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204 リードビーター 著

1896​ 竜王文庫

 

注意の中の行為

J. Krishnamurti: Exploration into Insight - 'Action in Attention'
洞察の中への探究 -「注意の中の行為」

 K: 私たちは行為によって何を意味しているのだろうかなと私は思います。

 M: 行為は何時も変化を意味します。

 K: 私は「行なう」、「する」という言葉の意味を見出したいと思います。過去か未来のどちらかにおいての、「してしまった」や「するだろう」ではなく。行為は常に現に活動している現在の中にあります。過去の行為や未来の行為ではなく、今である行為。

 P: 今行為がありうるでしょうか?

 K: わたしは見出したいのです。ププル、連続的である行為、それゆえ常に原因作用のない運動があるかどうか。私は探求しています。ちょっと私と一緒に動いてください。

 P: 行為によってあなたは何を意味しているのでしょうか?

 K: 行為は常に原因、動機、指示を持たなければならないでしょうか?

 P: それは心の問題ではないのでしょうか? 行為は「する」です。それは何かに関係しています。行為という運動は何でしょうか?

 K: 過去、現在、未来。私たちはそれを知っています。行為によって私たちは何を意味しているのでしょうか? すること、物理的なすること、ここからそこへ行くこと、知的、あるいは感情的に問題を解くこと? そのように、行為は私たちには「何かに作用する」、「何かを通して作用する」、「何かから作用する」を意味します。私はただ探求しています。葛藤を造り出すことのない行為があるでしょうか-外部または内部の? 断片化していない、全体である行為があるでしょうか? 環境に無関係の、私に、あるいは共同社会に無関係の運動である行為があるでしょうか? 時間の範囲外の運動である行為があるでしょうか? その全てが私には行為です。しかし、私たちにとっては、行為は他の人との関係の中にあります。行為は私たちが住んでいる共同体に関係しています。私たちの行為は経済、風土、個人、環境の条件によって押し付けられます。それは信念、理想などなどに基づいています。それが私たちの知っている行為です。さて、私は周囲の圧力の結果ではない行為があるかどうか見出したいのです。

 M: 行為は分離した運動ではありません。ここにいること、あるいは、いることは行為することです。

 K: 私は行為とは何か見たいのです。あなたは私を助けていません。行為とは何でしょうか、ここからそこに動くこと、車が来ているとき、道路から子供をひったくること? 何かについて考え、そして行動すること?

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 M: 問題なのは動機です。

 K: 動機は行為の一部です。私は何かを望み、そしてそれを得る。私はあなたを好かず、そして行動する。あるいはあなたが好きで、そして行動する。私たちはそれを知っています。私たちは何が行為か見出そうとしているのです。

 P: それが明白であるなら、では、その運動を推進する事実は何でしょうか?

 K: ププルジ、私たちは行為の中の原因作用を除去しなければならないと私は思います。それは可能でしょうか? 

 P: 私たちは指示の中の運動である何かから出発しました。注意の中にもまた運動があります。それは人がそれと共に眠るということではありません。私は今あなたに話しており、あるいはモーリスがあなたに話しており、私たちはあなたに傾聴しており、私たちの中にはほかの動きはありません。質問はこうです。この状態の中で、それはあなたを見ること以外は何もないのですが、動機づける、動かすものは何でしょうか?

 K: 私はもっと深い何かを知りたいのです。自分でエネルギーを与える行為は何でしょうか? 無限のエネルギーを伴う無限の運動である行為は? 私は何かを明確にしているでしょうか? 私はそれが行為であると思います。私は、何かへの私のやり方を感じています。私は、私たちの行為は皆断片化されていると感じます。私たちの行為はすべて破壊的です。私たちの行為はすべて分離を引き起こし、その分離から葛藤が生じます。私たちの行為は常に既知のものの分野の内にあり、したがって、時間に束縛されており、それゆえ自由でありません。それはそうなのです。さて、私は何かほかの行為があるかどうか見出したいのです。私たちは既知のものの分野にある行為を知っています。私たちは技術的な行為、思考の行為、振る舞いの行為を知っています。何かほかの行為があるでしょうか?

 P: この流れ、「ほかの行為」は、どんなふうに脳細胞と接触、あるいは関連しているのでしょうか? それが脳細胞と意識に関連していなければ、そのとき、それは神と同意語であるでしょう。

 K: 私は行為とは何かと聞いているのです。意識の分野の内では、私たちは行為を非常によく知っています。それは全て、既知のものの分野の内にあります。そのような行為は種々の形の挫折、悲しみ、崩壊に通じるに違いないと私は感じます。さて、ゆっくり行きましょう。私は私自身に尋ねます。挫折、失敗、悲しみ、悲惨、混乱を伴うこの意識に属さない、何かほかの行為があるでしょうか? 時間のものではない行為が何かあるでしょうか? それは道理に適った質問でしょうか? 人は既知のものの分野の内で常に行動してきました。私は摩擦のない行為があるかどうか見出したいのです。それがすべてです。私はあらゆる行為がある種の摩擦を引き起こすことを知っています。私は矛盾のない、葛藤をもたらさない行為を見出したいのです。

 A: もしも動機がなかったなら、ここにはいなかったでしょう。

 K: このことは行動が固定したパターンに一致している、したがっていることを意味しません。パターンにしたがうことは脳の完全な破壊に導きます。そのような行為は単に機械的な反復にすぎません。私は反復的でない、葛藤していない、模倣的でも、順応してもいない、それゆえ腐敗していない行為を見出したいのです。

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 M: 生きることは環境にしたがって行動することを意味します。

 K: したがって、私は環境に頼りません。私は葛藤のない生を生きたいのです。そのことは生が行為であることを意味します。そして、私は生はその中に常に葛藤を持っていることを見ます。そして私は、その中に葛藤のない行為である生き方を見出したいのです。葛藤は模倣、順応、そして葛藤を持たないためにパターンに従うことを意味します。それは機械的な生き方です。私たちはその中に模倣、順応、抑圧の気配もない生き方を見出すことができるでしょうか? まず最初に、それは「見出す」という問題ではありません。「見出す」という言葉を除きましょう。それは今日、いま生きることです、その中に葛藤のない。

 M: そのような行為は破滅を招くかもしれません?

 K: それは破滅を招かないでしょう。私の英知が、既知のものの分野の中の行為全てを見て、それらを観察して、それらに注意を払って、私の英知がこの質問をしているのです。英知が今働いているのです。

 A: 私の英知は私に、私は私自身をより多く傷つけることなしに他人を傷付けることはできないと告げます。世界の中に、自分自身により大きな悪を為すことなしに、他人に悪を為すようなそんなものはありません。

 K: 「英知」という言葉は非常に油断のない心を持つだけではなく、行間を読むことも意味します。私は既知の活動の行間を読みます。それを読んで、私の英知は、既知のものの分野では、行為は矛盾するであろうと言います。

 P: 私たちは、ここですっかりふさがれたように見えます。あなたはあることを言い、そして見出すすべはありません。それについて語るすべはありません。

 K: 私は調査しようとしていると言いました。

 M: 英知が何かを捜索するとき、何が起こるでしょうか?

 P: 「調査する」と「捜索する」という言葉の間の違いは何でしょうか?

 K: 大きな違いがあります。調査は「跡をたどってつきとめる」ことを意味します。捜索は「あるものを見つけるために捜すこと」を意味します。

 P: どうやってあなたはこれを調査しますか?

 M: 科学では、調査は未知のものを見つけることを意味します。

 K: 私は「調査」という言葉を、科学が意味するものや、私が意味するものでなく取り上げます。辞書によれば、調査は「跡をたどってつきとめること」を意味します。私は動機を持つどんな行為も必然的に針路変更、矛盾を引き起こすに違いないことを見ます。私はそれを、観念としてではなく、事実として見ます。そこで、私は、それを調査しているときに、私の心に何かの矛盾があるかと言います。私は何が起こるか見たいのです。注意を払う中で、信念に基づく行為は矛盾していることを私は見ます。そこで、私は私自身に言います。生きて活動している、それゆえ矛盾している信念があるか? あるなら、私はその信念を追いかけ、それを拭い去ります。

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 P: そのことを追いかけるそれは誰でしょうか?

 K: その注意の中には追いかけることはありません、拭い去ることはありません。その注意、観察から、信念はあなたの中ではなく、私の中で終わります。それは終わります。その注意の中で、私はどんな形の順応も恐怖、抑圧、服従を引き起こすことを見ます。そこで、その注意そのものの中で、私はそれを自分の中に拭い去ります。そして報酬や懲罰に基づくどんな行為も終わり、おしまいです。そこで何が起きたでしょうか? 私はイメージに基づく、関係の中のどんな行為も、人々を分離することを見ます。既知のものに対し注意を払う中で、既知のもののあらゆる要素、それらの構造、それらの性質は終わります。そしてそのとき、注意は非常に重要になります。注意は言います。「これらのものを少しも持たない行為が何かあるだろうか?」

 M: あなたは、注意はそれ自体、これらのものを何も持っていないと言うのでしょうか?

 A: あなたは、注意それ自体が行為であると言うのでしょうか?

 K: そうです。したがって、注意は行為の中の知覚であり、それゆえその中には葛藤がありません。注意は限りがありません。信念の行為はエネルギーの浪費です。注意の中の行為はそれ自身のエネルギーを作り出しており、それは終わりがありません。脳は何時も葛藤、信念、模倣、順応、服従、抑圧の分野の中で機能しています。それは何時もそのやり方で機能しており、そして脳がそれを知り始めるとき、そのとき注意が働き始めます。脳細胞それら自身が注意深くなります。

 M: 私が今理解したことから、注意はエネルギーを求め、それからエネルギーが導くとあなたは言っているように思われます。

 K: 注意は行為です。私たちはまた、意識はその内容であると言いました。

 P: 注意の状態の中で、脳細胞はそれら自身変化を受けるのでしょうか?

 M: 生物学的に、あらゆる細胞は単一体であり、エネルギーを再充電できて、したがって、機能できます。あらゆる細胞はまた、気づきが細胞に組み込まれているので、機能します。

 K: 私はそう思います。私は違った点から出発したいのです。脳細胞は、葛藤、模倣、その他もろもろのエネルギーの浪費を通り抜けました。彼らはそれに慣れているのです。脳細胞は今やそれを止めました。それらはその分野から出ており、脳はもはや、それの全ての残滓ではありません。それは技術的等で機能するかもしれませんが、しかし、生は行為であり、葛藤がないのを見る脳は注意の状態の中にあります。まさに内部に、課せられたのではない、指示されたのではない、意図されたのではない完全な注意があるとき、そのとき、全体の構造が生きています。普通の意味ではなく、違った意味で。肉体的変化があると私は思います。それは死の指示であり、死がそれであると私は思います。それで、非反復的な行為があり、それゆえ、既知のものからの自由は、未知のものの中における注意です。

 P: 既知のものからの自由もまた脳細胞の範囲内にあります。脳細胞は既知のものですが、既知のものからの自由もまた脳細胞の範囲内にあります。

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 K: したがって、生じている明確な変質があります。

 M: 脳は細胞内の記憶痕跡が消去されています。それは物理的変容です。

 K: 心が既知のものの範囲内で機能している限り、心は溝の中で機能しており、脳細胞は溝の中で機能してきたという意味で、これは論理的にそうなのです。さて、それらの溝が非在であるとき、脳全体が、溝の中でなく自由の中で、働きます。それが注意です。

 Bombay 30th January,1973

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