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脳細胞と全体観的な状態

J. Krishnamurti: Exploration into Insight -
'The Brain Cells and the Holistic State' Bombay 10th January 1977
洞察の中への探究 - 「脳細胞と全体観的な状態」

 DS: 私たちははずみ(momentum)の問題を議論できるかなと思います―それは思考者の発生であり、思考者との同一化を作り出します。事実は、私たちがこのはずみに、この運動に直面しているということです。それを調べられるでしょうか?

 P: それを探求するためには、消散するエネルギーの問題を調べなければならないと思いませんか?

 DS: それがどういうことなのか私はわかりません。

 P: 私たちを押しやるはずみは騒ぎを起こし、消えます。ちょうどエネルギーを持っており、そしてそれを消散するエンジンがあるように。私たちが話しているはずみに絡み込まれている同種のエネルギーがあります。エネルギー、消散するエネルギーと消散しないエネルギーを調べられるでしょうか?

 DS: マクスウェルは科学者として、エネルギーの第一原理は一つの定義する関係であると言います。あなたが「エネルギー」と言うとき、問題は何なのかと私はまじめに尋ねています。私たちがエネルギーと言うとき、物質、定義できる力を意味しているのかどうかなと私は思っています。あるいはこの「エネルギー」は関係の形を意味するのでしょうか?

 P: 私はあなたの言うことがよくわかりません。

 DS: 私は心理学的な意味において、エネルギーが何であるか実際に考えた人がだれかいるかどうか疑わしいと思います。

 P: それが、もしも私たちがそれを議論すれば、事柄が明らかになるかもしれない理由です。

 DS: 私たちは人の中に存在する物質や力を意味しているのでしょうか、あるいは「エネルギー」は関係の中に示される何かでしょうか。そしてもしそうなら、そのときそれはあらゆる範疇の疑問を引き起こします。

 P: 物理学は(私は物理学の知識を持っていませんが)消散するエネルギーとそれ自体の中に消散の種を持っていないエネルギーがあるということを受け入れないのでしょうか?

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 FW: いいえ。しかし、ほら、物理学者は誰もエネルギーが何であるか定義できないのです。エネルギーは物理学において基本的な仮定です―それはそこにあるという。私たちはエネルギーが必要であるということを知っています。エネルギーがなければ、力はあり得ません。エネルギーなしには、仕事はできません。それゆえ、エネルギーと仕事は非常に関係しています。それゆえ、力を用いることができ、仕事がなされるのを見ることができますが、エネルギーを見ることは決してできないのです。

 K: 始まりもなく終りもない、果てしのないエネルギーがあるでしょうか? そして機械的であり、常に動機を持っているエネルギーがあるのでしょうか? また、関係のなかにエネルギーがあるのでしょうか? 私は見出したいと思います。

 P: シャインバーグ博士ははずみを与えるのは何であるかを尋ねました。

 K: それは何でしょうか? それから離れないようにしましょう。

 P: はずみは思考者の発生でしょうか、そして次に思考者が彼自身に継続性を与えるのでしょうか?

 K: 私たちの行為のすべての背後にある衝動、力は何でしょうか? それは機械的なのでしょうか? あるいは摩擦を持たないエネルギー、力、衝動、はずみがあるのでしょうか? それが私たちが討論していることでしょうか?

 DS: 機械的になるこのエネルギーのはずみは何でしょうか? しばらく空想の領域に入らないでいて、ただこの思考と欲望のはずみとその機械的性質を離れないようにしましょう。このエネルギー、思考、欲望のはずみと思考者の発生は何でしょうか?

 K: 続けてください、あなた、それを論じてください。

 DS: 思考、感覚、次に力、それから欲望、そして欲望の達成をあなたは見ます。少々の修正を伴う全部の衝動が進みます、継続します。それゆえ、そのことがはずみです。

 K: あなたは欲望の背後にあるはずみは何なのかを尋ねています。私は自動車を欲しがります。その欲望の背後に何があるのでしょうか? それを非常に単純に保ちましょう。「私は車を持たなければならない」という欲望の背後にある切迫感、衝動、力、エネルギーは何でしょうか?

 DS: それはあなたが車を望んで、あるいは車が欲望としてやってきて、そこで「私」を作り出すということでしょうか? 欲望によって「私」が作り出されるのでしょうか?

 K: もしも私が実際に車を見なければ、それを感じなければ、それに触らなければ、私は車を求める欲望を持たないでしょう。車に乗っている人を、ドライブの楽しみ、エネルギー、ドライブの快よさを見るので、私はそれを欲しがります。

 P: あなた、欲望を作り出すのは対象だけなのでしょうか?

 DS: それが問題です。

 K: それは物理的な対象であるかもしれませんし、非物理的な対象、信念、観念、何か、かも知れません。

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 FW: しかしまず第一に、それはたぶん、感覚によって知覚できなければなりません。なぜなら、感覚によってあるものを知覚し、それのイメージを作り、それからそれを欲しがります。それゆえ、欲しがることのできるものは何でも感じられなければならないと言っていいでしょうか? それであなたの質問から私は尋ねますが、欲しがることができるもの、それはまず、感覚を通して認識可能でなければならないのでしょうか? もちろん、「神」のことを話すことが出来るでしょう。私は神を欲しがることができます。

 P: 世界を維持し進めていくのは欲望です。欲望をその根にさかのぼることが出来るでしょうか?

 DS: もしも「私」がなければ、欲望はあるのでしょうか?

 K: 何かの欲望の背後にあるはずみは何でしょうか? そのことで始めましょう。私を欲しがらせるエネルギーは何でしょうか? 私がここにいることの背後に何があるでしょうか? 私はあなたが何を話しているか、この討論が何についてであるか見出すためにここに来ました。欲望は私の普段の思考の奔流とは別の何かを発見することです。そこで、それは何でしょうか? それは欲望でしょうか? さて、私をここに来させた欲望の背後に何があるのでしょうか? それは私の苦しみでしょうか? それは私の楽しみでしょうか? それは私がもっと学びたいということでしょうか? これらをすべてまとめてください。そのすべての背後にあるものは何でしょうか?

 DS: 私には、それは私のあるがままの浮彫です。

 P: それは成ることの感覚と同一です。

 K: 成ること? 成ることの背後に何がありますか?

 DS: 私のいるところとは異なるどこかに動くこと、そしてそこにもまた欲望があります。

 K: それをするようにさせているそのエネルギーの背後に何があるのでしょうか? それは罰と報酬でしょうか? 私たちの運動の構造のすべては罰と報酬に、ひとつを避け、他方のものを得ることに基づいています。それが私たちをしてそんなに多くのことを為さしめる基本的な衝動、エネルギーでしょうか? それゆえ、動機、衝動、エネルギーはこれらの二つ、ひとつを避け、他方のものを得ること、に由来するのでしょうか?

 DS: ええ。そのことはその一部です。そのことは思考のレベルにあります。

 K: いいえ。思考のレベルにあるだけではありません。私はそうは思いません。私は空腹です。私の報酬は食べ物です。私がよくないことをするなら、私の報酬は罰です。

 M: それは快楽と苦痛とは異なるのでしょうか? 報酬は快楽と同じであり、罰は苦痛と同じなのでしょうか?

 K: 報酬―その言葉を離れないようにしょう。その言葉を拡大しないこと。報酬と罰。それが基本的な、通常の、共通の衝動であると私は思います。

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 P: 誰への報酬と罰?

 K: 「誰への」ではなく。満足であるもの、そして満足でないもの。

 P: しかし誰にとっての? それを置かなければなりません。

 K: 私はそのことにまだ至っていません。問題は、満足なものを私は「報酬」と呼び、満足でないものを私は「罰」と呼ぶということです。

 DS: はい。

 K: そこで、「私は満足しなければならない」、「私は空腹だ」と言っている「私」はないのでしょうか?

 P: 空腹は非常に生理的なことです。

 K: さしあたり、私はそれを離れないでいます。生理的なことが心理的な分野にこぼれ、全部の循環がそこに始まるのでしょうか? 私は食べ物を必要とします。食べ物は必要です。しかしその同じ切迫さが心理の分野に入り、そこに完全に異なる循環が始まります。しかしそれは同じ運動です。

 Singh: あなた、どこでこの過程のすべてが起きているのでしょうか? それが私の中で起きているなら、私が経験することは、私がこの探求の過程のなかに参加する時、それはどこで起きているのでしょうか? それは脳の中でしょうか? どこに私はこの快楽―苦痛の必要を、見出すのでしょうか?

 K: 生物的レベルと心理的レベルの両方。

 Singh: それが脳であるなら、そのとき明確に或る事があります。それを快楽と苦痛の間の薄明であると言えるかもしれません。空腹を満たす必要がなく、なおも満たされねばならない欲望があるのだという瞬間が明確にあります。私は満足かもしれないし、しかもなお空腹を感じるかもかもしれません。

 K: 私はあなたの言っていることがよくわかりません。

 Singh: あなた、報酬と罰があるなら、そしてこの報酬と罰の過程が生理的レベルにおいて、脳の中で調べられるのであるなら、そのとき、報酬と罰の間にある、脳の中の或る反応があります。

 K: あなたは報酬と罰の間にギャップがあると言っているのでしょうか?

 Q: ギャップではなくて、連結、橋。

 GM: あなたは報酬でも罰でもない状態があると言っているのでしょうか?

 Singh: はい。そこでは一つはもう一つに変わっていきます。

 P: お尋ねしてよければ、別の状態があるかもしれませんが、私はそれが何であるかわかりません。どんなふうにこの事が質問に答えるのでしょうか、どんなふうにこの事が、それを生じさせ、それを続けさせるこの力の性質についての質問を進めるのでしょうか? 基本的に、そのことが問題です。

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 DS: そのことが問題です。どこにこのはずみがあるのでしょうか? どこに報酬と罰のこのはずみがあるのでしょうか? そしてもしも間に隙間があるとしても

 K: あなたは報酬と罰の方向にひとを押しやるのは何であるのかと尋ねているのでしょうか? 私たちにこれをやり、あれを避けるようにさせているエネルギーは何でしょうか、はずみは何でしょうか、力は何でしょうか、多量のエネルギーは何でしょうか? それが質問でしょうか? それは、快楽であるところの充足・満足でありうるでしょうか?

 DS: でも、満足とは何でしょうか? 空腹からの解放があるということにあなたが気づいている時、あなたの存在の状態は何でしょうか?

 K: それは非常に簡単ではないでしょうか? 空腹があり、食べ物が与えられ、満足します。しかし同じことが進み、そしてそれは決して終わりません。私は次ぎから次ぎへと満足を求め、それは果てしがありません。それは、このエネルギー、満足しようという衝動が心理的なだけでなく生物的の両方であるということでしょうか? 私は空腹であり、心理的に孤独です。空虚の感じがあり、不十分な感じがあります。それで私は神に、教会に、グルたちに向かいます。生理的には、不十分さは非常に容易に満たされます。心理的にはそれは決して満たされません。

 Par: どの点で、ひとは生理的に満たすことから思考の過程に行くのでしょうか?

 K: あなた、それは生理的な運動が心理的な運動に入ってしまい、そして進行するということかもしれません。これはそうなのでしょうか?

 P: 私が調べようとしていることはこのことです。それはそれが可能かどうかとか、それが選択の事柄であるかどうかという問題ではありません。それは私が生まれる瞬間からそうなのです。両方の型の欠乏が始まります。したがって、私はこう尋ねています。生理的なものと心理的なものと、両方の始まりの源は何でしょうか?

 Q: 「不充分」という一つの言葉で十分でしょう。

 P: そうではありません。両者が力に組み立てられ、次に力が推進します。人の中にあるその構造、多くのものの集合が中心、「私」です。

 K: ちょっと。私はそれが「私」であるとは思いません。

 P: それは何ですか? なぜあなたはそう言うのでしょうか?

 K: 私はそれが「私」であるとは思いません。それは果てしない不満、果てしない不充分さであると私は思います。

 DS: それの源は何でしょうか?

 P: 不充分である誰かがいる限り、不充分さがあり得るのでしょうか?

 DS: 誰が不充分なのでしょうか?

 P: それを感じる人なしに不充分さがあり得るでしょうか?

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 K: 私は「私」を置きません。絶え間のない不充分さがあります。私はマルクス主義に行きます。私はそれが不充分なことを見つけ、次ぎから次ぎに行きます。私が聡明であればあるほど、私が目が覚めていればいるほど、ますます多くの不充分さがあります。そこで、何が起こりますか?

 S: あなたはそれによって、まさにそのはずみの中で活動し得る「私」の存在のない母体があるという事を意味しています。

 K: 私は母体を知りません。私は「私」を知りません。私が指摘していることのすべては、心理的不充分さの領域に入ってしまった生理的不充分さがあり、それは際限なく続くという一つの要因です。

 DS: 際限のない不完全さの感覚があります。

 K: 不充分さ。その言葉を離れないようにしましょう。

 A: この時点で、生理的な不充分さを除いてもいいのではないかと思います。

 K: 私はわざわざそのことを主張しているのですが…。私たちがこの悲惨のすべてを作り出すということは、そのことが流れ出るためかもしれません。

 Par: 私はそのことを疑います。それは生理的なものと、こぼれ出る心理的なものの混合物でしょうか? 「こぼれ出る」によって私たちは正確には何を意味しているのでしょうか? 一つは事実です。もうひとつはそうでありません。

 K: ええ。したがって、生理的不充分さのみがあります。

 P: どうしてあなたはそう言えるのでしょうか?

 K: 私はそれを言っていません。私はただ調べているのです。

 P: 心理的不充分さだけでなく生理的不充分さの両方があります。

 K: ちょっと、ププルジ、当面私は「私」という言葉を使わないようにします。私は「私」を調べていません。私は空腹を感じます。それは満たされています。私は性を感じます。それは満たされています。そして私は言います。「それは充分でない。私はより以上のものを持たなければならない」と。

 P: 「より以上」のもの?

 K: 「より以上」のもの、それは何でしょうか?

 P: それははずみではないでしょうか?

 K: いいえ、「より以上」のものはより以上の満足です。

 P: でははずみは何でしょうか?

 K: 前の言葉を離れないようにしましょう。脳は満足を求めています。

 P: なぜ脳は満足を求めるのでしょう?

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 K: なぜならそれは安定を必要とするからです。それは安全を必要とします。したがって、それはこう言います。「私はこの事を発見した。つまり、私はこれの中に満足を見出したと思ったが、何もない。私はあれの中に満足と安全を見出すだろうが、再び何もない」。そしてそれは次々と進み続けます。それは日常生活の中でそうなのです。私はあるグルから次ぎのグルに、あるいはある理論から次ぎの理論に、ある結論から次ぎの結論に移ります。

 Q: あなた、生理的レベルでのこの不充分さの性質そのものが、超生理的レベルでの充分さに導きます。それは生理的機械における不備からそれの完成に導きます。そして作動しているのはこの循環です。それが脳が働くやり方です。もし生理的なこぼれ出しが心理的な分野にいつも続くなら、そのとき、この不充分さと満足の循環は続くに違いありません。

 K: 続くに違いない? あなた自身を調べてください。それは非常に単純です。あなたは満足を求めています。あらゆる人がそうです。貧乏なら、金持ちになることを望みます。あなたより金持ちの誰かを見るなら、それを望み、より美しい誰かを見るなら、それを望むなどなど。私たちは絶え間のない満足を望みます。

 A: あなた、私は再び、あなたの注意を生理的不充分さの中心的な様相に、その生理的不充分さを満たそうとするあらゆる活動は満足に通じるということに引き付けたいのです。すなわち、不充分さとその再発の間には、生理的不充分さが関係している限り、常に隙間があります。ところが、心理的不充分さが関係しているところでは、何の隙間も知らない循環を私たちは始めます。

 K: 隙間を忘れてください、あなた。それは重要ではありません。あなた自身を見守ってください。運動、エネルギー、衝動の全部が満足、報酬を見出すことではないでしょうか? シャインバーグ、あなたはこれをどう思いますか?

 DS: 生理的な報酬-罰の体系のこのモデルから出ることは明確にそうであると私は思います。論理的であろうがなかろうが、それが「私」の作動するやり方全部であると私は言っているのです。

 K: 満足を求める全部のはずみが「私」によって捉えられます。

 DS: そのとき、「私」が明白になるということがそこにあります。

 K: そのとおりです。それが私が言っていることです。私は満足を求めています。決して「満足が求められている」と言いません。私は満足を求めています。実際にそれは別のやり方であるべきです-求められている満足。

 DS: 求められる満足は「私」を作り出します。

 K: それゆえ、はずみは満足したいという衝動です。

 P: 私は、離れる動きであるように見えるかもしれない質問をあなたに尋ねましょう。「私」という感覚は知識を相続している脳細胞に生まれつき備わっているのではないでしょうか?

 K: 私はそれを疑います。

 P: 私はあなたに尋ねています、あなた。質問を聞いてください。脳細胞に現にある、潜在意識の深みに現にある人間の知識、その「私」は脳の一部ではないでしょうか?

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 S: ププルジ、では、あなたは過去のものの全体を「私」と同等としているのでしょうか?

 P: もちろん、過去のものの全部。満足の追求のこの現れが原因で「私」が生じるのかどうかを私は尋ねているのです。あるいは、あの記憶の中心そのものが、記憶のマトリックスが、それが「私」という感覚でないのかどうかを。

 K: あなたは、知識として、過去と同一化している「私」、「ミー」、自我があるのだろうかと尋ねています。

 P: 同一化しているのではなく。

 K: 待ってください。私に質問をはっきりわからせてください。

 P: 同一化しているのではなく。そうではなくて時間、過去としての時間、としての「私」。そして「私」という感覚はその全部です。

 K: 待ってください。始めの方であなたは、脳は「私」を包含するか?と尋ねました。私はためらいがちに、調べながら言いたいのですが、「私」はまったくなくて、純粋な満足の追求のみがあります。

 P: 人間の人種的記憶の全部は架空のものなのですか?

 K: いいえ。しかし、私は過去のものであるとあなたが言うその瞬間、その「私」は架空のものです。

 S: 過去のものがそれ自身、私は過去のものであると言っているのですか、あるいは過去のものの一部が、それは過去のものであると言っているのですか?

 K: ねえ、あなたは本当に非常に興味深い質問を提起していますね。すなわち、あなたは過去のものを「私」として観察しますか? 過去のものの全体、千年の人間の努力、人間の苦しみ、人間の惨めさ、混乱、何百万年があります。その運動、その流れだけがあります。その巨大な河だけがあります―「私」でなくて巨大な河が。

 P: それをこのように言いたいのですが。この強大な河が表面に出るとき、それは表面に「私」の運動をもたらします。それは「私」と同一化してしまいます。

 一同: そうは思いません。

 K: ププルジ、「私」は単に伝達の手段であるに過ぎないかもしれませんよ。

 DS: それは話すこと、報告することのやり方なのでしょうか?

 P: それはそのように単純でしょうか?

 K: いいえ、私はちょっと言っているだけです。それはそのように単純ではありません。

 S: あなた、一つのところで、あなたは流れの顕われは個人であると言いました。悲しみのこの巨大な流れが個人として出現するとき、「私」が現にあるのですか、ないのですか?

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 K: 待って、待って。それは要点ではありません。その巨大な流れはこれに、人間に現れます。父親が私に形を与え、そこで私は「私」と言います。それは形、名前、特有な環境ですが、その流れは「ミー」です。明かであるこの巨大な流れがあります。

 A: 私たちは現存している知識で流れを見ており、流れと同一化している、と私は言います。同一化は事後になされます。ところがそれは実際にははずみで始まります。

 K: いえ、いえ。

 P: どんなふうにそれを見ることが出来るでしょうか? ほら、クリシュナジが述べるやり方は実際には自己の深みにつながりません。自己の深みは「私は望む、私はなりたい、私はありたい」と言います。その深みは過去から発します。過去は知識です。過去は人種的無意識の全部です。

 K: 尋ねていいですか? なぜ「私」があるのでしょう? なぜ「私は欲しい」と言うのでしょう? ただ欲しいがあるだけです。

 P: そう言う事によってなお、あなたは「私」を除いていません。

 K: いいえ、あなたが確かにその「私」を除くのです。どんなふうにあなたは観察しますか? どんな仕方であなたはこの流れを観察しますか? 観察している「私」としてそれを観察しますか? それとも、流れの観察があるだけでしょうか?

 P: 観察する中でどうするかは違う問題です。私たちははずみを引き起こすあのエネルギーの性質を話しているのです。いま、私ははずみは成ることに捉えられた「私」の性質と構造そのものであると言っているのです。

 K: 私は「私」がそもそも存在するかどうかを問いたいのです。それはまったく言葉の上の、非事実なのかもしれません。それは事実ではなく、単にひどく重要になってしまった言葉かもしれません。

 FW: 脳物質のなかに「私」の刷り込みがあるのではないでしょうか? それが現実ではないでしょうか?

 K: いいえ、私はそれを疑います。

 FW: しかし刷り込みはそこにあります。問題はこうです。それが現実でないなら、そのとき、それは何ですか?

 K: はずみの全部、この巨大な流れが脳の中にあります。結局それが脳です。そしていったいなぜその中に「私」がなければならないのでしょうか?

 P: あなたが現実を話しているとき、それはそこにあります。

 K: それは言葉の上でのみ、そこにあります。

 DS: それは現実にそこにあります。あなたと私が一緒にいるならそれに二つの部分があるという意味で。私自身と私が同一化することが「私」であり、あなたとの関係です。

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 K: あなた、何時あなたは「私」を意識しますか?

 DS: 関係のなかでのみ。

 K: 私は何時あなたが「私」を意識するかを理解したいのです。

 DS: 何かを望むとき、何かと同一化するとき、鏡の中に自分自身を見るとき。

 K: あなたが経験するとき、何かを経験している瞬間には「私」はありません。

 P: はい、「私」はありません。あなたに同意します。しかしそれから「私」が一瞬後に現れます。

 K: どんなふうに? 見てください。ゆっくりとそれを調べてください。

 FW: はずみの問題があります。

 K: あなたは私の要点を取り逃がしています。経験があります。決定的段階の瞬間には「私」はありません。それから、後に、思考が来て「それは面白かった、それは楽しかった」と言います。そしてその思考は「私」を作り出し、それは「私はそれを楽しんだ」と言います。いいでしょうか?

 P: 何がそこに起こったのでしょうか? 「私」はエネルギーの集中でしょうか?

 K: いいえ。

 P: 消散するエネルギー?

 K: それは消散するエネルギーです、そうです。

 P: しかし、なお、それは「私」です。

 K: いいえ、それは「私」ではありません。それは誤用されているエネルギーです。それはエネルギーを誤って使用する「私」ではありません。

 P: 私がエネルギーを誤って使用するとは私は言っていません。「私」それ自身が消散するエネルギーの集中なのです。身体が擦り切れるように、「私」はその意味で同じ性質を持っています。それは歳を取ります。それは古くさくなります。

 K: ププルジ、ちょっと私の言うことを聞いてください。危機の瞬間には、「私」はありません。それについてきてください。さて、いつでもその危機の真っ只中に生がありますか、生きることができますか? 危機は全体的なエネルギーを要求します。どんな種類の危機もすべてのエネルギーの流入をもたらします。しばらく、それを離れましょう。私たちは後ほどそれをばらばらにするでしょう。その瞬間には、「私」はありません。それはそうなのです。

 DS: それは運動です。

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 K: いいえ、その決定的な瞬間には「私」はありません。さて、私は尋ねています。「何時もその真っ只中で生きることが出来るだろうか?」

 DS: なぜあなたはそれを尋ねているのでしょうか?

 K: そのように生きないなら、それを破壊して駄目にしてしまうようなあらゆる種類のほかの活動をします。

 DS: 問題は何なのでしょうか?

 K: 要点はこうです。思考がやって来るやいなや、それはエネルギーの断片化を引き起こします。思考それ自体が断片的なのです。そこで、思考が浮かぶとき、そのとき、それがエネルギーの消散なのです。

 DS: 必ずしもそうではない。

 Par: あなたは「経験の瞬間には、『私』はない」と言いました。

 K: 「私が言った」ということではなく。それはそうなのです。

 Par: それははずみでしょうか?

 P: いいえ。問題は本当にこれに帰します。私たちはそれはそうであると言います。しかしそれはなお、なぜ「私」がそんなに強力になっているのかに関しての質問に答えていません。たとえ危機の瞬間、「私」がいない、全部の過去のものがないとしても、質問になお答えていません。

 K: そのことが要点なのです。危機の瞬間には、何もありません。

 P: 何故あなたは、人種的過去全部の鏡である「私」について、「ノー」と言うのでしょうか?

 K: 私は、それが単に伝達の方法に過ぎないかもしれないので、「ノー」と言っています。

 P: それはそのように単純でしょうか? 「私」の構造はそのように単純でしょうか?

 K: 私はそれは途方もなく単純であると思います。もっとずっと興味深く、もっとずっと過酷なことは、思考が生じるときはいつでも、そのときエネルギーの消散が始まるということです。それゆえ、私は思います。「その真っ只中でいつも生きることが出来るだろうか?」 「私」が生じるやいなや、消散があります。もしもあなたが「私」を取り除き、私も「私」を取り除くなら、そのとき私たちは正しい関係を持つでしょうに。

 FW: 思考が入って来るやいなや、エネルギーの消散があるとあなたは言いました。しかし、「私」が入って来るやいなや、やはりエネルギーの消散があります。違いは何でしょう?

 K: 思考は記憶、経験、そのすべてです。

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 FW: 生の中でそれを使う必要があります。

 DS: それはまさに私たちがちょうど今していることです。私が言うとき、エネルギーの消散を見出します。私は直ちに私自身が観察者の立場をとり、「それは悪い」と言うのを見ます。私が示唆していることは、ニュートラルに気づいていることが出来るということです。危機と消散があります、危機と消散。それが生存の流れです。

 K: いいえ。

 P: Kの言っている要点は、そのことはありますが、私たちが話している変容はそのことを否定することです。

 DS: このことからの脱出というようなそんなことがあるかどうか、私は疑問に思います。私たちは危機のエネルギーの強さを覚えていると私は思います。それで、私はそれをいつも保ちたいと私たちは言います。あなたはそれをしますか?

 K: いいえ。

 DS: ではなぜ質問するのですか?

 K: 私は思考が干渉するのでわざわざその質問を尋ねているのです。

 DS: いつもではないですが。

 K: いいえ、いつも。それを尋ねてください、あなた。あなたが危機を持つやいなや過去も現在もありません、その瞬間があるだけです。その危機の中に時間はありません。時間が生じるやいなや、消散が始まります。しばらくそれをそうしておいてください。

 A: 危機があります。次に、消散があり、次に同一化があります。

 P: 危機の瞬間には、多くのことが起こります。あなたは危機の瞬間における全体観的な立場を話しています。それに至るためでさえも、この事がなんであるか知るために、自分自身の中に、それを非常に深く調べなければなりません。

 K: ほら、ププル、 全体観的とは非常に正気な心と身体、考える明確な能力を意味し、そしてまた尊い、神聖な、ということを意味しますね。そのすべてが「全体観的(holistic)」というその言葉に含まれています。さて、私は尋ねています。「あなたがそれから引き出すのを望む、決して消散しないエネルギーがあるでしょうか?」 全体観的でないとき消散があります。全体観的な生き方はその中にエネルギーの消散がないものです。エネルギーの消散の中の非-全体観的な生き方。

 P: 脳細胞に対する、全体観的なものと非-全体観的なものの関係は何でしょうか?

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 K: 脳細胞とは関係がありません。それをよく見ましょう。「全体観的」というその言葉の意味を私たちが理解するということを、私は極めて明確にしたいのです。それは完全、全体、調和、分裂のないこと、断片化のないことを意味します。それが全体観的な生です。それは無限のエネルギーです。非-全体観的な生、断片化した生、はエネルギーの浪費です。全体の感覚があるとき、「私」はありません。もうひとつは思考の、過去の、時間の運動です。それが私たちの生、私たちの日常生活です。そしてその生は報償と罰であり、満足を求める絶え間のない追求です。

 P: あなた、全体観的なものが脳細胞の中に保持されています。すなわち、それは応答、挑戦を投げ上げます。非‐全体観的なものが脳細胞の中に保持されています。それは挑戦に出会っている過去の流れ全体です。さて、全体観的なものは脳細胞、そして感覚とどんな関係を持っているのでしょうか?

 K: 質問を理解しましたか、博士?

 DS: 彼女の質問は、脳の中のこの全体観的な状態の、記憶、過去のもの、感覚との関係は何であるか?です。

 K: いえ、いえ。あなたは聞いていませんでした。

 P: 私は二つの状態、全体観的なものと非-全体観的なものがあると言いました。非-全体観的なものは明確に脳細胞の中に保持されています。なぜなら、それは挑戦され、はずみを与えている、脳細胞に保持されている過去のものの流れであるからです。私は尋ねています。全体観的なものの脳細胞との、そして感覚との関係は何なのでしょうか?

 DS: 感覚とはどういう意味でしょうか?

 P: 聞くこと、見ること、味合うこと...

 DS: それを調べていいでしょうか? もしも私たちが言っていることの中に何かがあるのであれば、全体観的な状態で作動するその様な部分の違った関係があるだろうにと私は思います。それらは単に作動しているに過ぎない部分ではなくて、全体観的な状態の部分として作動しているのです。ところがエネルギーの消散と断片化の中ではそれは分離した中心として作動します。

 K: あなた、彼女の質問は非常に単純です。いま、私たちの脳細胞は過去、記憶、経験、数千年の知識、を含有しており、それらの脳細胞は全体観的ではありません。

 DS: ええ、それらは分離した細胞です。

 K: それらは全体観的ではありません。そのことに固定しましょう。彼女は脳細胞はいま非-全体観的な生き方に条件づけられていると言っています。全体観的なやり方があるとき、脳細胞の中に何が起こるでしょうか? それが彼女の質問です。

 DS: 私はそれを違ったふうに述べたいのです。私は、「知覚の全体観的な状態の中で、脳細胞との関係の中に何が起こるでしょうか?」と言いたいのです。

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 K: 私はその質問に答えようとしています。全体観的な脳は過去を含有しているでしょうか、したがって過去は全体観的に使われることが出来るのでしょうか? それは全体であるので、部分を含んでいます。しかし部分は全体を含むことは出来ません。したがって、部分の作動があるとき、エネルギーの消散があります。

 P: このすべてを経ることの後に、私たちはこの点に到達しました。

 K: ええ。素晴らしい点。それに固執しましょう。

 P: では、人間の心の構造である脳の中で、その場所は何でしょうか?

 K: 私たちは非-全体観的な生き方だけを知っています。それを離れないでください。それが事実です、私たちが非-全体観的に、断片的に生きているということが。それが私たちの現実の生であり、それはエネルギーの浪費です。私たちはまた、矛盾があり、戦いがあるということも見ます。それのすべてがエネルギーの浪費です。さて、私たちは尋ねています。「エネルギーの浪費でない生き方があるでしょうか?」

 

 私たちは非全体観的な生き方、断片的な生、ばらばらな生を生きています。あなた、ばらばらなという言葉によって何を意味しているか理解してください。何かを言いながら、ほかの何かをすること。静寂の瞬間を持っていて、矛盾しており、比較に基づく、模倣的な、順応する生。それは断片的な生き方、非-全体観的なやり方です。それが私たちの知っているすべてです。そして誰かが言います。浪費されないエネルギーがあるでしょうか? そしてその質問で、この生き方を終らせることが出来るかどうかを見るため、それを探求しましょう。

 P: しかし、私は別の質問をしています。そしてあなたはまだそれに答えていません。

 K: 私はそれに至ろうとしています。それは非常に答えるのに難しい質問です。それはこうです。人は非-全体観的な生を生きています。それは絶え間のないエネルギーの漏出、エネルギーの浪費です。脳はそれに条件づけられています。人はそれを実際に見ます。そのとき人は尋ねます。そうでない生を生きることが出来るだろうか? いいでしょうか?

 Q: いつもではありません、あなた、それが私たちが探求していることです。その自由の香りが全体性であり得るかどうか?

 K: いいえ、それは決して全体性ではあり得ません。なぜならそれは来たり去ったりするからです。来たり去ったりするものは何でも時間を意味します。時間は断片的な生き方を意味します。したがってそれは全体ではありません。私たちが非-全体観的な生を生きているのを見てください。脳はそのことに条件づけられています。時たま、私は自由の性向を持つかもしれませんが、その自由の性向はなお時間の領域の中にあります。したがってその性向はなお断片です。さて、それ、非-全体観的な生き方、に条件づけられている脳が、その脳がもはや条件付けのやり方を生きないように非常に完全にそれ自身を変容させることが出来るでしょうか? それが質問です。

 DS: 私のそれに対する反応はこうです。ここでは断片化の状態にあります。ここではエネルギーの消散の状態にあります。そしてそこでは満足を求めています。

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 K: いいえ、私はそうではありません。私はこれはエネルギーの浪費であると言っています。

 DS: それが私たちの知っているすべてでありほかに何もありません。

 K: ええ。ほかに何も。そこで、脳は言います。「よろしい。私はそれを見た。」 次にそれは質問をします。「このすべてを変えることが出来るだろうか?」

 DS: 脳がそれを尋ねることが出来るかどうか、私は疑わしいと思います。

 K: 私はそれを尋ねています。したがって、一つの脳がそれを尋ねるなら、ほかの脳もまたそれを尋ねるに違いありません。このことは満足に基づいていません。

 DS: どうしてあなたが述べることについての質問を、満足を求めることなしに尋ねることが出来るかについて、何か言ってくださいますか?

 K: 脳はそれがもてあそんできたゲームを自分自身で理解したので、それが尋ねられ得るのです。

 DS: それで、どんなふうに脳は質問を提出すればいいのでしょうか?

 K: それはそれを尋ねています。なぜならそれは「私はそれを見通している。」と言うからです。いまや、それは言います。「非-断片的な、全体観的な生き方があるだろうか?」

 DS: そしてその質問はどれにも劣らず全体観的です。

 K: いいえ、まだそうでありません。

 DS: それは私が悩むところです―何処からその質問が生じるかが。それは満足を求めていない、それは全体観的ではないとあなたは言います。では、どんな脳がこの質問を作り出しているのでしょうか?

 K: 「私は非常に明確にエネルギーの浪費が見える」と言う脳。

 P: 脳は断片化の問題全部を見通しているという言っていることの事実そのものが...

 K: それの終りです。

 P: それは全体観的ですか?

 K: それの終り、それは全体観的です。

 P: 終ることは断片化を見ることそのものです。

 DS: それは全体観的なのですか?

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 K: それは全体観的です。しかし彼女はとても多くの複雑な質問を、全体観的な脳に関して尋ねました。それは過去のあらゆるものを吸収して、過去、過去の全体、過去の本質、その精髄を含有しています。それは何を意味するでしょうか? 過去は無ですが、その様な脳は過去を使うことができます。これがおわかりかどうかと思います。私の関心は人ひとりの生、現実の、日常の、断片的な、おろかな生です。そして私は言います。「それは変容することが出来るだろうか?」 より大きな満足にではなく。その構造はそれ自身を終りにすることができるでしょうか? より高い何かを課することによってではなく、それはまさにもう一つのトリックです。あなたが観察者なしに観察することができるなら、脳はそれ自身を変えることが出来ると私は言います。それが瞑想です。あなた、本質は全体です。断片化のなかには、何の本質もありません。

 Bombay 10th January 1977

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