞いて、それを得ようと望むのです。それゆえ、私はもはや聞いていません、それを望んでいるからです。

 R: したがって、何であろうが、どうやってそれと共に留まるかという質問は、間違った質問でしょうね?

 K: 私はそれと共に留まっています。

 R: はい、しかし質問はそれ自体、それと共に留まることから離れる動きです。

 K: もちろん。

 P: 悲しみの強烈さの感覚があり、この悲しみはそれから離れるどんな動きによっても散らされないということを見る観察があります。危機の瞬間にはエネルギーの強烈さがあり、そして全的にそれと共に留まるためには、唯一の行為はそれから離れ去ることの拒否です。そのことは正当でしょうか?

 R: それは、人はそれから離れるあらゆる動きを毎瞬監視し、どうやってそれと留まればいいかと言わないことができるだけであるということを意味しないのではないでしょうか?

 P: 悲しみが起こり、それはあなたを満たします。それが、悲しみが非常に深いものであるとき、作用する仕方です。そのことへの行為は何でしょうか? 浪費なしにそれを開花させることの出来る行為は何でしょうか?

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 K: それがあなたを実際に満たすなら、悲しみと呼ばれる途方もないエネルギーで、あなたの存在全体が満たされ、逃避がないなら。しかし、あなたが何かの方向に離れるやいなや、それはそのエネルギーの浪費です。あなたは悲しみと呼ばれるそのエネルギーで完全に満たされているのでしょうか、 それとも、あなたの中のどこかに、そこに抜け穴があるあなたの一部があるのでしょうか?

 R: 私は常に抜け穴があると思います。なぜなら、人の全存在を満たす何かについての恐怖があるからです。私はその恐怖がそこにあると思います。

 K: それゆえ、悲しみはあなたの存在を満たしてしまっていないのです。

 R: いません、そうなのです。

 K: それは事実です。そこで、あなたは悲しみではなく、恐怖を追跡します。何が起こるかもしれない恐怖、など。それゆえ、あなたは恐怖を調べます。あなたは悲しみを忘れて、それを調べます。

 D: 「全体観的」という言葉の使用は現実を含みます。現実それ自体が全体です。

 K: いえ、いえ。あなた、「全体観的」という言葉の意味を理解しましょう。全体は健全、肉体的に健全を意味します。次にそれは精神的、肉体的に正気を意味し、それから神聖なものが生じます。その全てが「全体観的」あるいは「全体」という言葉に含まれています。

 D: 初めてこのことが明確です。

 K: あなたが非常に健康であるとき、そして脳が、何の奇癖も 何の神経症的な動きもなく、感情的にも知性的にも正気であるとき、それは神聖です。それが全体観的接近です。奇癖、特異性、信念があるなら、それは全体ではありません-それゆえ、それをきれいにしなさい。全体観について語らないこと。全体観は正気、健康があるときに生じます。

 S: これが板挟みに陥るところです。断片を追えとあなたは言います。しかし、断片を全体観的に見ない限り ...

 K: 全体観的にということを気にしないでください。

 S: では、どんなふうに断片を見ましょうか? そのとき、含まれている過程は何でしょうか? どれが最初に来るのでしょうか?

 K: 私はそれをしています。私は全体観について一つも知りません。私は知りません。私は言葉の意味、言葉の記述、それが何を伝えるかを知っていますが、それは事実ではありません。事実は私が断片であること、私は私自身の中で、断片で働き、生き、行動するということです。他のことについては何も知りません。

 FW: これは最初の質問に私たちを連れ戻します。今の私たちの会話を別にして、あなたの言葉の意味は何なのでしょうか? 私の日常生活の中で、あなたは決して傷つかないでしょうというあなたの言明を思い出すことは、私が傷ついているとき、意味があるのでしょうか?
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 K: いいえ、私は傷ついています。それが私の知っている全てです。それは事実です。私は私自身についてイメージを持っているので傷つきます。私はそのイメージを私自身で見出したのでしょうか、それとも、イメージが傷つくということを、Kが私に教えたのでしょうか? それを見出すことが非常に重要です。記述がイメージを創り出したのでしょうか、それとも、私がイメージが存在することを知っているのでしょうか?

 S: 人はイメージが存在することを知っています。

 K: よろしい。イメージが存在するなら、私はイメージに関わります。どうやってイメージを除くかではなく、どうやってイメージを全体観的に見るかではなく。私はそれについては何も知りません。

 S: 「イメージを見る」、それは「全体観的に」という概念を含んでいるように思われるのですが。

 K: いいえ、私はそのような概念は何も知りません。私は自分がイメージを持っていることを知っているだけです。私は断片、「あるがままのもの」と共にいる他は、どんなものともいるつもりはありません-全体観は非-事実です。

 S: それは非常に明確です。しかし、どうやって人はそれを見るのですか、傷を全体的に保持するのですか? それが質問が生じる所です。

 P: それが彼の陳べていることです。

 K: 何ですって?

 S&P: 「全体的に」。それが彼の陳べていることです。

 K: もちろん。しかしそれを捨てなさい。

 S: では何の問題もありません。なぜなら、人は傷の特定の兆候を観察するからです。その観察があり、それは終わります。この過程は続きます。私はそれをKが私に告げてくれることを必要としません。これを私は知っています。そのレベルの何かを、意識の中に起きているあらゆるものを観察すること。その観察と鎮静。

 A: 議論は権威についての極めて重大な質問で始まりました。権威についてのこの討論の出発点はこれに、私たちがあなたの言ったことを権威にするということにあります。そのときそれは障害です。

 K: あきらかに。

 D: 何かがこの中に見落とされています。

 K: 見てください、あなた、これから出てくる非常に興味深いものがあります。あなたは学習しているのでしょうか、それとも、あなたはその中に洞察を持っているのでしょうか? 学習は権威を意味します。あなたは学習しているのですか、そして学習したことから行動するのですか? 私は数学、技術工学等を学習し、その知識から技術者になり 行動します。あるいは実地に出て行動し、学習します。両方とも知識の蓄積と知識からの行動です-知識は権威になります。知識を蓄積して行動するのも、外に出て行動し学習するのも。両方とも知識にしたがって行動しています。そこで、知識が権威になります、それが医者、科学者、建築家、あるいはグルのどれにしても。「私は知っている」と言うグル-それが彼の権威です。さて、誰かがやって来て言います。「見てください、知識にしたがって行動することは獄舎です。あなたは決して自由ではないでしょう。知識によっては登れません。」そしてKみたいな誰かが言います。「それを違ったふうに見ましょう、洞察をもって行動を見ましょう-知識を蓄積し行動するのではなく、洞察と行動。そのことの中には権威はありません。

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 P: あなたは「洞察」と言う言葉を使いました。その言葉の実際の意味は何でしょうか?

 K: 何かの中に洞察を持つこと。物事を瞬時に把握すること。注意深く聞くこと。ほら、あなたは聞いていませんね、それが私の要点です。学習してから、あなたは行動します。つまり、学習することの中に情報、知識の蓄積があり、あなたはその知識にしたがって、上手あるいは下手に行動します。それが学習することです。知識を蓄積し、それによって行動する。それから、行動からの学習があります。それはもう一つと同じです。両者とも知識に基づいて行動しています。それで知識は権威になり、そして権威のあるところ、抑圧があるに違いありません。その過程を通しては決してどこへも登れないでしょう。それは機械的です。あなたは両方を機械的運動として見ますか? そのことを見るなら、そのことは洞察です。したがって、あなたは知識からではなく行動しています、知識と権威の含蓄を見ることによって。あなたの行為はまったく違います。
 そこで、私たちはどこにいるのでしょう? 自己を知ることとKの言葉。一緒の運動があるなら、そのときそれは終わります。それは非常に単純です。あなたは動きます。

 P: Kの言葉とその言葉と共に動くことが本質的なことでしょうか? 言葉なしに暴露があり得るでしょうか?

 K: よろしい。Kは言います。「あなた自身に対して光であれ」。それはあなたが権威になることを意味しません。Kは言います。「誰もあなたをそこに連れて行くことは出来ません。あなたはそれを招くことが出来ません」。Kは言います。「あなたは次の百万年の間、際限なくKを聞くことが出来ます。そしてあなたはそれを得ないでしょう」。しかし彼は言います。「あなた自身に対して光であれ。するとあなたはそのものを全体観的に見ます」。自分自身を知ることはもっとも難しいことの一つです。なぜなら、私自身を観察する中で、私は見ているものについて結論に達するからです。次の観察はその結論を通してなのです。実際の怒りをどんな結論もなしに、正しい、間違っている、良い、悪い、と言うことなしに観察できるでしょうか? 全体観的に観察できるでしょうか? 自己知は自分自身を知ることではなく、思考のあらゆる動きを知ることです。なぜなら、自己は思考、イメージ、Kのイメージと「私」のイメージであるからです。それゆえ、思考のあらゆる動きを見守りなさい。一つの思考を、それが何であるかを実感・理解することなしに決して行かせないで。それを試みてください。それをやってみてください、すると何が起こるか見えるでしょう。これは脳に筋力を与えます。

 S: あなたはたった一つの思考の中に自己の本質があるとおっしゃりたいのでしょうか?

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 K: はい。私は「はい」と言いましょう。いいですか、思考は恐怖です。思考は快楽です。思考は悲しみです。そして思考は愛ではありません。思考は慈悲ではありません。
 思考が創り出したイメージが「私」です。「私」はイメージです。「私」とイメージの間に違いはありません。イメージは「私」です。さて、私は「私」であるところのイメージを観察しており、それは「私は涅槃に到達したい」と言います。それは私が貪欲であるということです。それがすべてです。金銭を望む替わりに、私はほかのものを望みます。それは貪欲です。そこで私は貪欲を調べます。貪欲とは何でしょうか? 「もっと多くのもの」? それは、私があるがままのものを、もっと多くのもの、もっと大きいものに変えたいということです。したがってそれは貪欲です。そこで私は言います。「では、なぜ私はこのことをするのだろう?」「なぜ私はより多くを望むのだろう?」それは伝統、習慣でしょうか、それは脳の機械的な反応でしょうか? 私は見出したいのです。一目で見出せるか、一歩一歩見出せるかのどちらかです。いかなる動機も持っていないときのみ、私は一目でそれを観察できます。というのは、動機は歪める要因だからです。あなた自身を知ることはもっとも興味あることです。なぜなら、あなた自身は世界かもしれないからです、-理論的世界ではなく、地球的世界です。私は私自身を知りたいのです。なぜなら、私自身を知らないなら、私の言うことは何であれ 無意味であることを、腐敗していることを、非常に明確に見るからです-単に言葉の上でなく、それが腐敗であることを私は見ます。私の行動は腐敗した行動であり、私は腐敗した生を送りたくありません。私は、私自身を知らなければならないことを見ます。私自身を知るために私は見守ります。あなたとの、妻との、夫との私の関係を見守ります。その見守る中で、その関係に反映された私自身を、私は見ます。セックスをしたいので私は妻を望みます。私は彼女の慰めを望みます。彼女は子供の面倒を見てくれます。料理をします。私は彼女に依存しています。それゆえ、彼女に対する関係の中に、快楽の原理、執着の原理、慰安の原理などなどを発見します。私はそれを過去のものなしに、何の結論もなしに観察しているでしょうか? 私の観察は正確でしょうか? 「あなた自身に対して光であれ」と人が言うや否や、全ての権威は、ギータ、グル、僧院の教え役の権威を含めて去ります。その問題はそれ自体で本当に興味深いでしょう。私が私自身に対して光であるなら、政治的に、経済的に、社会的に、私の関係はどんなでしょうか? しかし、あなたはこれらの質問を尋ねません。私は私自身の光です-進みましょう、それをやり抜きましょう-私は私自身の光です。私はそのことを非常に明確に見ます。私は権威、導き手を持ちません。そのとき、暴政、グルの、僧院の教え役の暴政について、どのように私は行動するでしょうか? 自分自身に光であることは全体観的であることを意味します。全体観的でないどんなものも腐敗です。全体観的な人間は腐敗を相手にしないでしょう。 

 Bombay 14th January, 1977

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