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記録、数千年の運動
J. Krishnamurti: Exploration into Insight -
'Registration,the Movement of Millennia' Madras 13th December 1976
洞察の中への探究 - 「記録、数千年の運動」
P: クリシュナジ、あなたは怒り、恐怖、あるいは何かの強い感情の性質を、意識の中に、言葉なしに保つことについて話しています。そのことを探ることができるでしょうか? それが傷、恐怖、怒り、人の中にある暗黒のどの一つであろうが拭い去ることは、あなたが話していることが起こるときのみ可能です。私たちはその気持の激情、それは恐怖、怒りなど、これら全ての言葉の背後に進展するのですが、それに到達することが出来るでしょうか? それが意識の中に保持されることが出来るでしょうか?
K: どんなもので「ある」にしても、怒りの感情を言葉なしに保つとはどういうことでしょうか? これは可能でしょうか?
P: そして言葉なしで何かがあるでしょうか?
K: 進んでください。
FW: 「恐怖」という言葉がないとき、恐怖があるでしょうか? そして、命名がないなら、身体または全存在の中のエネルギーの性質はどんなでしょうか?
A: 私たちにとって明瞭さは命名を意味します。強い感情、妨害に探りを入れたいとき、私たちは、それが何であるか正確に知ることを望みます。何の自己欺瞞も望みません。常に、それを完全に理解できてしまう前に、私たちはそれに命名してしまいます。それで、命名は私たちの明瞭さの道具であるのみならず、混乱の原因でもあります。
K: 言葉は事実と、「あるがままのもの」と違うでしょうか? 「ドア」という言葉はドアと違うでしょうか? 「ドア」という言葉は現存ではありません。それゆえ、言葉はものではありません。
S: 質問が生じます。では、一体 現存を指し示すことが出来るでしょうか?
K: 私たちは見出そうとしています。それをゆっくりと調べようとしています。
R: 「『ドア』という言葉はドアではない」と「『恐怖』は恐怖ではない」の間に違いがあるでしょうか? 二つのことは違うように思われます。
K: 「ドア」という言葉は現存ではありません。「K」という名前は現存ではありません。表現形式は現存ではありません。それゆえ、言葉はものではありません。「ドア」、言葉、は現存とは違います。私たちは「恐怖」という言葉が現存と違っているかどうか見出そうとしています。現存が言葉を表示するのでしょうか、そして、言葉なしに現存はあるのでしょうか?
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S: 言葉がなければ恐怖の感情は何なのでしょうか?
K: ごくゆくっり行きましょう。私はこの事を自分自身に完全に明確にしたいのです。「恐怖」という言葉があります。さて、「恐怖」という言葉は現存、強い感情、恐怖の感情と違うでしょうか、また、言葉なしにその感情があるでしょうか?
R: 言葉は思考です。
K: それゆえ、言葉は媒体であり、それを通じて思考はそれ自身を表現します。言葉なしに、思考はそれ自体を表現できるでしょうか? もちろん出来ます。身振り、表情、うなずきなどなど。言葉がなければ、思考はごく限られた範囲しかそれ自身を表現できません。あなたが非常に込み入った何かを思考の中に表現したいとき、言葉が必要です。しかし言葉は現実の思考、現実の状態ではないのです。
A: 一つの困難を挙げます。私たちは感覚で知覚します。その過程は命名があるとき終わります。それは第三の過程を出発させます。命名と共に、多くの複雑なものが私の頭の中に始まります。さて、私はこれを見、言葉、名前を消します。名前を消したとき、私は感情を消していません。
K: 私はよくわかりません、アシュユットジ。ププルジは尋ねています。言葉なしにその感情を、どんな動きもなしに、保持できる心の性質はどんなでしょうか? いいでしょうか?
R: しかし私たちは感情が言葉なしに起きるかどうかを尋ねていますが?
K: それがすべてです。
P: そう言ってよければ、意識の中に言葉に先立って起こる沢山のものがあるのです。
Rad: 原初の恐怖。しかしそれは言葉なしに持続され得るでしょうか?
P: 私は持続することについて話していません。しかし種々のもの、例えば優しさ、喜びがあります。
K: あなたは何かを言葉なしに観察できますか? 私を、姿を、言葉なしに しばらくの間観察できますか?
P: はい。
K: あなたは出来ます。さて、あなたはすでに姿を観察しています。あなたは「K」という言葉を除いており、姿を観察しています。
P: 私たちは観察しています。私たちは姿を観察しているとは私は言いません。
K: では、あなたは何を観察しているのですか?
P: ほら、あなた、「私は姿を観察している」と言うとき、命名がなければならないでしょう。
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K: 名前がなければならない。
P: 命名がなければなりません。
K: いいえ。
P: どうか聞いてください、あなた。私がただ観察することだけがあると言うとき、そのとき、姿は観察している領域全体の一部です。私は観察しています。あなただけでありません。私は観察しています。
K: 私は「K」という言葉を除き、姿を観察すると言いました。それだけのことです。もちろんあなたは観察しています。私はそれを姿だけに限定しています。あなたは姿を観察していますか?
P: はい。私は姿を観察しています。
K: 何を発見しようとしているのでしょうか?
P: 私は言葉がそれに先立っているかどうか見ようとしています。
K: ププル、単純さを保ちましょう。恐怖があります。私は、言葉がその恐怖を作り出したのかどうか見出したいのです。言葉は私が恐怖と呼んでいるその事の認識です。なぜなら、その恐怖は何年も続いているからです。そして私はそれを言葉を通じて認識したのです。十年前私は恐れました。その恐怖は私の頭の中に言葉と共に記録されています。言葉に恐怖が関係づけられているのです。それは今日再び起こり、直ちに認識する過程が始まります。それは言葉、などなどです。それゆえ、言葉は私が以前に持った感情を私に与えます。言葉は感情を助長し、感情を固定させています。
R: はい、それを持続させます。
K: それはそれを保ちます。言葉はそれを認識することによって、それを思い出すことなどによってその事を保ちます。さて、私は言葉なしに恐怖があり得るかどうか尋ねています。言葉は認識の過程です。フリッツ、それを見てください。あなたは恐れています。どうやってあなたは恐れていることを知るのでしょう?
FW: それに命名することによって。
K: では、どうやってそれを知るのでしょうか?
FW: 私は前に恐れたことがあります。それで私はその感情を知っています。それゆえ、それが再び生じるとき、私はそれを認識します。
K: それを認識するなら、それは言葉の過程です。それを認識しないなら、その状態はどんなでしょうか?
FW: 恐怖はありません。身体の中にエネルギーがあります。
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K: いいえ、あなた。「エネルギー」という言葉を使わないでください。ほかの事に入ってしまうでしょうから。恐怖があります。それに命名することによって私はそれを認識します。それに命名することの中で、私はそれを範疇の中に入れてしまい、脳はそれを記憶し、記録し、保持します。認識が、言葉上の動きがないなら、恐怖があるでしょうか?
P: 動揺があります。
K: 私は「恐怖」という言葉を使っています。恐怖に固定してください。
P: そう言ってよければ、恐怖は、それに命名することがなければ恐怖はないとあなたが言えるほど簡単なものではないのでは...
K: 私はまだ、それを言っていません。もちろん、その中に含まれる多くの複雑なものがあります。
P: それはすさまじいものです。
S: 心理的に、命名が起きる以前でさえ何かが起きます。
P: まったく深い恐怖があります。
S: 言葉が恐怖をつくりだすというこの立場だけを受け入れるなら、それは恐怖の内容はまったくないという事です。
K: 私はそれを言っていません。認識の過程があります。もしもその認識の過程が存在していないなら、そのことがともかく可能なら、そのとき恐怖とは何でしょうか? 私はそれが存在していないとは言っていません。私は質問をしているのです。記載、記録の過程、それは作動している記憶ですが、それがないなら、恐怖と呼ばれるものは何でしょうか?
P: 「恐怖」という言葉を除いてください。そして何が残るか見てください。私が使うどんな言葉も「恐怖」という言葉と同じようにまさに当てはまるでしょう。
K: 私はそれにまったく違う風に取り組んでいます。あなたが私を侮辱します。なぜなら私がイメージを持つからです。即時の記録が起こります。私は尋ねています- あなたが私を侮辱するときその記録が終り、それゆえ 記録という動作がまったくないという事がありうるでしょうか?
S: 私はこれはわかりません。それはまったく違う過程です。
K: それはまさに同じ事です。恐怖が起こります。なぜなら私が過去のことを恐れるからです。過去は記録されており、その過去の出来事は恐怖の感覚を目覚めさせます。その恐怖は記録されているのです。新しい感情を、それが何であろうと、過去を作用させることなしに観察することが出来るでしょうか? おわかりですか?
Rad: 実際にそれを恐怖と呼ぶ前に認識の感情があります。
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K: いいえ、見てください。静かに進みましょう。あなたが私を侮辱します。私があなたを侮辱します。何が起こるでしょうか? あなたはそれを記録するのではないでしょうか?
Rad: それを最初に認識したとき、私はそれを記録します。そのことそれ自体がはずみを作り出します。
K: したがって、そのはずみを止めましょう。そのはずみは止められるでしょうか? 見てください、ラディカ、もっと単純にそれを述べましょう。あなたは傷つきます。傷つきません? あなたは子供のときから種々の理由で傷つき、それは心に、脳に深く記録されてきました。本能的な反応はそれ以上傷つけられないことです。それゆえ、あなたは壁を立てます、引っ込みます。さて、壁を立てることなしに、あなたは傷つけられているのを知ることが出来るでしょうか? それに気づき、次に傷つくという過程が始まるとき、それを記録しないことが出来るでしょうか?
FW: 記録するとはどういうことでしょうか?
K: 私たちの脳はテープレコーダーです。それはいつも記録しています。好きと嫌い、快楽と苦痛があります。それは動き続けています。私が何か醜いことをあなたに言い、脳は直ちに管理を引き受け、それを記録します。さて、私は言います、「それは記録されてしまったけれども、その記録を停止することが出来るでしょうか? そして次のとき何か侮辱があるなら、それをまったく記録しないでください」。私が何を話しているかわかりますか? まず、質問を見てください。質問は明確でしょうか?
FW: それはそのイメージを何もすぐに形成しないということです。
K: いえ、いえ。今しばらくイメージを導入しないでください。それはなおもっと複雑になります。あなたは言葉を認識し、しかしそれを記録しないことができるでしょうか? 私はそれをごくごく単純に保ちたいのです。まず、これを見てください。脳はいつも記録しています。あなたは私を馬鹿と言います。それは種々の理由で記録されます。それは事実です。次の質問はこうです。その記録は停止することができるでしょうか? そうでなければ心は、脳は、自由の感覚を持ちません。
P: 脳は生きているものです。それは記録しなければなりません。記録がひとつのことです。しかし、はずみを断つことは記録から離れる運動です。
K: それが私の話していることです。
S: あなたは二つのことを話していないでしょうか? 一つははずみを止めることで、もう一つはまったく記録を止めることです。
K: 最初に、私が話していることをわかってください。そのとき、質問できます。そのとき、それを明確にすることが出来ます。
P: あなたが記録しないでくださいと言うとき、それは脳細胞が止まることを意味しているのでしょうか?
K: 見てください、ププルジ、そのことは非常に重要です。なぜなら、記録を停止する可能性がないなら そのとき脳は機械的になるからです。
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A: 私はこのことを質問したいのです。なぜならあなたは事柄を単純にし過ぎているからです。実際には、何かを受け取る私たちの状態は好みと嫌悪のどちらがあるのかを知らないでいますし、恐怖がその循環の中にあります。それは過去のものから起き、私が知覚するものに直接に関係していません。しかしそれが知覚するものなのです。
K: 脳がいつも記録している限り、それは知識から知識に動いています。さて、私は言葉に挑戦しています。私は知識が限定され、断片化されている等々であるのを見ます。そして私は私自身に記録が停止できるかどうかを尋ねています。
GM: 脳がその質問に答えることが出来るでしょうか?
K: 私は出来ると思います。脳がそれ自身の記録する過程に気づくことができるという意味で。
P: その様にして処理できる特定の恐怖があります。しかし恐怖は数千年にわたる人間の叫びであったのです。そしてあなたはその叫びなのです。
K: 知っています。やめてください。その数千年の叫びは恐怖です。脳は数千年にわたって記録してきました。したがって、記録することはその一部になってしまっています。脳は機械的になってしまっています。私は言います-その機械的過程は停止することができるでしょうか? それがすべてです。それが止められないなら機械に過ぎなくなります。それが今あるものです。このことはすべて伝統の一部、繰り返しの一部、数千年を通じての絶え間ない記録の一部なのです。私はそれに対して大きな深みを持つ単純な質問をしています。それはこうです-それは止まることが出来るでしょうか? それが止まることが出来ないなら、人は決して自由ではありません。
Par: 質問していいでしょうか? そもそも何故、私たちは記録するのでしょうか?
K: 無事、安全、保護、確実性のために。記録は、安全の特定の感覚を脳に与えます。
P: 脳それ自身が関係していないでしょうか? それは記録を通じて進化してきました。
K: 脳は知識を通じて進化してきました。知識は記録です。
P: 「止まれ」と言う、それ自身の内部からのものは何でしょうか?
K: 誰かが私に挑戦しているのです。
P: あなたに「止まれ」と言わさせる要素は何でしょうか?
K: 誰かがやってきて言います。見なさい。数千年を通じ、知識を通して人間は進化してきて、現在はあなたは確かに大きな類人猿とは違っていると。そして彼は言います。見なさい。記録している限り、あなたは断片的な生を生きています。なぜなら知識が断片的であるからです。そしてその断片的な脳の状態からすることは何でも不完全です。したがって、苦痛・苦悩があると。それゆえ、その説明の終わりに私たちは尋ねています。その記録は、その過去のものの運動は終わることが出来るでしょうか? 聞いてください。私はそれを単純にしています。数千年のこの運動は止まることが出来るでしょうか?
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P: 私はあなたにこの質問を尋ねています。聞くことの性質そのものの中に何かがあるのでしょうか?
K: ええ、あります。そのとおりです。
P: そしてその聞くことがこの記録を終わらせます、静まらせます。
K: そのとおりです。それが私の要点です。あなたは、たまたま私の生の中に入ってきました。私の生の中に入ってきて、私の脳は知識を通して、記録を通して、経験を通して進化してきたことを私に指摘しました。そしてその知識、その経験は根本的に限定されています。そして、その限定された状態から起こるどんな行動も断片的であり、したがって葛藤、苦痛があるでしょう。ものすごい量、深さを持つそのはずみが、終わることが出来るかどうかを見出しましょう。ご存知ですね。それはものすごいエネルギーの流れです。それは知識です。その知識を止めよ。それがすべてです。
FW: 質問をしていいでしょうか? ただ記録し続けているテープレコーダーに多くの言及がなされました。それは自分自身を止める事が出来ません。それは止められなければなりません。それにしても、脳はそれ自身を止めることが出来るでしょうか?
K: 私たちは見出そうとしています。まず、質問に直面してください。それが私の要点です。まず、質問をよく聞きましょう。
S: 私の意識の全体はただ記録だけでしょうか? 私の意識の全体の中には、ただ進行する記録だけがあるのでしょうか?
K: もちろん。
S: では、その記録するのを観察できるのは何でしょうか?
K: この記録するのを観察できるのは、あるいは記録するのを防ぐことが出来るのは何でしょうか? 私はまた静寂も知っています―二つの騒音の間にある静寂...
S: 私が経験する静寂もまた記録されるのでしょうか?
K: 明らかに。
S: 「記録する」という言葉を、静寂に対して使うことは出来ません。
K: 進行するこの記録過程がある限り、それは機械的です。非機械論的な静寂があるでしょうか? 考えられたり、誘導されたり、もたらされたり、案出されたりしてきたのでない静寂。そうでなければ、静寂は単に機械論的であるにすぎません。
S: しかし、時には人は非機械論的な静寂を知ります。
K: 時にはではなく。
Raj: あなた、非機械論的な静寂が生じることは可能でしょうか?
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K: いや、いや。私はそのことに関心があるのではありません。私はまったく違うことを尋ねているのです。このはずみ、この条件付け、意識の全体は過去のものです。それは動いています。未来の意識はありません。意識全体が、経験、知識、恐怖、快楽として記録され、記憶され、蓄積された過去のものです。それが過去のもののはずみの全体です。そして誰かがやってきて言います。私が言わなければならないことを聞きなさい。そのはずみを止めることが出来るだろうか? さもなければこのはずみは、その断片的な活動と共に、果てしなく続くでしょうと。
Raj: この運動は、それにしがみつかないときのみ、止められると思います。
K: いいえ、はずみはあなたです。あなたははずみと別ではありません。あなたは、あなたがこの広大なはずみ、伝統の、人種的偏見、集合的動因、いわゆる個人主張のこの流れであることを認識していません。それを止めることがないなら、未来はありません。それゆえ、この流れが続くなら、未来はありません。あなたはそれを未来と呼ぶかもしれませんが、それは修正された同じものにすぎません。未来はありません。あなたがこれを見ているかなと思います。
P: ある行為が起き、暗黒が私の中に発生します。質問が生じます。 それ自身の内容を伴なう意識は、 それは暗黒ですが――
K: 終わり。それを保持してください。
P: 正確にはどういう意味でしょうか?
K: あなたは保持することができるでしょうか、脳はこのはずみを保持することことができるでしょうか、それとも、それがはずみであるということは観念なのでしょうか? 私の意味していることがわかりますか? それを注意深く聞いてください。はずみは現実でしょうか、それともそれは観念でしょうか? それが観念であるなら、その時、あなたははずみについての観念を保持することが出来ます。しかし、それが観念、結論でないなら、そのとき、脳は直接はずみと接触します。おわかりかどうかなと思います。それゆえ、「よろしい、私は見守ろう」と言うことができます。それは見守っています。それに動くのを許していません。さて、それはあなたがしがみついている言葉なのでしょうか、それとも、あなたはこの広大な運動を観察しているのでしょうか? 見てください、あなたは広大な運動なのです。あなたはその広大な運動である、とあなたが言うとき、それは観念なのでしょうか?
Raj: いいえ。
K: したがって、あなたはそれです。そのものが終わることが出来るかどうか、見出してください―やって来る、現在 挑戦 質問に出会い、そしてそこで終わる過去のもの。さもなければ、苦しみに終わりはありません。何千年という長い間、人間は苦しみに耐えてきました。そのはずみは延々と続いています。私は十の説明をすることが出来ます-生まれ変わり、カルマ-しかし私はなお苦しみます。この苦しみは人間の広大なはずみです。そのはずみは制御することなしに終わることが出来るでしょうか? 制御する者は制御されるものです。そのはずみは止まることが出来るでしょうか? それが止まらないなら、そのとき自由はありません。そのとき行為は常に不完全です。そのことの全体を見ることが、それを実際に見ることができますか?
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P: いったい私たちはそれを見ることが出来るでしょうか? 現在の中に感情を見るとき、私たちが見ているものは何でしょうか?
K: 私があなたを馬鹿と言います。あなたはそれを記録しなければなりませんか?
P: なぜ記録すべきか私はまったく答えられません。
K: 記録しないでください。
P: それは、私のこの目と耳が言葉の方に流れ出ているかどうかの問題です。それらが静かであり聞いているなら、記録はありません。聞くことがありますが記録はありません。
K: それゆえ、あなたは何を見ていますか?
P: この運動を見るということがないのです。この討論が進んできた間私は観察してきました。そして事実を記録するということはどういう事か?と言います。私は聞いています。あなたは聞いています。明らかに、私の聞くことが言葉の方に、それは私から出て来ているのですが、向けられているなら、私は記録します。そしてこの外へ向かう運動そのものがそれへ立ち戻らせます。しかし目と耳が、静かにですが、見ており聞いているなら、そのとき何の記録もなしに吸収します。
K: それゆえ、聞くことの中に静かさがあるとあなたは言っています。記録はありません。しかし、私たちの多くは静かでないのです。
P: 私たちはあなたのあの質問に答えられません。なぜ人は記録しなければならないのでしょうか?
K: いいえ。私はまったく違う質問を尋ねています。誰かがあなたを馬鹿と言います。まったくそれを記録しないでください。
P: それは、記録することができるとか記録することができないとかという過程ではありません。あなたの述べ方から見れば、あなたは二つの選択肢を示唆しています。それは記録するか、記録しないかです。
K: いいえ。あなたはいつも記録しています。
P: いつも記録はあります。私の感覚が外へ向かって動いている限り、記録があります。
K: いいえ、「限り」と言うとき、それはあなたが今、(~して)いないということです。
P: いいえ、私は説明しているのです。
K: 私はこの過去の広大な流れが終わりになることが出来るかどうか見出したいのです。それが私の質問の全てです。
P: あなたは何も受け入れないでしょう。それに関する何の最終的言明も受け入れないでしょう。したがって、終わるやり方があるにちがいありません。
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K: 私は尋ねています。どうやってそれは終わることが出来るでしょうか?
P: それで、私たちはそのことから脳細胞に―実際の記録に移らなければなりません。
K: そう、脳細胞は記録しています。そんなにも重く条件づけられたそれら脳細胞は、そのはずみが唯一の安全であると理解しているのです。それで、そのはずみの中に、脳は並外れた安全を見出しているのです。いいでしょうか?
P: どうか私の言うことを聞いてください。ただ一つの運動があります。それは現在に接触して動き続ける、過去のものの運動です。
K: 現在に出会い、動き続け、修正している過去のもの―私たちはそのことを調べてきました。脳はそれに条件づけられています。その流れが存在する限り、完全に安全であると脳は見ます。さて、巨大な安全と安寧を脳細胞が見出している過去のはずみがもっとも危険な運動であるという事を、どんなふうにそれらの細胞に示せばいいのでしょうか? 今や、このはずみの危険をその脳に指摘することが、その問題の全てです。現実の危険を見るや否や、脳はそれを終らせるでしょう。この運動の危険が見えますか? 理論的な危険ではなくて、現実の物理的危険が?
P: この動きが危険であると、あなたの脳細胞が言っているのですか?
K: 私の脳はあなたに危険を知らせるために言葉を使っていますが、脳の中に危険を持っていません。脳は危険を見てしまい、それを捨てました。あなたはコブラの危険を見ますか? 危険を見るとき、あなたはそれを避けます。何千年の間、蛇の危険に対して条件づけられてきたので、あなたはそれを避けます。それゆえ、あなたの応答は条件付けにしたがっており、それは即座の行為です。
脳は、それの中に完全な安全があるので続けて行くように条件づけられて来ました。現在のものに出会い、それから学び、修正し、先に進むことの中に。脳にとって、それは、脳の知っている唯一の安全な動きであり、そこでそれはそこに残ろうとしているのです。しかし、それがもっとも危険なものであるのを脳が理解するや否や、安全を望むのでそれをやめます。
Raj: 私ははずみの危険を、あなたがそれを見るほど実際に見ません。
K: なぜ、あなた?
Raj: 一部は、広大なはずみをその危険を見るために観察したことが、今まで一度もないからです。
K: あなたははずみの描写と生きているのでしょうか、それとも、あなたであるはずみそれ自体と生きているのでしょうか? 私の質問がおわかりですか、あなた? はずみはあなたと違うでしょうか?
Raj: いいえ、あなた。
K: それゆえ、あなたははずみですね? それゆえ、あなたはあなた自身を見守っていますね?
Raj: はい。しかしこの事は、しばしばは起こりません。
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K: しばしば? 「しばしば」と「絶え間なく」という言葉はすごい言葉です。あなたは、あなたがはずみであるという事に、時々でなく、どんな選択もなしに気づいていますか? 私は崖っぷちを時たま見るだけだ、とあなたは言うことが出来ます。言葉がものでないなら、そのとき言葉は恐怖ではありません。さて、言葉が恐怖をつくりだしたのでしょうか?
R: いいえ。
K: 急いでそれに答えないでください。見出してください。ゆっくり行きましょう、ラーダジ。言葉はものではありません。それは非常に明確です。恐怖は言葉ではありません。しかし、言葉が恐怖をつくりだしているのでしょうか? 言葉なしに、「恐怖」と呼ばれるそのものが存在するのでしょうか? 言葉は記録の過程です。次に、まったく新しことが起こります。その新しいものを、脳はそれが新しいことなので拒みます。そこで、脳は直ちにそれは恐怖だと言います。脳がそのはずみをとどめるように、待ってください、見守ってください。実際の感情の運動を妨げることなしに、思考の運動との間に隙間を与えてください。言葉はものではない、言葉は恐怖ではないという問題にあなたが非常に深く入っていくときのみ、隙間は起こることができます。直ちに、あなたははずみを止めています。あなたがこのことを見るかなと思います。
P: 私は、なお事を明確にしたいと思います。感情の性質を言葉なしに保つことが出来るでしょうか、それが憎しみ、怒り、恐怖のどれであろうと。
K: もちろん、あなたは怒り、恐怖の感情を言葉なしに保つことが出来ます。その感情とただ残ってください。それをしてください。
P: しかし、正確にはどうするのでしょうか?
K: どんな原因からにせよ恐怖が起こるとき、どんなはずみもなしに、どんな思考の運動もなしにそれと残ってください。
P: その時、それは何でしょうか?
K: それはもはや私が恐怖として過去のものと結びつけて考えてきたことではありません。それは、どんな運動もなしに保持されているエネルギーであると私は言いましょう。エネルギーがどんな動きもなしに保持されているとき、爆発があります。それはその時、変容するのです。
Madras 13th December 1976
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