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108クリシュナムルティ・懐疑の炎.jpg

103 ルネ・フエレ 著 1989

瞑想社

 

1961年 ザーネンの公開講話(第8回)

Saanen 8th Public Talk 10th August 1961

 

 

 

 私たちはきのう瞑想のやり方とどうやって、自由があるならですが、心がそれ自身を非常に深く調べることが出来るかを話していました。そして今朝は、よろしければ、幾つかの事をよく考えてみたいと思います。第一に恐怖、それから時間と死。それらは相関しており、そしてその一つを理解することなしにはとても他のものを理解することはできないと私は思います。恐怖の全体の過程を理解することなしには、時間が何であるか理解することはできないでしょう。そして時間を理解する過程の中で、私たちはこの並外れた死の問題に入って行くことができるでしょう。死は非常に不思議な事実であるに違いありません。生がその豊富さ、その豊かさ、その多様さ、充満を伴なっているように、死もそうであるに違いありません。確かに、死はそれと共に新しさ、新鮮さ、無垢をもたらすに違いありません。しかしその巨大な問題を理解するためには、心は明らかに恐怖から自由でなければなりません。

 私たちの一人一人が多くの問題を、外側の問題だけでなく内側の問題を持っています。そして内側の問題は外側のより重いのです。私たちが内部の問題を理解し、それらを深く調べるなら、そのとき外部の問題はかなり単純かつ明確になります。しかし外側の問題は内側の問題と違うのではありません。それは引いてはまた満ちる海の潮のように、同じ運動なのです。そして私たちが単に外側の運動を追い、そこに留まるだけであるなら、その潮の内側の運動を理解することはできないでしょう。そして外側の運動の理解からただ逃げ出す、断念するだけであるなら、内側の運動を理解することもないでしょう。それは同じ運動であり、それを私たちは外部と内部と言います。

 私たちの多くは外側の潮の流れ、外側に進む運動を見るように訓練されています。そしてその方向の中で問題はますます増加します。それらの問題を理解することなしに、内側の運動、内側を見ることはできません。

 あいにく、私たちは社会的、経済的、宗教的、などなどの外部の問題と、また、どうすればいいのか、どう振る舞えばいいのか、生の種々の挑戦にどう応答すればいいのかという内部の問題の両方を持っています。私たちが触れるものは何でも、外側でも内側でも、より多くの問題、より多くの惨めさ、より多くの混乱をつくり出すように思われます。そのことは、見守り、観察し、生きている私たちの大部分にとってかなり明確であると私は思います。私たちの手で、心で、ハートで触れるものが、何でも問題を増やすということ、より大きな惨めさ、より大きな混乱があるということが。そして恐怖を理解するとき、私たちの問題のすべてが理解できると私は思います。

 私は「理解する」という言葉を知的に、あるいは言葉の上で使っているのではなくて、私たちが知覚するとき、視覚的にだけでなくて内的に事実を見るときに生じる理解のその状態を話しているのです。事実を見ることは、正当化や非難がなく、単に観察すること、解釈なしにものを見ることだけがある状態を意味します。というのはすべての解釈は歪めるからです。理解は正当化や非難、解釈がないとき即時です。

 私たちの大抵にとってこれは困難です。なぜなら、私たちは理解は時間の事柄、比較の事柄、より多くの情報、より多くの知識を収集する事柄であると思っているからです。しかし理解はこれのどれも必要としません。それはただ一つのことを必要とします。それは直接の知覚、解釈や比較なしに直接見ることです。それゆえ恐怖を理解することなしには、私たちの問題は常に増加するのです。

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 さて、恐怖とは何でしょう? 誰もが彼自身の一連の恐怖を持っています。暗闇を恐れる、世論を恐れる、死を恐れる、人生で成功しないことを、挫折を、成就できないことを、能力を持たないことを、自分を劣っていると思うことを恐れるかも知れません。心のどの曲がり角にも恐怖があります。思考のどのささやきも、意識的あるいは無意識的に、恐怖と言われる怖れられるものを育てます。

 そこで恐怖とは何でしょうか? そしてどうかその質問をあなた自身にしてください。それは分離した、単独で、関連のないものでしょうか、それとも常に何かと関連しているでしょうか? 私の言っていることを理解してくださると思います。なぜなら私たちは精神分析にふけっているのではないからです。私たちはすっかり恐怖を心から取り除くことができるかどうか見出そうとしているのです-少しづつではなくて全面的に、完全に。そしてそれを見出すために、私たちは恐怖とは何なのか、それはどうやって生じるかを調べなければなりません。それを見出すために思考を、意識的な考えることだけでなく無意識を、自分自身の存在の深い層を調べなければなりません。無意識を調べることは確かに分析の過程ではありません。なぜなら、あなたが分析するとき、あるいは他の人が分析するとき、常に観察者、分析している分析者があり、したがって分離、非類似性、それゆえ葛藤があります。

 私はどんなふうに恐怖が生じるか見出したいのです。私たちが私たち自身の恐怖に気づいているかどうか、そしてどんなふうに気づいているか私は知りません。私たちは単に言葉に気づいているに過ぎないのでしょうか、それとも恐怖を引き起こすものと直接に接触しているのでしょうか? 恐怖を引き起こすものは断片的なものでしょうか? それとも、恐怖の様々に変る表現を持つ全体的なものでしょうか? 私は死を恐れるかもしれません。あなたは隣人、世論を恐れるかもしれません。他の人は妻、夫によって支配されることを恐れるかもしれません。しかし原因は一つであるに違いありません。確かに、いくつかのタイプの恐怖を生むいくつかの原因があるのではありません。そして恐怖の原因の発見は心を恐怖から解放するでしょうか? 私が世論を恐れるのを知ること、そういうこととしておきましょう、そのことが心から恐怖を除くでしょうか? 恐怖の原因の発見は恐怖からの解放ではありません。

 どうかこのことを少々理解してください。今朝、広い領域にわたらなければならないので詳細に調べる時間がありません。

 原因、つまり恐怖を引き起こす無数の原因を知ること、そのことは心から恐怖を出してしまうでしょうか? それとも何か他の要素が必要でしょうか?

 恐怖が何であるか調べるとき、外側の反応に気づいているだけでなく、無意識にも気づいていなければなりません。私は「無意識」というその言葉を、哲学的や心理学的、精神分析的にではなく、非常に単純な仕方で使っています。無意識は隠れた動機、微妙な思考、秘密の欲望、強迫、衝動、要求です。さて、どうやって無意識を調べますか、あるいは観察しますか? 意識を、好きと嫌い、苦痛と快楽という意識の反応を通して観察することはかなり簡単です。しかしどうやって無意識を他の人の助けなしに調べますか? なぜなら、他の人の助けを得るなら、その他人は先入観を持ち、限定されているため、彼は解釈することを誤まるかもしれないからです。それゆえ、隠れた心と言われるこの巨大なものを、どうやって解釈なしに調べればいいでしょうか。どうやってそれを、少しづつではなく、全体的に見、吸収し、理解すればいいでしょうか? なぜならそれを断片的に調べるなら、それぞれの調査がその跡を残し、その跡を伴なって次の断片を調べ、それによって歪みを助長するからです。したがって分析を通じては明確さはありません。私が話していることをあなたが理解しているかなと思います。

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 恐怖の原因を発見することが心を恐怖から解放しないこと、そして分析がそれからの解放をもたらさないことをどちらも、確かに、見ることができます。全体の理解、無意識の全体を完全にあらわにすることがあるに違いありません。そしてどうやってそれに取り掛かりますか? 問題が見えますか?

 無意識は、確かに、意識的な心を通して見ることはできません。意識的な心は最近のものです。環境に適応するために条件づけられてきたという意味で最近のものです。それは生きるために、生活の糧を得るために、特定の技術を獲得するよう教育を通して新たに形成されてきました。それは教化された記憶を持っており、したがって、本質的に腐敗し 愚かな社会の中で浅薄な生を送ることができます。意識的な心は適応することができ、その機能はそうすることです。そして環境に適応することができないとき、そのとき神経症、矛盾した状態、などなどがあります。しかし教育された、最近の心は、古い、歳月の残滓に属する、あらゆる人種的経験に属する無意識をとうてい調べることができません。無意識は起こった物事についての無限の知識の貯蔵庫です。そこで、どうやって意識的な心はそれを見ればいいでしょうか? それはできません。なぜならそれは最近の知識、最近の出来事、経験、教え、野心、調整によって、そんなにも条件付けられ、そんなにも限定されているからです。そのような意識的な心はとうてい無意識を見ることはできません。そしてそれは理解するのがかなり簡単だと思います。どうか、これは同意や不同意の事柄ではありません。私たちが「あなたはまったく正しい」とか「あなたはまったく間違っている」というその事をやりだすなら、そのときそれは意味がありません。私たちは迷ってしまいます。これの意義が即座に見えるなら、そのとき同意や不同意はありません。なぜなら調べているからです。

 さて、人が無意識を調べ、すべての残滓を運び出し、無意識をすっかりきれいにし、その結果、葛藤を引き起こすすべての矛盾を作り出さないようにしなければならないなら、何が必要でしょうか? 教育された心はそれを見る能力がないこと、分析者もそうであることを知るとき(その調査は断片的です)、どんなふうに無意識を調べることに着手すればいいでしょうか? このような膨大な秘宝、経験の貯蔵庫、人種的風土的影響、伝統、絶え間ない印象を持つこの途方もない心を、どうやって見ればいいでしょうか? どうやってそれをすべて運び出せばいいでしょうか? それを断片的に運び出しますか? それとも全体的に運び出すべきでしょうか? 問題がわからないなら、そのときさらに進んだ探求は意味がありません。私が言っていることは、無意識が断片的に検査されるのなら、そのときそれに終わりはないということです。なぜなら、あなたが断片的に検査して解釈するという事実そのものが、隠れた心の層を強化するからです。それは全体の絵として検査されなければなりません。確かに、愛は断片的ではありません。それは神聖なものと神聖でないものに分割されたり、上品さのさまざまの範疇に入れられるべきではありません。愛は全体的なものであり、愛を解剖する心は、決して愛が何であるか知ることができません。愛を感じ、理解するためには、それに断片的でない接近がなければなりません。

 

 そこで、そのこと-全体は断片化を通しては理解できないこと-がほんとうに明確であるなら、そのとき変化が起こったのではないでしょうか? あなたが私の要点に出会っているかどうかわかりません。

 さて、無意識の心は否定的に接近されなければなりません。なぜならそれが何であるか、あなたは知らないからです。私たちは他の人たちがそれについて言ったことを知っています。そして時折、暗示、ほのめかしを通してそれを知ります。しかしそれの屈折のすべて、無意識の途方もない性質、根源のすべてを知りません。したがって、知らないものを理解するために、ひとは答えを求めていない心で、否定的にそれに接近しなければなりません。

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 私たちは先日肯定的な思考と否定的な思考を話しました。私は否定的な思考は思考の最高の形であると言いました。そしてすべての思考は、肯定的にせよ否定的にせよ、限定されていると言いました。肯定的な思考は決して自由でありません。しかし否定的な思考は自由でありえます。したがって、知らない無意識を見ている否定的な心は、それと直接の関係にあります。

 どうか、これは奇妙な何か、新しい流行、新しい思考の仕方なのではありません。それはすべて未熟で子供じみています。しかし自分自身で恐怖を見出し、断片的にではなく完全に、すっかり免れようと望むなら、そのとき、ひとは自分の心の深い所を調べなければなりません。そしてその調査は肯定的な過程ではありません。表面的な心が掘り返すために創案したり、作ったりできる道具はありません。表面的な心がなし得ることのすべては、静かにしていること、その知識、能力、才能のすべてを自発的に、気楽に脇に置き、その技能のすべてに頼らずにいることです。それがそうするとき、それは否定的な状態にあります。そうするためには、思考を理解しなければなりません。

 思考は、思考の全体は-ただの一つや二つの思考ではなく-恐怖を引き起こさないでしょうか? もしも明日が、あるいは次の瞬間がないなら、恐怖があるでしょうか? 思考に対して死ぬことが恐怖の終わりです。そして意識のすべては思考です。

 私たちは、次に、時間と言われるものに至ります。時間とは何でしょうか? 時間というものはあるのでしょうか? 時計に基づいて時間があります。そして私たちはまた内的な、心理的時間もあると思います。しかし、年代順の時間は別にして、時間はあるのでしょうか? 時間をつくりだすのは思考です。なぜなら思考それ自体が時間の、多くの昨日の産物であるからです-「私はそうであった。私は今こうである。そしてあれであるだろう」。月に行くには時間を要します。ロケットを組み立てるには何日も、何ヶ月もかかります。そしてどうやってロケットを組み立てるかの知識を得るにも時間を要します。しかしそのすべては機械的な時間、時計による時間です。距離が月に行くことに含まれています。そして距離もまた時間の領域の内に、何時間、何日、何ヶ月の領域の内にあります。しかしその時間は別にして、いったい時間はあるでしょうか? 確かに思考が時間をつくり出しました。思考があります-私は聡明にならなければならない、どうやって競争するか見出さなければならない、努力し、成功しなければならない。私はどうやって尊敬されるようになればいいのだろうか、私の野心、怒り、残忍性を抑えればいいのだろうか? そしてこの絶え間ない考える過程が、それは機械的な脳の一部ですが、まさに時間を生むのです。しかし思考が止むなら、時間があるでしょうか? これがわかりますか? 思考が止むなら、恐怖はあるでしょうか? 私が世論を恐れているとしましょう-人々が私をどう言うか、私をどう思うか。それについてのその考えることが恐怖を生みます。もしも思考がないなら、私は公衆の意見を少しも意に介さないでしょうし、したがって恐怖はないでしょうに。それで、私は思考が恐怖を生むということ、思考は時間の結果であるということを見出し始めます。そして思考は、それは多くの昨日の結果であり、現在のすべての経験によって修正されていますが、未来をつくり出します-それはなお思考です。

 それで意識の全内容は思考の過程です。したがってそれは時間の領域内に限られています。このすべてにあなたがついてきていると私は思います。

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 さて、心は時間から自由であることができるでしょうか? 私は年代的時間から自由であることを話していません-それは正気ではないでしょう、精神的に錯乱しているでしょう。私は達成としての、成功としての、明日何かであることとしての、なることやならないこととしての、成就と挫折としての、何かをなし遂げることや他の何かを獲得することとしての時間を話しています。それは問題が次のことだということです。思考は-それは意識の全体、あらわなものとあらわでないものですが-完全に死ぬことが、あるのをやめることができるでしょうか? それがそうするとき、あなたは意識の全体を理解したのです。

 それゆえ、思考に対して-快楽を知る思考に対して、苦しむ思考に対して、徳を知った、関係を知った、現われて、常に時間の領域内で、種々のやり方でそれ自身を表現した思考に対して-死ぬことは、確かに、全体的な死です。私は機械的・有機的な死、身体の死ぬことを話しているのではありません。医者たちは、身体の有機的な存在が百五十年か二百年続くことを可能にする何かの薬品を発明するかもしれません-何のためか誰も知りません! しかしそれはまったく見当違いです。有意義なことはその中に恐怖のない、死ぬことです。

 そこで、心はそれが知ったことごとくのものに対して、それは過去のものですが、死ぬことができるでしょうか?-それが死です。それが私たちが皆恐れるものです。死。突然止むこと。その中に何の議論もありません。死を議論することはできません。それは終わりです。そして止むことは思考に対して、それゆえ時間に対して死ぬということです。

 いったい、あなたがこれを実験したがあるかどうか知りません。苦しみに対して死ぬことはかなり容易です。どの人もそうすることを望みます。しかし、快楽、大事にしてきた物事、刺激を与える、幸福の感じを与える記憶に対し死ぬこと、時間の領域内にあるすべてのものに対し死ぬことはできないでしょうか? それを調べたなら、それをやったなら、そのときあなたは、死が衰退の死とまったく異なる意味を持つことがわかるでしょう。

 私たちはそれのすべてに対して死にませんね。その代わり、瞬時瞬時私たちは衰退し、堕落し、退廃し、腐朽しているのです。死ぬことは思考の連続性を持たないことを意味します。あなたは「それはすることが非常に難しい。それで人がそれをしたなら、その価値は何なのですか?」と言うかもしれません。それは難しくありません。しかし、それを調べるには巨大なエネルギーを要します。それは若く、新鮮な、恐れない、したがって時間を脱している心を要します。そしてそれはどんな価値を持っているのでしょう? たぶん何の実益的な価値も持っていないでしょう。思考に対して、したがって時間に対して死ぬということは創造を発見するということです-毎瞬、破壊し あらゆるものを新たに創り出している創造。そのことの中に退廃、腐朽はありません。腐朽するのは思考のみです-「私」と「私でないもの」としての中心をつくり出す思考-、それが唯一の 衰退を知っているものです。

 それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。

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 それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。

 それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。

 質問: このことについて質問していいでしょうか?

 クリシュナムルティ: いくらかの人は質問の用意がちゃんとできているように思われるので、話し手の言うことを聞いていたのかなと私は思います。あなたは聞いていたのでしょうか、それとも質問を明確に表わすことに忙しかったのでしょうか。おわかりですか? あなたは既に質問を形作っており、それゆえ聞いていなかったのです。すみませんが、私はぶしつけなのではありません。本当ですよ。私はただそれを指摘しているのです。この話しをよく聞いたのなら、その人の質問は答えられるでしょう。

 質問: 恐怖の探究を通じて、精神障害の危険はないでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちが今、それで生きている精神より、もっと大きな精神障害の危険があるでしょうか? 私に指摘することを許してくださるなら、私たちは皆少々精神的に乱れていないでしょうか? 私はぶしつけなのではありません。あなたを判断することが私の意図や考えではありません。しかし増大する精神的病の危険に対するこの途方もない懸念があります。何が私たちを病むようにさせているのか知っていますか? 恐怖の探究ではありません。戦争、共産主義、宗教的固執、野心、競争、俗物根性-これらのことは精神的に病んでいるひとのしるしです。確かに、恐怖を探究して、心からすっかり恐怖を取り除くことは最高の正気です。皆さん、質問は私たちが、現在の社会は素晴らしいものであると思っていることを示してはいないでしょうか? おそらく私たちの中の十分な銀行預金を持ち裕福な人は、物事はすべてよろしいと感じており、かき乱されることを望まないでしょう。しかし生は非常にかき乱すもの、非常に破壊的なものです。そしてそれが私たちが恐れているものです。私たちは生きることに、恐怖から自由であることに関心がないのです。けれど安全で快適な片隅を見つけ、一人で腐敗するままにしておかれることを望んでいるのです。皆さん、これは大袈裟な言葉ではありません。それは私たちの内部の秘められた欲求です。私たちはあらゆる関係の中にこの安全を求めます。関係の中に何という嫉妬と羨望があることでしょう! 妻が夫を見捨てるときや夫が他の人と駆け落ちするときの何という憎しみ! いかに私たちが社会の賛同と教会の祝福を求めることか! 確かに、正気の堕落・破壊をもたらすものは、これら多くの物事すべてです。

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 質問: これらのことは私たちにとってまったく新しく、私たちはそれらを続けなければならないと思います。

 クリシュナムルティ: あなた、それらを続けることはできません。続けるなら、それは単なる観念にすぎなくなり、観念は新しい何ものも創り出しません。私は心が内面に築いた物事の全面的破壊を話してきました。破壊を続けることはできません。続けるなら、それは単に建設、破壊しなければならないものを再び作り上げることに過ぎないのです。
 私たちは新しい心、新鮮な心、新しいハート、無垢な、若い、断固とした心を必要とします。そしてそのような心を持つためには破壊がなければなりません。いつも新しい創造がなければなりません。

 1961年 8月10日

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