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211 ハワード・マーフェット 著

  1975 田中 恵美子 訳 竜王文庫

 

しゃべる心

J. Krishnamurti: Exploration into Insight -
'The Chattering Mind' Bombay 22nd January 1973
洞察の中への探究 - 「しゃべる心」

 M: 私はしゃべる心という問題を討論したいのです。何が私たちの心をしゃべらせるのでしょうか? 心はどこからエネルギーを得るのでしょうか、そのおしゃべりの目的は何でしょうか? それは絶え間のない動きです。あらゆる瞬間、それはつぶやいています。

 P: それは心の性質そのものではないでしょうか?

 M: そのことはそれを説明しません。何の治療法も与えません。

 P: それは生きるために動かなければなりません。

 M: それは「しなければならない」ではないのです。「しなければならない」はありません。心は何時もしゃべり、そしてその目的にあてられたエネルギーは、私たちの生の大部分を占めています。

 K: 何故心はしゃべるのでしょうか、その目的は何でしょうか?

 M: 目的はありません。私が脳を見張るとき、おしゃべりは脳の中でのみ起こるのが見えます。それは脳の活動です。流れは上がったり下がったりしますが、それは混沌としており、無意味で、目的がありません。脳はそれ自身の活動によって、それ自身をすり減らすのです。脳にとってそれは疲れることですが、それは止まらないということを見ることができます。

 K: これは追求する価値があるでしょうか?

 P: 連続的な思考の過程を、始まりもなく終わりもなしに取り上げるなら、そのとき、何故おしゃべりと思考の過程それ自体の間を区別すべきなのでしょうか?

 M: 私たちの気づきや注意は完全にそれに浪費されています。私たちはまったく意味を持たないものに気づいているのです。それは脳の神経症的な作用であり、私たちの時間、私たちの気づき、注意、私たちの最良の努力が浪費されるのです。

 P: 意味のある思考の活動とおしゃべりがあると言っているのですか?

 K: あなたの心はしゃべります。何故?

 M: それを止めることが出来ないからです。

 K: それは習慣でしょうか? それは何かで占められていないことの恐怖でしょうか?

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 A: それは意志の範囲外の行為です。

 M: それは単純な自動的活動のように見えます。それはただそこにあります。感情はありません。何もありません。

 K: あなたは私の言っていることがわかっていません。心は明らかに何かで占められている必要があります。

 M: 心は何時も占められています。

 K: 心は何かで占められており、占められていないなら、それはうつろだと感じます。むなしいと感じます。したがって、おしゃべりしに頼ります。私はただ尋ねているのですが、それは習慣でしょうか、それともそれは占められていないことについての恐怖でしょうか?

 M: それは習慣です。深く染み込んだ習慣。

 K: それが習慣かどうか疑わしく思います。

 P: 私たちが意味のある思考、指示された思考と呼ぶもの、論理的であり、分析的であり、問題の解決に取り組んでいる思考があります。おしゃべりは意識的なものではありません。気づいていない状態の中に、反射行動を投げ上げ、心が多年にわたって得たがらくたの蓄積と共に出てくる、心の連続的な運動があります。それは投げ出し続け、そして突然あなたは目覚め、自分の心はしゃべっていると言います。私たちはおしゃべりと呼ぶものに対して意味のある活動と呼んでいるものを重要とします。この重要性は妥当でしょうか?

 K: 何故それはしゃべっているのでしょうか?

 P: それはしゃべります。それに「何故」はありません。

 K: 彼は何故それがしゃべるか見出したいのです。それは流れる水のようなものでしょうか? 蛇口からほとばしる水のように。

 M: それは精神的な漏れです。

 P: それは私に、自分の心が活動していないことを示しています。

 K: 何故あなたはしゃべる心に反対するのでしょうか?

 M:エネルギーの損失、時間の損失。常識は、起こっていることは役に立たないと言います。

 P: 私たちは中間の段階に戻っています―私たちは的が外れています。そして、それはしゃべる心だけでなくて、おしゃべりについての気づきもです。それは不適切を示すものです。

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 K: さしあたり注意、気づきをやめましょう。私はただ、何故心はしゃべるのか、あなたに尋ねているのです。それは習慣でしょうか、それとも心は何かで占められることを必要とするのでしょうか? そして、占められるべきだと思うことで心が占められていないとき、私たちはそれをおしゃべりと呼ぶのです。何故また従事している活動がおしゃべりであってはならないのでしょうか? 私は私の家で占められています。あなたはあなたの神で、仕事で、ビジネスで、妻で、セックスで、子供で、財産で占められています。心は何かで占められることを必要とし、したがって、それが占められていないとき、それは空っぽの感じがするかもしれず、したがってしゃべります。私はこの中に何の問題も見ません。私はこの中に大きな問題点を見ません、しゃべるのをあなたが止めたいのでない限り。

 M: もしもおしゃべりが鬱陶しくないならば、問題はないでしょうが。

 K: あなたはそれを止めたい、それをやめさせたい。それゆえ問題は「何故」ではなくて、何のために? です。

 M: しゃべる心をやめさせることが出来るでしょうか?

 K: しゃべる心は終わることが出来るでしょうか? 私はあなたがおしゃべりと呼ぶものを知りません。私は疑問に思っています。あなたがビジネスで占められているとき、それもまたおしゃべりです。私はあなたがおしゃべりと呼ぶものを見出したい。どんな占有も、私自身でも、私の神でも、妻でも、夫でも、子供、金、財産あるいは地位でも、その全てはおしゃべりです。何故その全てを除外し、ほかのものをおしゃべりと言うのでしょうか?

 M: 私はただ、観察したことを話しているだけです。

 P: なぜなら私たちが話しているおしゃべりは合理性を持っていないからです。

 K: それはあなたの日常の活動に関係を持っていません。合理性がありません。それは日常生活にかかわっていません。それはあなたの日常の要求と関連がなく、それでそれはしゃべり、それがあなたのおしゃべりと呼ぶものです。私たちは皆それを知っています。

 P: あなたはそれをしますか?

 K: それは問題ではありません。私について気にしないでください。

 A: あなた、私たちの普通の思考は状況に密着しています。おしゃべりは何の状況にも密着していないあの心の活動です。したがって、私たちはそれを意味がないと言います。なぜなら状況を抜け出ることがあるからです。しかし、心の活動が関連のないとき、そのとき、それは密着していません。

 K: おしゃべりは心にとって休息でしょうか?

 A: いいえ、あなた。

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 K: 待ってください、あなた、そんなに急がないで。聞いてください、アシュユットジ、あなたに尋ねたいのです。あなたは意識的な、合理的な、非合理的な自分の日常の仕事で占められています。そしておしゃべりはその全てからの解放かもしれません。

 B: おしゃべりは目がさめている状態に対する夢と同じ関係があるのでしょうか?

 K: いや、私はそれをその様に述べたくありません。私の筋肉は一日中運動してきて、そして私はくつろぎます。そしておしゃべりはくつろぎの一形態かもしれません。

 A: それはまったく関連がないかもしれません。しかしそれはエネルギーを消費します。

 K: します?

 A: くつろぎはエネルギーを消費するはずがありません。くつろぎはあなたが自分のエネルギーを使い果たして、それで休んでいる後に生じる行動です。

 K: おしゃべりはエネルギーの浪費で、あなたはそれを止めたいと言うのですね。

 A: それはそれを止めることを望むという問題ではありません。問題は、おしゃべりにそのエネルギーを消費している心は値打ちのある何かに向けられるべきだということです。ある種の詠唱をすることが出来ますが、しかしそれもまた機械的なものになり、問題を解決しないでしょう。私たちはこのおしゃべりの過程がどんなふうに進んでいるのか理解することに戻ります。私たちはそれをまったく理解していません。それは意志の範囲外です。

 K: あなたの心は、もしもそれが十分に占められているならば、おしゃべりを止めるでしょうか? ちょっと聞いてください、あなた。空っぽの空間がないなら、空間がないなら、あるいは心全体が空間で満ちているなら、心はしゃべるでしょうか? それはあなたが使う言葉の問題ではありません、― 空間、まったく、すっかり空の、あるいは完全に何の占有もなしの。心はそのときしゃべるでしょうか? それともおしゃべりは、おおわれていない 何かの小さい空間がある時のみ起こるのでしょうか? 私が何を言っているか わかりますか? 部屋が完全に満ちているとき、一体何か動きがあるでしょうか? 心が完全に満ちていて空間がないとき、一体、おしゃべりと呼ぶ何かの動きがあるでしょうか? 私が何かを伝えているかどうかわかりません。

 M: それは仮説的です。

 K: 私たちの心が部分的に満ちており、部分的に占められていて、そして占められていない部分がしゃべっているという意味で。

 M: あなたは占められていない心と同一化しています。

 K: 私はそれを言っていません。私は尋ねています。私は何故心がおしゃべりするか見出したいのです。それは習慣でしょうか?

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 M: それは習慣のように見えます。

 K: 何故習慣は起こったのでしょうか?

 M: 私たちが知っている限りでは原因はありません。

 K: 私は心がしゃべるのを気にしません。しかしあなたはそのおしゃべりに反対します。私はそれがエネルギーの浪費であるのかどうか確かでありません。それは習慣でしょうか? それが習慣なら、そのとき、それはどうやって終わるのでしょうか? それがあなたが関わっている唯一のことです。どうやって習慣は終わるのでしょうか?―何かの習慣、喫煙、飲酒、食べ過ぎ。

 M: あなたがあなた自身の経験から何かを知っているのでない限り、それは子供に話しているようなものです。習慣は普通、強烈にそれを見ることによって終わります。

 K: おしゃべりはあなたがそれを強烈に見るとき止まるでしょうか?

 M: それが不思議なのです、それは止まりません。

 K: 私はそれが止まらないということが確かでありません。私が、喫煙のあらゆる動きに注意を払いながら、強烈に喫煙を観察するなら、それは消え去ります。それで、何故おしゃべりは消え去らないのでしょうか?

 M: それは自動的だからです。喫煙は自動的ではありません。

 K: それは自動的ではないですか? それは自動的になっています。

 M: 始まりに触れないようにしましょう。始まりはありません。私はしゃべることの始まりを少しもたどることができません。それは奇妙に自動的です。それは脳の自動的な震動です。私はただ、震え、つぶやいている脳を見るだけで、何も出来ません。

 P: おしゃべりというこの周辺的な運動を取り扱うほかのすべての方式は、ほかの何かをすることに取り掛かる前に、それは終らなければならないと言います。

 M: それを終らせるために、マントラを繰り返し、心にいくらかの一様性、いくらかの単調さをもたらします。しかし、おしゃべりは単調ではありません。内容は変化します。

 K: それは興味深いです。内容は変化する。

 P: それは完全に支離滅裂です。基本的問題は、思考過程が意識の大部分を満たしている限り、指示された思考とおしゃべりの両方があるだろうということです。私は一方を取り除いてもう一方のを保持することが出来るとは思いません。

 A: これへの別の接近法があるでしょうね。私たちの心は種々のレべルで機能し、おしゃべりはこれらのレベルがすべてごちゃまぜになっているあの運動なのでしょうね。

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 P: 私はそうとは思いません、アシュユットジ。私はレベルがごちゃまぜになっているとは思いません。思考の意識的運動は、思考者が前提を樹立するために思考を利用し、そこから論理的に動くときにあります。不合理なもの、おしゃべりの領域では、合理的な心のわからないとても多くのものごとが起こります。しかし、私は、二つは互いに対をなすものの一方ではないのか、また、一方はもう一方なしに存在できるのかなと思っていたのです。

 B: 私たちは明らかにおしゃべりに反対しますが、しかし指示された占有には反対しません。

 P: それが私の言っていることです。いいですか、後者がある限り、もう一つのものもあるでしょう。

 A: 私はそれを疑います。

 P: それを討論しましょう。私はこれはもう一つのものの反射ではないかなと思います。

 B: 心は指示された占有を知っています。心はまたおしゃべり、非指示的なおしゃべりを知っています。心は空間、あるいは空白を知っているでしょうか?

 P: どこで空間は入ってくるのでしょうか?

 B: なぜなら、クリシュナジが空間を持ち込んだからです。

 P: そのように述べないでください。一方が存在すれば、もう一方も存在するでしょう。そのことが私が調べたいことです。

 A: いいえ、指示された任意の一つの仕事をする中で、人は効率的であることが可能です。それが指示された活動です。指示された活動が可能な誰でもが、何時もおしゃべりという気違いじみた縁取りもまた持たなければならないとあなたは言っています。

 P: 指示された活動は純粋に技術的な働きを意味しません。指示された心理的な活動もまたあります。心理的、情緒的活動が指示される限り、もう一つのものが残ります。

 A: ほら、あなた、指示された活動は中心の投影、あるいは中心を強めるもののどちらかとして理解することが出来ます。それゆえ、指示された活動は源まで跡をたどることが出来ます。その源は中心であるか、中心が源を作り出すかです。

 K: あなたはどうやっておしゃべりを止めますか? それが彼が興味を持っていることです。

 P: 私がアシュユットジとそれを追ってよろしければ、彼は心の領域の中の機能的レベルと心理的レベルの両方で、指示された思考の状態がありうる事が可能だと言います。そしておしゃべりもまたあります。

 A: それは指示された活動です。私はその源を知っています。私はその意図を知っています。

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 P: 指示された活動―私は本当に源を知っているでしょうか?

 A: それはどうやって中心がそれ自身を維持するかです。これが中心です。

 P: 私が調べてその根を見出すことを望むとき、私は根も見出しませんし、源を見出しもしません。

 A: 私はそれをどちらも見出しません。私は、これは自己を維持する活動であり、そこから中心は強められ、育てられると言います。それと無関係でさえあるように思われる運動の通路がここにあります。

 M: それゆえ、あなたは心の流れを、おしゃべりとおしゃべりでないものに分けるのです。

 P: あなたはどうやってそれを知るのでしょうか?

 K: 彼はおしゃべりはエネルギーの浪費であると言います。

 D: なぜあなたはそのことを言うのですか? 彼はどうやって知るのでしょうか?

 K: おお、そうです。それは非常に不合理、非常に非論理的で、いい加減です。それはいたる所でそうです。

 D: 全ての合理的な努力が結局無に帰するということを私たちは知らないのでしょうか?

 K: 待ってください、待ってください。

 M: よかれあしかれ、何故選ぶのでしょうか? 心の三つの運動があります―意図されたもの、意図されないもの、混ったもの。私は意図されたもののことで文句を言っているのではありません。私の文句は意図されないもののことです。私は意図されない運動を追い払えるでしょうか?

 K: それが私たちが関わっていることのすべてです。私の心はしゃべります。それがしゃべるのを止めるために、どんなものにでも私は頼りたいのです。私はそれを止めたいのです。なぜならそれが不合理で、けばけばしいのを見るからです。それはどうやって終わるのでしょうか?

 M: 私が出来るすべてはそれを見ることです。私がそれを見ることが出来る限り、それは止まります。

 K: しかしそれは後で再び起こるでしょう。私はそれをこれを最後に止めたいのです。さて、私はそれをどうすればいいでしょうか? 指示された、意図された運動で占有される代わりに、今私はおしゃべりを止めることで手いっぱいです。私はこれに取り掛かりたいと思います。

 B: 私はお金や百の様々な物事で占有されることに反対しません。それはいいと思います。何故みじめな心はしゃべるのでしょうか? 私はそれを止めたいと思います。

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 A:指示された行動を見ることは、自我の過程、中心を、それがどうやってすべて縛り上げられるのかを私が理解するのに役立ちます。探求は常に、少々の明確さにつながります。

 K: アシュユットジ、私はおしゃべりを止めたいのです。そしてそれはエネルギーの浪費であるのを見ます。私はどうすればいいでしょうか? どうやって私はこれを最後にそれを止めればいいでしょうか?

 P: 指示された行為、指示されない行為のいずれにせよ、あなたが心の過程を見ている限り、あなたは罠に捕らえられると私は感じます。

 K: 何故私はおしゃべりに反対するのでしょうか? あなたは、自分はエネルギーを浪費していると言いますが、多くの異なる指示でエネルギーを浪費しています。あなた、私は心がおしゃべるするのに反対しません。私はとても多くの指示でエネルギーを浪費しているので、少々のエネルギーの浪費を気にしません。何故私はおしゃべりに反対するのでしょうか?

 M: なぜなら、私はエネルギーを浪費するからです。

 K: それゆえ、あなたは、特定の種類の働きで、エネルギーを浪費するのに反対しているのです。私はどんな理由があってもエネルギーの浪費に反対します。

 M: それは疑問の余地のあるところです。何がエネルギーの浪費で、何がそうでないのでしょうか?

 A: 非常に難しい問題を避けていないということを、私は再度確かめたいのですが。

 P: これを見る二つのやり方があります。一つのやり方は、私はどうやって問題を解決できるか? と言うことです。もう一つは、何故指示されたものと指示されていないものを区別するか? と言うことです。

 A: 私はそのことに反対しません。

 K: フライドマン(訳注: M氏)がそのことに反対しています。

 M: どんな場合においても、私の心がおしゃべりの状態にあるときはいつでも苦悩があります。絶望があります。

 K: あなた、一度に一つの事に固執しましょう。あなたはそれはエネルギーの浪費だと言います。私たちはエネルギーをとても多くのやり方で浪費します。

 M: それはもっとも不愉快なやり方です。

 K: あなたは不愉快なエネルギーの浪費を望まないで、むしろ楽しいことを持ちたいのです。

 M: もちろん。

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 K: そこで、あなたは不愉快なエネルギーの浪費に反対しているのです。私はそれに違ったふうに近づきましょう。私は自分の心がおしゃべりしているかいないかに関わりません。重要なのは、指示されない、指示された、意図された、意図されない運動があるかどうかではなくて、心が非常に安定、岩のように安定しているということです。そのとき、問題は存在しません。心はしゃべりません。それにしゃべらせておきましょう。

 P: 私はあなたに質問をしなければなりません。あなたは最初に気づき、それから話すのですか? あなたは心の中での言葉の形成に気づいているのですか?

 K: これは何でしょう? 待ってください。待ってください。前の事にしがみつきましょう。私は問題にまったく違ったふうに近づきたいのです。心が完全に岩のように安定しているなら、そのとき言葉がそれを通り過ぎたり、誰かが水をこぼしたり、鳥がその上に糞をしたりしても、それはそれを無視します。そのことが、私がそれに接近しようとする唯一のやり方です。心が岩のように安定かどうか、そしてそのとき、少しの波、少しの雨、少しの動きが問題であるかどうかを見出してください。しかしあなたは、エネルギーの浪費、非合理な浪費、意図しない浪費を止めようとする観点からそれに接近しています。そして私は、意図されない、あるいは意図された浪費は何時もあなたの周りに起こっていると言います。あなた、私には問題は非常に単純です。心はまったく安定でしょうか?

 

 私は心がしゃべるのを知っています。私はエネルギーの浪費が、意図されて、意図されないで、意識的、無意識的に、そんなにも多くの方向にあるのを知っています。私はそれをほうっておきましょう、それをそんなにひどく気にしないようにしましよう、それを違ったふうに見ましょうと言います。

 P: 一体、あなたの心は思考の中で、心を横切って動く思考と言語の形成の中で作動するのでしょうか?

 K: いいえ。

 P: いったい、あなたの脳細胞はおしゃべりしている心を示す言葉をこぼすのでしょうか?

 M: 彼は次に何を言おうとしているか知らないのですが、何かを言い、それは意味をなすのです。ここに完全に空である人間があるのです。

 P: それであなたの意識は本当に空なのですか?

 K: この事は私たちをはるか遠くには導きません。そのことを捨てましょう。

 B: あなた、あなたは論点に二つの異なる点から近づきます。一つは、あなたは断片化を見よ、何が起きているかを見よと言います。それから、あなたは突然飛躍し、それを離れよと言い、そして容易に動じない心があるか? と尋ねます。

 K: 私は、おしゃべりの問題がほかのやり方で止まるだろうとは思わないのです。

 B: 二つの接近の仕方の関係は何でしょうか?

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 K: 何かあるとは思いません。見てください、心はしゃべっています。私たちは半時間のあいだそれを議論し、種々の観点からそれについて話しました。それを見ることと種々の手段によって問題を解消しようと望み、心はなお断片的に進みます。私はその全てを聞き、これが答えになるとは思われないと言います。絵を完成するとは思えません。そして私は、私たちの心がひどく不安定なので、そうなのを見ます。心は徹底的な安定の深い根を得ておらず、したがってそれはしゃべるのです。それでそうなのかもしれません。「あるがままのもの」の観察から、私は飛び離れませんでした。私はそれを見守ってきました。

 B: あなたは飛び離れていません。私たちは私たち自身の中の各部分を取り扱いました。ところがあなたは全体のものを一緒にまとめました。

 K: それが、もしも私の心がしゃべっているならば、私が作動するであろうやり方なのです。私はそれがエネルギーの浪費であると知ります。私はそれを熟視し、何かの他の要素―私の心が少しも安定していないという事実、がそれに入ります。そこで、私はおしゃべりよりむしろそのことを追跡したいのです。

 P: 私の心がおしゃべりしているなら、私は心が安定していないという事実を追跡するでしょうとあなたが言うとき、あなたはそれにどうやって取り組みますか? 何を追跡しますか?

 K: それが私の関心事であるでしょう。私のおしゃべりではなく。心が安定でない限り、おしゃべりがあるに違いないことを私は見ます。そこで私はおしゃべりについては関わりません。それで、私は完全に安定している心の感覚と性質は何なのかを見出そうとしています。それがすべてです。私はおしゃべりから立ち退きました。

 M: あなたは「いまあるもの」から「いまないもの」に立ち退いてしまいました。

 K: いいえ。私は「ないもの」に立ち退いてはいません。私は自分の心がしゃべるのを知っています。それは事実です。私はそれが不合理で、不随意で、意図されないもので、エネルギーの浪費であることを知ります。私はまた、多くの違ったやり方でエネルギーを浪費しているのを知ります。エネルギーの浪費をすべて集めることは不可能です。水銀をこぼし、そこらじゅうに百もの小さい粒があります。それを集めることもまたエネルギーの浪費です。そこで私は違ったやり方がなければならないのを見ます。心は、安定でないので、しゃべります。今私の探究はこうです。安定の性質と構造は何だろうか?

 M: 安定は私にはそこにないのです。

 K: 私はそれを知りません、私は調べようとしています。それに到ろうとしています。見出そうとしています。あなたは安定は落着きのないことの反対物だと言います。私は安定は落着きのないことの反対物ではないと言います。なぜなら、反対物は常にそれ自身の反対物を含んでいるからです。したがって、それは反対物ではありません。私はおしゃべりで始めました。エネルギーの浪費を見、そしてまた、心がエネルギーを非常に多くのやり方で浪費し、これらの浪費をすべて集めてまとめることは出来ないのを見ます。そこで私はその問題を離れます。私はそれを理解します。それは、心が岩のように安定していない限り、おしゃべりは続くであろう、全ての浪費は様々な方向に続くであろう、という事かもしれません。それは言葉の上の言明ではありません。それは、浪費をどうやって集めるかという探究を捨てる事によって生じた状態の理解です。私はエネルギーの浪費にかかわっていません。

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 M: 心の岩のように安定な状態があるとき、そのとき浪費はないだろうということがわかります。

 K: いえ、いえ。

 B: 私たちにおいては心によって否定的なものが肯定的なものに一変するというこの問題が常にありました。否定的なものはもちろん、それ自身を変化させないとあなたは言うでしょう。しかし、あなたはそれについてどうなさいますか?

 K: 私は知りません。私はそれを悩みません。

 P: しかし、あなたはまた、それがあなたの関心であると言います。

 B: 彼が否定的なものは肯定的なものであると言うとき、否定的な観察は即座に肯定的なものです。否定的なものはこの過程を通り抜けます。

 K: 注意は違う方向に注がれます。浪費をどうやって止めるかの代わりに、それはいまや、安定しているとはどういうことかの理解に向けられています。

 B: しかし、それは観念的な方向ではありません。

 K: ええ、明らかにそうではありません。それは言葉の上の方向ではありません。そのことは本当にとても重要だと思います。安定している心の性質は何でしょうか? それを議論できるでしょうか、安定している心の、言葉上の描写ではなしに?

 P: 安定している心の性質は何でしょうか?

 M: あなたは瞬間的に安定している事について話しているのでしょうか?

 P: 私は瞬間的に安定している心の状態がわかりません。

 K: 彼は「それは一時的か永久的か?」と言ったのです。私は「永久的」という言葉を好みません。

 P: しかし、安定した心の性質は何でしょうか?

 K: あなたはそれを知りませんか?

 M: あなたのおかげで、私たちは皆それを知っています。

 P: 私もそう言うでしょう。しかし、それはなお、おしゃべりも思考の過程もどちらも止めないでしょう。

 K: 彼は海は非常に深いと言いました。それは非常に安定です。わずかばかりの波がきて去ります。そしてあなたは気に掛けません。しかし、もしあなたが気に掛けるなら、そのときあなたはそこに残ります。

 P: そこに残っている自分自身を見出すとき、唯一の事はそこにいるということを見る事だけです。

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 K: そして、あなたはそれを見て、それを捨てます。それについてたくさんのから騒ぎをしないようにしましょう。バラサンダラムが指摘したように、私が見るとき、否定的なものは即時に肯定的なものになります。虚偽は即時に真実になります。見ることが岩です。聞くこと、傾聴することが岩です。

 Bombay 22nd January 1973

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