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17 The Beginnings of Learning  1975

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18 Krishnamurti on Education  1975

春秋社

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19 Krishnamurti's Notebook  1976

 邦訳 『クリシュナムルティの神秘体験』 おおえまさのり 田中周作 訳
 → 『クリシュナムルティ・ノート』 中野多一郎 訳  たま出版

 

1949年 オハイの公開講話(第6回)

J. Krishnamurti Ojai 6th Public Talk 31st July 1949

 

 

 

 今朝私は何が真の宗教なのか討論したいと思います。しかしそれが何であるか見いだすために、まず私たちの生を調べなければなりません。そしてそれの上に、私たちが精神的、情熱的、感傷的であると思う何かを重ね合わせてはなりません。それゆえ、宗教という言葉が何を意味するか、そして何が真の宗教であるかを明らかにするやり方があるかどうか、見いだすために私たちの生を調べましょう。

 まず最初に、私たちの大抵にとって、生は葛藤で満ちています。私たちは苦痛の中にあります。私たちは悲しみの中にあります。私たちの生は退屈で、空虚です。そして常に死があり、そして無数の説明があります。生は概ね習慣の絶え間ない反復です。全体としては、それは苦しく退屈で、うんざりさせる悲しいものです。そしてそれが私たちの大多数のいっさいがっさいです。それから逃れるために、私たちは信念に、儀式に、知識に、娯楽に、政治に、活動に向かいます。私たちは毎日の退屈でうんざりする日課からの、どんな形の逃避も歓迎します。政治的であろうが宗教的であろうがこれらの逃避は、その性質そのものによって、同様に退屈で、決まりきった、常習的なものになるに違いありません。私たちは感情から感情に移動します。そして究極的に、すべての感情は飽き飽きする退屈なものになるに違いありません。私たちの生は大抵肉体的な中心からの反応であるので、そしてそれは妨害、苦痛を引き起こすので、私たちは私たちが宗教と呼ぶもの、精神的な領域に逃げ込もうとします。

 さて、私たちが何かの形で感情を求めている限り、それは結局は倦怠に通じるに違いありません。なぜなら、人は食傷させられるからです、それに疲れます―それは再び明白な事実です。あなたが感情を持てば持つほど、それらは遂には、ますますうんざりするものに、ますます退屈するものに、ますます習慣的なものになります。そして宗教は感情に属する事柄でしょうか?―実在の探究、最高のものの発見、理解、経験である宗教。それは感情に属する事柄、心情に属する事柄、懇願に属する事柄でしょうか? 私たちの大抵にとって、宗教は信仰、教義、儀式、組織された式文の絶え間ない反復などなどの一組です。これらの物事を検査するなら、あなたはそれらがまた感情を求める欲望の結果であることがわかるでしょう。あなたは教会、寺院、あるいはモスクに行きます。そして特定の文句を繰り返します。特定の儀式に耽ります。それらはすべて刺激です。それらはあなたにある種の感情を与えます。そしてあなたは、それに高級に響く名前を与えて、その感情に満足しますが、それは本質的に感情です。あなたは感情に捕らわれます。あなたは印象、善である気分、特定の祈りの反復などを好みます。しかし、それを深く聡明に調べるなら、基本的にそれらは単に感情であることを見いだします。そして、それらは表現において変化し、あなたに新しさの感じを与えるかもしれませんが、それらは本質的に感情であり、それゆえ、究極的には退屈でうんざりする習慣性のものです。

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 それゆえ、明らかに宗教は儀式ではありません。宗教は教義ではありません。宗教は子供のころから植え込まれた特定の信条や信仰の継続ではありません。あなたが神を信じるか信じないかは、あなたを宗教的な人間にしません。信仰は確かにあなたを宗教的な人間にしません。原子爆弾を落として数分で何百万の人を殺す人は神を信じているかもしれません。そして鈍感な生活を送りそしてまた神を信じる人や神を信じない人、―確かにそれらの人は宗教的ではありません。信仰や不信仰は実在の探究、あるいはその実在を発見することや経験すること、それが宗教です、とは何の関係もありません。宗教であるのは実在を経験することです。そしてそれは組織された信仰を通して、何かの教会を通して、東洋や西洋の何かの知識を通してあるのではありません。宗教は測かることができないものを、言葉にすることができないものを直接に経験する能力です。しかしそれは、私たちが生から、私たちがそんなにも鈍く、そんなにも空虚に、そんなにも日課の事柄にしてしまった生から逃避している限り、経験されることはありません。生は、それは関係ですが、日課の事柄になってしまいました。なぜなら内部に創造的な強烈さがないからです。なぜなら内部で私たちは貧困であるからです。それゆえ外部で私たちはその空虚を信仰で、娯楽で、知識で、様々な形の興奮で満たそうとします。

 その空虚、その内部の貧困は逃避を止めるときのみ終わることができます。そしてもはや感情を求めていないとき、私たちは逃避を止めます。そのとき私たちはその空虚に直面することができます。その空虚は私たちと異なりません。私たちはその空虚です。昨日討論していたように、思考は思考者と異なりません。空虚はその空虚を感じる観察者と異なりません。観察者と観察されるものは共通の現象です。そしてそれを直接経験するとき、そのときあなたは、空虚として非常に怖がっていたもの―それは宗教を含むさまざまな形の感情の中への逃避をあなたに求めさせます―が止み、そしてあなたはそれに直面し、そしてそれであることができるのを見いだすでしょう。なぜなら私たちは逃避の意義を、どうして逃避が生じたかを理解していないからです。私たちそれらを検査し、それらを十分に調べていないので、これらの逃避が存在するものよりはるかに重要で、はるかに意味があるようになったのです。逃避は私たちを条件付けているのです。そして逃避しているので、私たちは私たち自身の中で創造的でないのです。私たちが実在を絶えず、しかし連続してではなく、経験しているとき、私たちの中に創造があります―なぜなら継続と瞬時瞬時経験することの間には違いがあるからです。継続するものは衰退します。瞬時瞬時経験されているものは死が、衰退がありません。何かを瞬時瞬時経験することができるなら、それは生命力を、生命を持っています。いつも生に新たに出会うことができるなら、そのとき、そのことの中に創造があります。しかし継続するように望む経験を持つことは―そのことの中に衰退があります。

 非常にたくさんの人たちが何かの種類の楽しい経験を持っています。そしてその経験が継続することを望みます。そこで彼らはそれに戻り、それをよみがえらせます。それを楽しみにします。そのために彼らは孤独なのです。それが継続しないので惨めなのです。それゆえ、起こっている絶え間ない衰退する過程があります。ところが、瞬時瞬時経験していることがあるなら、再生があります。創造的なのはその再生です。そしてあなたの心が逃避で占められ、当たり前のことと思っていたそれらの物事に捕らえられるなら、その再生を、その創造的な熱情を持つことはできません。それが私たちが集めたすべての価値を再吟味しなければならない理由です。そして私たちの生の主要な価値の一つは宗教です。それはとても組織されています。私たちは様々な組織化された宗教、集団、宗派、協会のどれかに属します。なぜならそれは私たちにいくらかの安全の感覚を与えるからです。最大の組織や、最小の組織や、最も排他的な組織に同一化することは私たちに満足を与えます。私たちを条件付ける、私たち自身の退屈から、私たち自身の空虚から、創造的な責任と創造的な喜びが私たち自身に欠如していることから逃避することを手伝う、これらの影響のすべてを私たちが再検査できるときのみ、私たちがそれらを検査してしまって戻り、それらを脇にやって、いまあるものに直面するときのみ―そのときのみ、確かに、私たちは本当に何が真実であるかという問題全体に入っていくことができるのです。なぜなら、それをする中に、自己認識の可能性があるからです。全過程が自己認識です。そして正しく考え、感じ、行動する可能性があるのは、この過程の認識があるときのみです。思考の過程から自由であるために、正しい思考を練習することはできません。自由であるためには、自分自身を知らなければなりません。自己認識は知恵の始まりです。そして自己認識なしに知恵はあり得ません。知識、感情はあり得ます。しかし感情は退屈ででうんざりするのに対して、永遠である知恵は決して衰退することがありません。決して終わることがありません。

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 質問: 努力によって、私は集中できることを見いだしました。私は招かずに生じる思考を抑圧したり、脇にやることができます。抑圧が私の幸福に対する障害であるということはありません。もちろん私は夢を見ます。しかし私は夢を解釈し、葛藤を解決することができます。友達が私が独善的になっていると私に言います。あなたは彼が正しいことがありうると思いますか?(笑い)

 クリシュナムルティ: さて、まず努力とはどういうことか、そして集中とはどういうことか理解しましょう。努力を通して私たちは何かを理解するでしょうか?―意志の発揮、意志の行為である努力、それは欲望です。理解しようという意志の行為によって、すなわち意図的に努力することによって、私たちは理解するでしょうか? それとも理解することはまったく異なるもので、それは努力を通してではなく、受動的な油断のない気配りを通じて生じるのでしょうか?―それは意志の行為ではありません。いつあなたは理解しますか? 今までにそれを検討したことがありますか? いつあなたは理解しますか? 何かと、理解したいある対象と戦っているときではありません。確かにあなたが絶えず探り、疑い、ばらばらに引き裂き、分析しているとき理解はありません―その中に理解はありません。心が受動的に気づき、油断なく気を配っているとき、すなわち、そのものにじかに接触している、あるいは経験しているときのみ、確かに、それを理解する可能性があるのです。どうか、ある人々には、私が言っていることは法外なこと、あるいは新しいことかもしれません。しかしそれを験してください、それを直ちに拒否しないでください。

 私たちがお互いに戦っているとき、お互いに争っているとき、理解があるでしょうか? 理解する可能性があるのは、あなたと私が静かに腰掛けて議論し、見いだそうとしているときだけです。それゆえ、努力は明らかに理解に有害です。すなわち、あなたは問題を持っているかもしれません。あなたはそれを調べ、それのことで悩み、それをばらばらに引き裂き、それを違った側面から見るかもしれません。その過程の中に理解はありません。それの理解があるのは、心が問題をそのままにし、棚上げするときだけ、心が問題との関係の中で静かになるときだけです。しかし葛藤、分析が理解の中で必要な段階であるかどうかはまったく違う問題です。私たちは今それに入らないようにしましょう。

 次に集中の問題があります。集中とはどういうことでしょうか? 心を特定の対象に、他の興味を除外するために固定すること、ではないでしょうか? それが集中という言葉で私たちが意味することです。心を観念、イメージ、関心に固定し、他の関心をすべて除外すること―それは抑圧の一つの形です。そして質問者はそれは彼に何の害もしない、夢を見るけれども、容易に解釈しそれを除くことができると言います。

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 さて、そのような集中は何をするでしょうか? 排除は何をするでしょうか? 排除の結果は何でしょうか? 明らかに、葛藤、ではないでしょうか? 私は一つのことに集中し、他を排除する能力を持っているかもしれません。しかし他のものは入ることを望んで、なおそこにあります。したがって進行する葛藤があります―私がそれを意識するか、しないかは要点ではありません。そしてその葛藤が継続する限り、確かに理解はありません。私は集中できるかもしれません。しかし、私の注意をひきつけるものと、私が排除しているものとの間の葛藤が私の中にある限り―私の中に葛藤がある限り、それは悪い影響をもつに違いありません。なぜなら、どんな種類の抑圧も心理的に引き裂き、私を肉体的に病気にするか精神的に不均衡にするからです。抑圧されたものは何時かは出てくるに違いありません。そしてひとつの道は夢を通してです。質問者は夢を解釈し、それによって除くことができると言います。見たところ、彼はこれで満足に感じているようです。そして彼が独善的であるかどうか知りたいと思っています。結果に満足している限り、明らかにあなたは独善的であるに違いありません。私たちの大抵は不満であることを嫌います。そして私たちの大抵がそうであるように、内的に不満であるので、私たちはその不満、その燃えるものを覆い隠す方法を見つけます。そして逃避の一つは、この不満を覆い隠す最上のやり方の一つは、集中を覚えることです。その結果、あなたは首尾よくあなたの不満を隠すことができます。そのとき、あなたは心を興味に固定して追いかけ、そしてついに不満を征服した、はけ口を与えたと感じることができます。しかし、確かに不満は心によってはけ口を与えられることがありません。なぜなら心はその性質そのものにより不満であるからです。それが単なる集中が、それは排除ですが、不満からの自由をもたらさない理由です―不満からの自由はそれを理解することです。集中は、それは排除の過程ですが、理解をもたらしません。しかし、私が昨日説明していたように、あなたが一つ一つの関心をそれぞれの関心が起こるたびに追うなら、それを調べ、検討し、理解するなら―そのとき、排除でない、違う種類の注意に到達する可能性があります。私たちはこれをまもなく、別の質問の中で討論しましょう。

 質問: いったいどうして私たちが新たに出発することができるでしょうか?、あなたが絶えず示唆するように、私たちの経験の杯が永久に汚されているなら。どうして私たちは実際に私たちがそれであるものを忘れることができるでしょうか? どうか自己忘却という言葉で意味されていることを説明してください。どうやって私は杯を投げ捨てることができるでしょうか?、それは私です。

 クリシュナムルティ: 再生は継続がない場合にのみ可能です。継続するものは再生の可能性を持ちません。終わるものは再生の可能性を持ちます。死ぬものは再誕生する可能性を持ちます。そしてあなたが永久に汚されていると言うとき、それはしかし言葉上の主張ですが、そのとき、確かに、あなたは単に継続しているに過ぎません。あなたが永久に汚されていると言うとき、それは事実でしょうか? そして、どうやって私たちのあるがままを忘れることができるでしょうか? しかし私たちは私たちのあるがままを検査することができます。私たちは何の正当化や同一化もなしに、私たちのあるがままに気づいていることができます。それに気づいていなさい。すると変容が生じるのが見えるでしょう。しかし困難は、非難なしに受動的に気づいていることです。そのときのみ終わりがあるのです。しかし単に同一化し、非難するに過ぎないなら、そのときその特定の性格に継続性を与えます。そして継続するものは現実性を持ちません。再生を持ちません。

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 『どうか自己忘却という言葉で意味されていることを説明してください』。知りませんか? 幸福で、平和で、非常に静かである、それらの瞬間を知りませんか? その中に何の努力も含まれていない、その中に私自身というような思考過程の中断のある状態が生じませんか? 「私」というような自意識がある限り、「私」の活動の忘却はあり得ません。意志の、欲望のどんな活動も、明らかに自己を養成して強化するに違いありません。そして自己は記憶、性格、特異性の束であり、それは葛藤をつくり出します。葛藤がある限り、自意識があるに違いありません。そして葛藤があるなら、いかに深く隠されていようが、その葛藤がどんなレベルにあろうが、決して平和はあり得ません。

 『どうやって私は杯を投げ捨てることができるでしょうか?、それは私です』なぜあなたは杯を投げ捨てたいのでしょうか? 確かにあなたはそれを投げ捨てることができません。あなたがすることのできるすべては、それを知ることです―自分自身の複雑さ、微妙さ、途方もない深さのすべてを。何かを知るとき、あなたはそれから自由です。しかし単にそれを拒否すること、それを抑圧すること、それを昇華すること、それを違った言語表現に翻訳することは、確かに理解することではありません。そして何かを理解することの中にだけ、それからの自由があるのです。何かを理解することは、それとの同一化が継続してあるなら、できません。それゆえ継続がないときのみ再生があります。しかし私たちの意図、目的、思考の大抵は継続することです。名前において、財産において、徳において、あらゆるものにおいて、私たちは永続性を、それゆえ継続を確立しようと苦闘しています。そしてその中に再生はありません。創造はありません。確かに、創造は瞬時瞬時にのみ生じます。

 質問: 真の瞑想とは何か、どうか入念に説明していただけますか? 非常に多くの瞑想の方式があります。それらは実際に基本的に多様なのでしょうか、あるいは多様性は、それらの提案者の個人的な特質によるのでしょうか?

 クリシュナムルティ: これは本当に重要な質問です。そして私が示唆してよろしければ、それを一緒に調べましょう。なぜなら、瞑想は大変な意義を持っているからです。それは真の自己認識への扉であるかもしれません。そしてそれは実在への扉を開くかもしれません。そして扉を開き直接に経験することの中に、生を理解する可能性があります。生は関係なのです。瞑想、正しい種類の瞑想は不可欠です。それゆえ、何が正しい種類の瞑想であるか見いだしましょう。そして何が正しいか見いだすためには、それに否定的に接近しなければなりません。単にこれやあれが正しい瞑想であると言うことは、あなたに単に採用し実践するパターンを与えるだけでしょう。そしてそれは正しい瞑想ではないでしょう。それゆえ、私がそれを話しているとき、どうか私にしっかりとついてきて、私たちが一緒に進むときそれを経験してください。なぜなら、様々な形の瞑想があるからです。私はあなた方の誰かがそれらを練習したか、あるいはふけったかどうかわかりません―あなた一人で鍵をかけた部屋に行き、暗い隅に座る、などなど。それゆえ瞑想と呼ばれることの全過程を検討しましょう。

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 まず最初に、鍛練が含まれている瞑想を取り上げましょう。どんな形の鍛練もただ自己を強めるだけです。そして、自己は闘争、葛藤の源です。すなわち、非常に多くの人がするように、私たちが何かであるために私たち自身を鍛練するなら―「今月は親切であろう、親切を実践しよう、等」―そのような鍛練、そのような実践は、きっと「私」を強めます。あなたは外側では親切かもしれません。しかし、確かに、親切を実践し、彼が親切であることを意識する人は親切ではありません。それゆえその実践は、人はそれも瞑想と呼びますが、明らかに正しい種類のものではありません。なぜなら、昨日議論したように、何かを実践するなら、そのことに心は捕らわれ、それゆえ自由はないからです。しかし、私たちの大抵は結果を望みます―すなわち、私たちは月の終わりに、あるいはある期間の終わりに、親切であることを期待します。なぜなら教師たちが、究極的に、神を発見するために親切でなければならないと言ったからです。私たちの欲望は安全と幸福の究極の源泉として神を発見することであるので、私たちは親切を通して神を買います―それは明らかに「私に」と「私の」の強化、自己閉鎖の過程です。そして閉鎖するどんなものも、束縛しているどんな行為も、決して自由を与えることはできません。確かにそれは明白です。それが明白でないなら、多分別の折に討論することができるでしょう。

 次に、集中のこの全過程があり、それも瞑想と呼ばれます。足を組んで、なぜならそれがインドからの流行であるからですが、あるいは椅子に、暗い部屋に、絵や像の前に座ります。そして言葉に、語句に、あるいは精神的なイメージに心を集中しようとし、他の思考をすべて排除します。私はきっと多くの皆さんがこれをしたと思います。しかし他の思考は流入し続け、あなたはそれらを押し出します。そして苦闘を続け、ついに一つの思考に集中し他のあらゆるものを排除することができます。そのときあなたは満足を感じます。ついにあなたは心を、あなたが絶対必要であると思う一点に固定することを学んだのです。再び、排除を通して、あなたは何を見出しましたか? 排除、抑圧、否定を通じて、心は静かであることができますか? なぜなら、私が言ったように、理解がありうるのは心が本当に静かで、抑圧されず、一つの観念に集中させられて心が排他的になることがないときだけであるからです―観念が大師のものであろうが、何かの徳やあなたの望む何かに属するものであろうが。集中を通して心は決して静かではあり得ません。表面的には、意識のより高いレベルで、あなたは静寂を強要し、身体を完全にじっとさせ、心を非常に静かにさせるかもしれません。しかしそれは、確かに、あなたの全存在の静けさではありません。それゆえ、再びそれは瞑想ではありません。それは単に強制に過ぎません。エンジンが全速力で走ろうとするとき、あなたはそれを引き止めます、ブレーキをかけます。ところがあなたがあらゆる興味、心に入ってくるあらゆる思考を検査し、それを十分に完全に調べ、あらゆる思考を考え抜くことができるなら―そのとき心は何もさまよわないでしょう。なぜなら、心はおのおのの思考の価値を見つけ、したがってもはや惹きつけられないからです。それは気の逸れることがないことを意味します。気の逸れる余地がある、そして気が逸れることに抵抗する心は瞑想ができません。なぜなら、気が逸れることは何でしょうか? 私はあなたが、この事柄の真実を見出すために、私が言っていることを実験している、私が話しているように経験していると思います。解放するのは私の言葉やあなたの意見ではなく、真実です。

 私たちは関心を持つべきであると思う事から離れる運動を何でも気が逸れると称します。それであなたは特定の関心、いわゆる高尚な関心を選び、そして心をそれに固定します。しかしそれから離れる運動は何でも気の逸れることであり、それであなたは気の逸れることに抵抗します。しかしなぜあなたはその一つの特定の関心を選ぶのでしょうか? 明らかにそれが満足が行くから、それが安全の感覚、充足の感覚、他性の感覚を与えるからです。そこであなたは言います。「私はそれに心を固定しなければならない」。そしてそれから離れる運動は何でも気が逸れることです。あなたは人生を、この気の逸れることに対する戦いに費やし、そして心を他の何かに固定します。ところが、あなたがあらゆる気の逸れを調べ、単に心を特定の魅力に固定するのでなければ、そのときあなたは心がもはや気を逸らされる余地がないことを見るでしょう。なぜなら、それは魅力と同様に気の逸れを理解してしまい、それゆえ心は、排除なしに、並外れた広範囲の気づきが可能であるからです。

 それゆえ、集中は瞑想ではありません。そして鍛錬は瞑想ではありません。

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 次に、祈りが、この祈ることと受け取ることの全問題があります。それもまた瞑想と呼ばれます。祈ることで私たちは何を意味するでしょうか? 総体の形は嘆願です。そして祈りの様々なレベルで微妙な形があります。総体の形は私たち皆が知っています。私は悩んでいる。私は肉体的、心理的に悲惨の中にいる。そして私は何かの援助を願う。それゆえ私は乞う。嘆願する。そして、明らかに、答えがあります。もしも答えがないなら、人々は祈らないでしょう。何百万の人が祈ります。あなたは悩んでいるときだけ祈ります。幸福なときでなく、あの途方もない他性の感覚があるときでなく。

 さて、あなたが祈るとき何が起こりますか? あなたは決まり文句を持っているのではないでしょうか? 決まり文句の反復によって、表面の心は静かになるのではないでしょうか? やってみてください。すると見えるでしょう。ある句や語を繰り返すことによって、徐々にあなたの存在が静かになるのが見えるでしょう。すなわち、あなたの表面的な意識は静かです。それから、その状態の中で、あなたは他の何かのほのめかしを受け取ることができるのではないでしょうか? それゆえ、反復する言葉により、いわゆる祈りにより心を静めることを通じて、潜在意識からのみでなく、あなたの周りの何かから暗示とほのめかしを受け取ることがあります。しかし、確かにそれは瞑想ではありません。なぜなら、あなたが受け取るものは満足のゆくものであるに違いなく、さもなければあなたはそれを拒絶するでしょうから。それゆえ、あなたが祈り、それによって心を静めるとき、あなたの要望は特定の問題、あるいは混乱、あるいは苦痛を与える何かを解決することです。したがって、あなたは満足のゆく答えを求めているのです。そしてこれを見るとき、あなたは「私は満足を求めてはならない、私は苦痛であるものに対し開いていよう」と言います。心はそれ自身にトリックをもてあそぶことができるので、人は祈りのこの問題の全内容に気づかなければなりません。人はトリックを、心を静めて、楽しかろうが楽しくなかろうが特定の答えを受け取ることができる方法を覚えました。しかしそれは瞑想ではないのではないでしょうか?

 次に、誰かへの献身、あなたの愛を神に、イメージに、ある聖者に、ある大師に注ぐこの問題があります。それは瞑想でしょうか? なぜあなたはあなたの愛を神に、とても知ることができないものに注ぐのでしょうか? なぜ私たちは未知のものにそのように惹きつけられ、私たちの生を、私たちの存在をそれに与えるのでしょうか? この献身の全問題は、私たち自身の生の中で惨めであるので、他の人間と活気のある関係を持っていないので、私たちが私たち自身を何かに、未知のものに投影し、未知のものを崇拝しようとする事のしるしではないでしょうか? ほら、誰かに、ある神に、あるイメージに、ある大師に献身する人は、一般的に無慈悲で執拗です。彼らは他の人に寛容でありません。彼らは他の人を破滅させることをいといません。なぜなら、彼らはそのイメージ、その大師、その経験にすっかり同一化したからです。それゆえ、再び、自己創出の、あるいは他人によって創り出された対象への献身の流出は、確かに瞑想ではありません。

 それゆえ、瞑想とは何でしょうか? これらのものがどれも瞑想でないなら―鍛錬、集中、祈り、献身―、そのとき瞑想とは何でしょうか? それらは私たちの知っている形であり、それに私たちは精通しています。しかし、私たちが精通していないものを見いだすためには、私たちはまず、精通しているそれらのものから自由でなければならないのではないでしょうか? それらが本物でないなら、そのときそれらは脇にやらなければなりません。そのときのみ、何が正しい瞑想であるか見いだすことができるのです。私たちが虚偽の価値に慣れてきたなら、それらの虚偽の価値は、新しい価値を見いだすためには、止まなければならないのではないでしょうか?―私がそう言うからではなくて、あなた自身でそれを考え抜く、感じ抜くゆえに。そしてそれらが去ったとき、あなたは何を残しましたか? これらのものの検査の残りかすは何ですか? それらはあなた自身の思考の過程をあらわにしないでしょうか? あなたがこれらのものに耽っていたなら、そしてそれらが虚偽であることを見るなら、あなたはなぜそれらに耽っていたかを見いだします。それゆえ、このすべての検査そのものがあなた自身の思考のやり方をあらわにします。それゆえ、これらのものの検査が自己認識の始まりではないでしょうか?

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 それゆえ、瞑想は自己認識の始まりです。自己認識なしには、あなたは隅に座り、大師に瞑想し、徳を発達させるかもしれませんが―それらはすべて錯覚であり、何が正しい瞑想か発見しようと本当に思っている人にとってはそれらは意味がありません。なぜなら、自己認識なしには、あなたはあなた自身で大師と呼ぶイメージを投影し、それはあなたの献身の対象となリ、それのために進んで犠牲にし、築き、破壊するからです。したがって、私が説明したように、自己認識の可能性があるのは、これらのものとの私たちの関係を検査するときのみであり、それは私たち自身の思考の過程をあらわにします。したがって、私たちの全存在の中に明晰さがあります。そしてこれが理解の、自己認識の始まりです。自己認識なしに瞑想はあり得ません。そして瞑想なしに、自己認識はあり得ません。あなた自身を隅に閉じ込め、絵の前に座り、毎月徳を開発し―どの月も違う徳、緑、紫、白、その他すべて―、教会に行き、儀式を行う。それらのことのどれも瞑想、あるいは真の精神的生活ではありません。精神的生活は関係の理解の中に生じます。それが自己認識の始まりです。

 さて、あなたがそれを通り抜け、すべてのそれらの過程、それは自己とその活動をあらわにするだけです、を捨てたとき、そのとき心が表面的に静かであるだけではなくて、内部でも静かであることができる可能性があります。というのは、そのときすべての要求の停止があるからです。感情の追求はありません。なる感覚、将来、あるいは明日に何かになる私自身はありません。大師、入門者、生徒、仏陀、ほら、成功のはしごを上る、何かになる―そういったすべては停止しました。なぜなら、そういったすべてはなる過程を意味するからです。あるがままのものの理解があるときのみ、なることの停止があります。そしてあるがままのものの理解は自己認識を通じて生じます。それは自分が何であるかを正確にあらわにします。そしてすべての欲望の停止があるとき、それは自己認識を通してのみ生じることができますが、心は静かです。

 欲望の停止は強制を通しては、祈りを通しては、献身を通しては、集中を通しては生じることができません。これらすべては対立するものの中の欲望の葛藤を単に強調するに過ぎません。しかしこれらすべての停止があるとき、そのとき心は実際に静かです―表面的に、より上のレベルだけでなく、内部で深く。そのときのみ、それが不可測のものを受け取ることができるのです。このすべてを理解することが瞑想です。ただその一部だけではなく。なぜなら、どうやって瞑想するか知らないなら、私たちはどうやって行為するか知らないでしょう。行為は、結局、関係の中での、自己認識です。そして単に神聖な部屋に香を焚いて、他の人たちの瞑想とその意義について本を読んで閉じこもることはまったく無益であり、意味がありません。それはすばらしい逃避です。しかしこの人間の活動のすべて、それは私たち自身ですが、に気づいていることは―達成しようという欲望、征服しようという欲望、特定の徳を持とうという欲望、すべて今、あるいは将来において有力な人としてのミーを強調しますが、このミーのなること―、そのすべてに、その全体に気づいていることは、自己認識の始まりであり瞑想の始まりです。そのとき、あなたが本当に気づいているなら、すばらしい変容が生じることを見るでしょう。それは言葉の上での表現ではありません。それは言語化、単なる反復、感情ではありません。しかし現実に、本当に、活力にあふれて、名づけられない、命名できないものが起こります。そしてそれは少数のものの才能ではありません、それは大師の授けものではありません。自己認識はあらゆる人に可能です。あなたが進んで験し、やってみるなら。何かの協会へ参加したり、本を読んだり、大師の足元にいる必要はありません。というのは自己認識が、すべてのそういったばかげたこと、人間の作り事の愚かしさからあなたを解放するからです。そしてそのときのみ、自己認識と正しい瞑想を通して、自由があります。その自由の中に実在が生じます。しかし精神的な過程を通して実在を持つことはできません。それはあなたに生じるに違いありません。そしてそれは欲望からの自由があるとき、あなたに生じることができるだけです。

 

 1949年7月31日

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