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010自由への道.jpg

10 The Flight of the Eagle  1971

霞ケ関書房

011自己の変容.jpg

11 The Urgency of Change 1971

めるくまーる

012英知の探求.JPG

12 The Impossible Question  1972

たま出版

 

1949年 オハイの公開講話(第4回)

J. Krishnamurti Ojai 4th Public Talk 24th July 1949

 

 私は今朝簡素が何であるかを討論しようと思います。そしてたぶん、それから感受性の発見に到達するでしょう。私たちは簡素は単に外側の表れ、引きこもり、つまり、わずかの所有物を持つ、腰布をまとう、家を持たない、わずかな服を身につける、少ない銀行口座を持つ、に過ぎないと考えるように見えます。確かにそれは簡素ではありません。それは単に外観に過ぎません。そして簡素は不可欠であると私には思われます。しかし簡素は私たちが自己認識の意義を理解し始めるときにのみ生じることができるのです。自己認識を私たちは前に討論しました。そして私たちはそれを、ここで8月の終わりまで討論するでしょう。

 簡素は単に型に適合することではありません。簡素であり、外見上いかに価値があろうとも、特定の型に、単に順応するだけでないということは多量の英知を要します。あいにく、私たちの大抵は外側で、外側の物で簡素であることによって始めます。わずかなものしか持たず、わずかなもので満足することは比較的容易です。少しで満足し、多分その少量を他の者と分かち合うことは。しかし、物、所有における簡素の単なる外部的表現は、確かに内部の存在の簡素を意味しません。なぜなら、現在世界がそうであるように、ますます多くの物事が外に向かって、外面に、私たちに強調されているからです。生はますます複雑になっています。そしてそれから逃避するために、私たちは物事から縁を切ろう、離れようとします―自動車から、家から、組織から、映画から、外部で私たちにのしかかる無数の環境から。引きこもることによって私たちは簡素であるだろうと思うのです。多くの聖者、多くの教師が世界を捨てました。そしてそのような誰にせよ私たちの側での放棄は問題を解決しないと私には思われます。基本的な真の簡素は、内部にのみ生じることができるのです。そしてそこから外部の表現があるのです。では、どうやって簡素であるかが問題です。なぜならその簡素は人をますます敏感にするからです。敏感な心、敏感なハートは絶対に必要です。というのは、そのときすばやい知覚、すばやい感受が可能であるからです。

 それゆえ、確かに、自分が捕らえられている無数の障害、愛着、恐怖を理解することによってのみ、人は内部で簡素であることができます。しかし私たちの大抵は捕えられているのを好みます―人々によって、所有によって、あるいは観念によって。私たちは囚人であるのを好みます。内部で、私たちは囚人です。もっとも外部では非常に簡素であるように見えますが。内側では私たちは欲望、必要物、理想、無数の動機付けに対する囚人なのです。そして簡素は内部で自由でない限り見出されることはあり得ません。したがって、外部ではなく、最初に内部で始まらなければなりません。

 私たちは昨日の午後、信念からの自由を討論ししていました。確かに、なぜ心が信念に愛着するのか、信念の全過程を理解するとき、途方もない自由があります。そして、信念からの自由があるとき、簡素があります。しかし、その簡素は英知を要します。そして、聡明であるためには、自分自身の障害に気づかなければなりません。気づくためには、絶えず見張っていなければなりません。特定の溝の中に、思考や行為の特定の型の中に確立された見張りではなく。なぜなら、結局、内部でそうであるものが外部に作用するのです。社会やどんな形の行為も私たち自身の投影です。そして、内部で変容することなしに、単なる立法行為は外部に対してほとんど意味を持ちません。それはある修正、ある調整をもたらすかもしれません。しかし、ひとが内部でそうであるものが、常に外部を征服するのです。内部で貪欲で、野心的であり、ある理想を追求しているなら、その内部の複雑さが外側の社会を、それがどんなに注意深く計画されていようとも、いつかはひっくり返し、くつがえすのです。

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 それゆえ、確かに、ひとは内部で始めなければなりません―排外的にではなく、外部を拒絶するのではなく。外部を理解することによって、どんなふうに争い、苦闘、苦痛が外部に存在するかを見出すことによって、あなたは確かに内部に到達します。そしてそれをさらに探索するとき、外部の争いと悲惨を生む心理的状態に自然に到着します。外部の表現は単に私たちの内部の状態のしるしです。しかし内部の状態を理解するためには、外部を通して接近しなければなりません。私たちの大抵はそれをします。そして、内部を理解する中で―排外的でなく、外部を拒否することによってではなく、外部を理解しそれで内部にたまたま出会うことによって―、私たちは、私たちが私たちの存在の内部の複雑さを調べ続けるにつれて、ますます敏感に、自由になることを見出すでしょう。そんなにも不可欠なのはこの内部の簡素です。なぜなら、その簡素が敏感さをつくり出すからです。敏感でない、気を配っていない、気づかない心は感受することが、創造的行為が不可能です。それが、私たち自身を簡素にするための手段としての順応は、実際には心とハートを鈍く、鈍感にすると私が言う理由です。政府によって、自分自身によって、達成の理想等々によって課せられるどんな形の権威主義的強制も―どんな形の順応も内部で簡素にするのではなく、鈍感にすることに寄与するに違いありません。非常に多くの宗教的な人たちがするように、外側であなたは順応し簡素の外見を与えるかもしれません。その人たちは種々の修養を実践し、種々の組織に参加し、特定の仕方で瞑想するなどします―すべて簡素の外観を与えます。しかしそのような順応は簡素に寄与しません。どんな種類の強制も決して簡素に導くことはできません。それどころか、抑圧すればするほど、置換すればするほど、昇華すればするほど、ますます簡素は少ないのです。しかし昇華、抑圧、置換の過程を理解すればするほど、簡素である可能性はますます大きいのです。

 私たちの問題―社会的、環境的、政治的、宗教的―は非常に複雑なので、私たちはそれらを、途方もなく博識で利巧になることによってではなく、簡素になることによってのみ解決することができるのです。なぜなら、簡素な人は複雑な人よりもっと直接に見、もっと直接の経験を持つからです。そして、私たちの心は事実の、他人の言った事の莫大な知識で非常に混雑しているため、簡素であり、直接の経験を私たち自身で持つことができなくなっているのです。これらの問題は新しい接近を要します。そしてそれらは私たちが簡素、内部で本当に簡素であるときのみ、そのように接近できるのです。その簡素は自己認識を通じて、私たち自身、つまり私たちの考え感じる仕方、私たちの思考の運動、私たちの反応、を理解することを通じてのみ生じます。恐怖を通して、世論に、他人の言うことに、仏陀、キリスト、偉大な聖者たちの言ったことに、私たちがどんなに順応することか―そのすべては順応しよう、安全であろう、確かであろうとする私たちの性質を示しています。そして、人が安全を求めているとき、明らかに恐怖の状態の中にあり、したがって簡素はありません。

 簡素であることなしに、敏感であることはできません―木に対し、鳥に対し、山に対し、風に対し、世界の中で私たちの周りに進んでいるすべての物事に対し。そして簡素でないなら、物事に対する内側の暗示に敏感であることはできません。私たちの大抵はそんなにも表面的に、意識の上側のレベルで生きています。そこで私たちは思慮深くあるいは聡明であろうとします。それは宗教的であることと同義です。そこで私たちは強制を通じ、修練を通じ、心を簡素にしようとします。しかしそれは簡素ではありません。私たちが上層の心を簡素であるように強いるとき、そのような強制はただ心を硬くするだけで、心を柔軟に、明快に、すばやくしないのです。意識の全部の、全体の過程の中で簡素であることは、とても骨が折れます。なぜなら、内部に保留があってはならないからです。見出そう、私たちの存在の過程を調べようという熱心さがなければなりません。それはあらゆる暗示、あらゆるほのめかしに目覚めていることを意味します。私たちの恐怖に、私たちの希望に気づいていること、そして探索し、それらからもっともっと自由であること。そのときのみ、心とハートが、外皮で覆われているのでなくて本当に簡素であるとき、私たちは私たちに立ちはだかる多くの問題を解決できるのです。

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 知識は私たちの問題を解決しないでしょう。例えば、あなたは生まれ換わりがあることを、死後の継続があることを知っているかもしれません。あなたは知っているかもしれませんが、私はあなたがそうとは言いません。あるいは、あなたはそれを確信しているかもしれません。しかしそれは問題を解決しません。死はあなたの理論によってや、情報によってや、確信によって棚上げにすることはできません。それはそれよりずっと神秘的で、もっと深く、ずっと創造的です。

 それゆえ、人はこれらすべての事柄を新たに調べる能力を持たなければなりません。なぜなら、問題が解決されるのは直接の経験を通してのみであるからです。そして直接の経験を持つためには、簡素がなければなりません。それは感受性がなければならないということです。心は知識の重さで鈍くされます。心は過去によって、未来によって鈍くされます。しかし、絶えることなく、瞬時瞬時、現在にそれ自身を適合させることができる心だけが、環境によって私たちの上に絶え間なく置かれる強力な影響と圧力に出会うことができるのです。

 それゆえ、宗教的な人は本当に、法衣や腰布を着たり日に一食で生きている人、あるいは、これであるとかあれではないと無数の誓いを立てた人ではないのです。そうではなく、内部で簡素であり、何かになろうとしていない人です。そのような心は途方もない感受が可能です。なぜなら障壁がなく、恐怖がなく、何かの方へ行くという事がないからです。したがって、それは恩恵、神、真理、といったものを感受することができます。しかし実在を追求している心は簡素な心ではありません。捜し出そうとしている、手探りし、興奮して調べている心は簡素な心ではありません。内部や外部の、権威の何かの型に順応している心は敏感であることはできません。そして、心が本当に敏感で、油断がなく、それ自身の出来事、反応、思考に気づいているときのみ、もはやなろうとしていない、もはや何かであるためにそれ自身を形作っていないとき―そのときのみ、心は真理であるものを感受することができるのです。幸福がありうるのはそのときだけなのです。というのは幸福は目的でなく、それは実在の結果であるからです。そして、心とハートが簡素に、それゆえ敏感になったとき―何かの形の強制、指図、押し付けによってではなく―そのとき私たちの問題は非常に簡素に取り組むことができることが見えるでしょう。どんなに問題が複雑であっても、それらに新しく接近し、それらを違って見ることができるでしょう。そしてそれが現在、望まれていることではないでしょうか?、この外部の混乱、騒乱、敵対に新たに、創造的に、簡素に出会う能力のある人たちが。左翼や右翼のどちらにせよ、理論でではなく、公式でではなく。そして簡素でないなら、それに新たに出会うことはできません。

 ほら、問題は私たちがそれに新たに接近するときのみ解決することができます。しかし宗教的、政治的、あるいは他の特定の型の思考の観点で私たちが考えているなら、それに新たに接近することはできません。それゆえ、簡素であるために、これらのすべての物事から自由でなければなりません。それが、気づいていることが、私たち自身を全体的に認識するように私たち自身の考える過程を理解する能力を持つことが、そんなにも重要である理由です。そして、そのことからそこに簡素が生じます。そこに徳や実践でない謙虚が生じます。獲得された謙虚は、謙虚であることを止めます。それ自身を謙虚にする心はもはや謙虚な心ではありません。そして非常に圧迫的な生の物事に人が出会うことができるのは、謙虚を、養成された謙虚でなく、持っているときだけです。なぜなら、そのとき自分は重要ではなく、自分自身の圧力と重要という感覚を通して見ないからです。人は問題をそれ自体のために見ます。そしてそのときそれを解決することができます。

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 質問: 私は様々な宗教的組織のメンバーであったのですが、あなたはそれらをすべて破壊しました。私はまったく退屈しています。そして飢えが私を強制するので働きます。朝起きるのが困難で、私は生に興味を持っていません。私は価値の人間的感覚の何もなしに、くる日もくる日も単に存在しているに過ぎないと実感します。しかし私はどんなものに対しても熱狂のひらめきを感じることができないのです。私は自殺するのではないかと心配です。この世で私はどうすればいいでしょうか? (笑)

 クリシュナムルティ: あなた方は笑うけれど、私たちの大抵はその位置にいるのではないでしょうか? なお多くの組織に属しているかもしれないけれど―宗教的、政治的、あるいはほかの―、あるいはそれらをすべてあきらめたかもしれないけれど、あなたの中に同じ内部の絶望がないですか? あなたは精神分析医のところに行ったり、告白しに行ったりして、それで当座はなだめられたと感じるかもしれません。しかし同じ孤独の痛み、喪失の感覚、目的のない絶望がないですか? 組織へ参加すること、様々な形の娯楽にふけること、知識にふけること、毎日の儀式を執り行うこと、その他もろもろが私たち自身からの逃避を提供します。しかしそれらが止んだとき、それらが聡明にも押しやられて、他の形の逃避によって置き換えられないとき、人はこのことに到達するのではないでしょうか? あなたはたくさんの本を読んだかもしれません、あなたは家族、子供、富に囲まれているかもしれません―毎年新しい車、最新の文学、最も新しい蓄音機、その他もろもろ。しかし、聡明に気晴らしを捨てるとき、あなたは必然的にこのことと直面させられるのではないでしょうか?―内部の挫折の感覚、目的のない、希望を失った絶望の感覚。多分あなた方の大抵はそれに気づいていないでしょう。あるいは、気づくなら、それから逃げます。しかしそれはそこにあります。それゆえ、人はどうすればいいでしょうか?

 まず最初に、その位置に到達することが非常に難しいと私には思われます。よく気づいていて直接にそのことに直面することが。ごくわずかの者がそのことに直接、ありのままに直面することが出来ます。なぜならそれはきわめて苦痛であるからです。そしてそれにまさに直面するとき、それを離れることを切望するので、何かを、自殺をさえしかねません―あるいは遠くに、何かの幻想の中に、何かの気晴らしの中に逃げ去ります。それゆえ最初の困難は、それに向かい合っていることに十分気づいていることです。確かに、人は何かを見出すことに絶望するにちがいありません。あなたがあなたの周りのあらゆるもの、あなたがそれを通って何とか逃げ出せそうなあらゆる出入り口を試みたとき、そしてそのどれ一つとして逃避を提供しないとき、あなたはこの地点に来るにきまっています。

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 さて、あなたが本当に、実際に、この地点にいるなら―想像の上でなく、他の何かをするためにそこにいることを望んでいるのでなく―、あなたが実際にそれと向かい合っているなら、そのとき、私たちは進んで、何をすべきか討論することが出来ます。そのとき進むことは価値があるでしょう。あなたが一つの逃避から次の逃避へ置き換えることを、一つの組織を去り、他のものに参加することを、次々と何かを追うことをやめたなら、そういったすべてをやめたなら―そしてそれはあらゆる聡明な人にとって、等しく止まなければなりません―、そのとき何が? さて、あなたがその位置にいるなら、次の反応は何でしょうか? あなたがもはや逃げていないとき、あなたがもはや出口を、それの避け方を捜していないとき―そのとき何が起こりますか? あなたが観察しているなら、私たちがすることはこうです。それに関する恐怖の感覚やそれを理解しようという欲求のため、私たちはそれに名前を付けます。付けないでしょか? 私たちは「私は孤独だ。私は絶望している。私はこうだ。私はそれを理解したい。」と言います。すなわち、名前を付けることによって私たちは、私たち自身と孤独、空虚と呼ぶそのこととの間に関係を確立します。私が話していることをあなたは理解すると思います。それに対する私たちの関係を言語化することによって、私たちはそれに心理学的意義のみならず神経学的意義を与えます。しかし、私たちがそれに名づけないで単にそれ見守る、それを見るに過ぎないなら、そのとき私たちはそれと異なる関係を持つでしょう。そのときそれは私たちから離れていません、それは私たちです。例えば、私たちは「私はそれを恐れる」と言います。恐怖は何かに対する関係の中にのみ存在します。その何かは、私たちがそれを抑制するとき、それに孤独であるというように名前を付けるとき生じます。したがって、あなたとその孤独は二つの分離したものであるという気持ちがあります。しかしそうでしょうか? あなた、観察者、が事実を観察しています。それをあなたは孤独であると称します。観察者は彼が観察するものと別個でしょうか? それは彼がそれに名前をつける限り別個です。しかしあなたがそれに名前を付けないなら、観察者は観察されるものです。名前、用語、は分割するようにのみ作用します。それであなたはそのものと戦わなければなりません。しかし分離がないなら、観察者と観察されるものとの間に統合があるなら、それは命名がないときのみ存在するのですが―あなたはそれをやってみることが出来ます、するとわかるでしょう―、そのとき恐怖の感覚はまったく去ります。あなたが空虚である、これである、あれである、絶望していると言うとき、これを見ることを妨げているのは恐怖です。そして恐怖は、あなたが名づけるとき生じる記憶としてのみ存在します。しかしあなたがそれを名づけることなしに見ることが出来るとき、そのとき、確かに、そのものはあなた自身です。

 それゆえ、あなたがその地点に到達するとき、もはや恐れるものに名づけていないとき、そのときあなたはそのものです。あなたがそのものであるとき、問題はないのではないでしょうか? 問題が起こるのはあなたがそのものであるのを望まないとき、あるいはそのものをそうであるものから違うようにしたいときだけです。しかしあなたがそのものであるなら、そのとき観察者は観察されるものです。それらは共通の現象で分離した現象ではありません。そのとき問題はないのではないでしょうか?

 どうか、これを実験してください。するとあなたはいかに速やかにそのことが解決され、超えられ、そして他のことが起こるかがわかるでしょう。私たちの困難は、それを恐怖なしに見ることが出来るその点に到達することにあります。そして恐怖は私たちがそれを認識し始めるとき、それに名前を付ける始めるとき、それに何かをすることを望むときのみ起こります。しかし観察者が、彼が空虚、絶望と呼ぶものと違わないのを見るとき、そのとき言葉はもはや意味がありません。言葉は何かであることを止めます。それはもはや絶望ではありません。言葉がその意味のすべてと共に除去されるとき、そのとき恐怖や絶望の感覚はありません。そのとき、さらに進むなら、恐怖がない、絶望がないとき、言葉がもはや重要でないとき、そのとき、確かに途方もなく大きい解放、自由があります。そしてその自由の中に創造的存在があり、それは生に新鮮さを与えます。

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 言い換えれば、私たちはこの絶望の問題に習慣的な道を通って接近します。すなわち、私たちはその問題を翻訳するために過去の記憶を持ち運びます。そして過去の結果であり、過去に基づいている思考は、決してその問題を解決できません。なぜならそれは新しい問題であるからです。あらゆる問題は新しい問題です。そしてそれに過去の重荷を負って接近するとき、それは解決されません。それに思考の過程である言葉のスクリーンを通して接近することは出来ません。しかし言語化の過程が止まるとき―あなたはその全過程を理解するのでそれを離れます―、そのときあなたは問題に新たに出会うことが出来ます。そのとき問題は、あなたがそうであると思う事ではありません。

 それゆえ、あなたはこの質問の終わりに「私はどうすればいいのですか? ここに私は絶望し、混乱し、苦しんでいます。あなたは私に、従うための、自由になるための方法を与えていません」と言うかもしれません。しかし、確かに、私が言ったことを理解したなら、鍵はそこにあるのです。あなたがそれを用いることができるなら、あなたが理解するよりずっと多くを開く鍵が。そのときあなたは、いかに私たちの生の中で、言葉が途方もなく重要な役割を演じているかを見ることが出来ます。神、国家、政治的指導者、共産主義、カソリック教というような言葉―言葉、言葉、言葉。なんと途方もない意義を、それらは私たちの生の中に持っていることか! そして私たちが問題を新しく理解することを妨げているのはこれらの言葉です。本当に簡素であることは、これらの印象、言葉とその意義でごちゃごちゃしていないことです。そして問題に新しく接近することです。そして私はあなたに保証しますが、あなたはそれをすることが出来ます。あなたがそれをすることを望むなら、それはまったく楽しみです、というのはそれはとても多くあらわにするからです。そしてこれが、どんな基本的問題でも取り組む唯一のやり方であると感じます。あなたは表面的なレベルでなく、非常に深い、深遠な問題に取り組むにちがいありません。そしてこの私たちの大抵が幾分は、まれな瞬間には知っているこの孤独の、絶望の問題は、単にある種の気晴らしや崇拝に逃げ込むことによって解消すべきものではありません。それはいつもそこにあります。あなたが何の言語化もなしに、あなたとそれの間に何のスクリーンもなしに、それを直接取り扱い、それを直接経験できるまで。

 質問: 静かなときに、あなたの言うことの真実を見、目覚め続けようという熱望を持っていますが、しかし気づくと、繰り返し衝動と小さな欲望の海の中にいる人に言うことをお持ちですか?

 クリシュナムルティ: これは私たちの大抵に起きていることではないでしょうか? 私たちは時には目覚めており、別のときには眠っています。時には私たちはあらゆるものを、意味を伴って明確に見ます。他のときにはすべてが混乱し、暗く、はっきりしません。時おり、どんな種類の行動にも関係のない、歓喜の途方もない高みがあります。他の瞬間には私たちはそのことのために苦闘します。さて、人はどうすればいいのでしょうか? 記憶し、ちょっとだけ見たそれらの物事を記憶し、目覚め続け、それらに頑強にぶらさがるべきでしょうか? あるいは、私たちは小さな欲望、衝動、生の暗い物事を、それらが瞬時瞬時起こるとき、対処すべきでしょうか? 私たちの大抵はその悦びにしがみつくことを好むのを私は知っています。私たちは努力します。抵抗するために、取るに足りない小さなことを克服するために、私たちは私たち自身を鍛錬します。そして眼を地平線に固定し続けようとするのです。それが私たちの大抵が望むことではないでしょうか? なぜなら、それがずっと容易であるからです―少なくとも私たちはそう思います。私たちは過ぎ去った、私たちに大きな歓喜、喜びを与えた経験に目を向け、それにしがみつくのを好みます。年老いたある人たちが彼らの若いころに目を向けるように。あるいは、ほかのある人たちのように、未来に、来世に、次のとき、明日かこれから百年後に達成する、何かの偉大なことに目を向けます。すなわち、過去の意義を高めて、過去のために現在を犠牲にする人がいます。そして未来の意義を高める人が。その人たちは両者とも同じです。異なる組み合わせの言葉が用いられていますが、しかしまさに同じ現象があります。

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 さて、どうすればいいのでしょうか? まず最初に、なぜ私たちは快い経験にしがみつきたいのか、あるいは快くないものを避けるのかを見出しましょう。なぜ私たちは、肉体的あるいは心理的に大きな喜びを与えたものに執着し、掴みつづけるこの過程をやり通すのでしょうか? なぜ私たちはこれをするのでしょうか? なぜ過ぎ去った経験がそのような多くの重要性を持つのでしょうか? なぜなら、その途方もない経験なしには、現在の中には何もないと感じるからではないですか? 現在は恐ろしい退屈なもの、試練です。したがって、過去を考えましょう。現在は面倒な、しつっこい、わずらわしいものです。したがって、少なくとも私たちは将来に何かでありましょう―仏陀、キリスト、あるいは神様だけが何かご存知です。

 それゆえ、過去と未来が有用な、あるいは快いものになるのは、私たちが現在を理解しないときだけです。そして現在に対して、私たちは鍛錬します。現在に、抵抗します。なぜなら過去を、すべてのあなたの経験、知識、蓄積、装飾物を取り去ってみてください―するとあなたは何なのでしょうか? その過去をもってあなたは現在に出会うのです。したがってあなたは実際は決して現在に出会っていないのです。単に過去や未来によって現在をかげらせているに過ぎないのです。そして私たちは現在を理解するように私たち自身を鍛錬します。私たちは「私は過去のことを考えてはならない、未来のことを考えてはならない。私は現在に集中しよう」と言います。あなた自身を明日、あるいは過去の中で、あるすばらしい存在として考え、そして「今私はそれを理解しなければならない」と言うことの欺瞞性、ばからしさ、幼稚さをあなたは見ます。規律を通して、強制を通して何かを理解することができますか? 子供をしつけることによって、表面上静かにするように強制するかもしれません。しかし内部では彼は沸き返っているのではないですか? 同様に、理解するように私たち自身を強制するとき、何か理解があるでしょうか? しかし、私たちが本当の愚かしさを見ることが、過去への、あるいは未来に何かになることへの愛着の意味を見ることができるなら―本当にそれを理解するなら―、そのとき、それは心に、現在に出会う感受性を与えます。

 それゆえ、私たちの困難は現在を理解することではありません。私たちの困難は過去や未来に対する私たちの愛着です。それゆえ、私たちが愛着するのはなぜかを調査しなければなりません。なぜ過去が年老いた人にとってそんなに重要なのでしょうか?、他の人にとって未来がそうであるように。なぜ私たちはそれにそのように愛着するのでしょうか? なぜなら、経験は私たちを豊かにしたと思うからではないでしょうか? それゆえ、過去は意義を持ちます。人が若いとき、海の上の光、かすかな光を捕らえました。今はあせた新鮮さがありました。しかし、少なくとも、そのかすかな光、その途方もない鋭気の感覚、その 他のものであることの、青春の感じを思い出すことが出来ます。それゆえ、人は戻り、そこで生きます。すなわち、死んだ経験の中に生きるのです。それは過ぎました。それは死にました。それは去りました。それにもかかわらず、それについて考えること、その中に生きることによってそれに生命を与えるのです。しかしそれは死んだものです。それゆえ、そうするとき、人はまた現在の中で死んでいるのです―非常に多くの人たちがそうであるように―あるいは未来の中で。言い換えると、人は現在の中で何者でもないのを、簡素であるのを、現在に敏感であるのを恐れ、そこでその人の昨日の経験で内容を豊かにしたいのです。それは豊かにすることでしょうか? 昨日の経験は豊かにしているでしょうか? 確かにあなたはそれらの記憶を持っています。記憶は豊かにしているでしょうか? それとも、それは単にごくわずかな内容しか持たない言葉に過ぎないのでしょうか? 実験してみれば、確かに、あなたはあなた自身でそれを見ることが出来ます。内容を豊かにするのを過去のものに頼るなら、私たちは言葉の上で生きているのです。私たちは生命を過去に与えます。過去のものはそれ自身の中に生命を持っていません。それは現在に対する関係の中にのみ生命を持つのです。そして現在が不愉快なとき、私たちは過去のものに生命を与えるのです。そしてそれは確かに豊かにすることではありません。あなたが豊かであると自覚するとき、あなたは確かに貧しいのです。あなた自身を何者かであると自覚するとき、明らかにあなたは、あなたがいまそうであるものを否定しているのです。あなたが有徳であると自覚するなら、確かにあなたはもはや有徳ではありません。幸福であると自覚するなら、どこに幸福があるのでしょうか? 幸福は自己忘却があるとき、重要としてのミーの感覚がないときのみ生じます。しかし過去や未来がもっとも意義があるとき、ミーが重要になります。自己が重要になります。それゆえ、何者かであるために自己を単に鍛練することは、決してミーとしての自意識がないあの状態をもたらすことは出来ません。

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 質問: 私は何にも興味がありません。しかし大抵の人はたくさんの興味で忙しいのです。私は仕事をする必要がないので、それでしません。私は何か有益な仕事に従事すべきでしょうか?

 クリシュナムルティ: 社会運動家や、政治運動家や、宗教活動家になる―そういうことでしょうか? なぜならあなたは他に何もすることがないので、したがって改革家になる!(笑い) あなた、することがないなら、退屈なら、なぜ退屈していないのですか? なぜそうでないのですか? あなたが悲しみの中にあるなら、悲しんでいなさい。それからの出口を見つけようとしないでください。なぜなら、あなたが退屈していることは、それを理解しそれと共に生きることができるなら、巨大な意義を持っているからです。しかしあなたが「私は退屈だ。したがって何かほかの事をしよう」と言うなら、あなたは単に退屈から逃げ出そうとしているに過ぎません。そして、私たちの大抵の活動が逃避であるので、あなたは社会的に、またあらゆるほかのやり方で、もっと多くの害をします。あなたが逃避するとき、あなたが現状のあなたであり、それと留まるときより、害はずっと大きいのです。困難はどうやってそれと留まり、そして逃げ出さないかです。そして私たちの活動の大抵は逃避の過程であるので、あなたが逃避するのをやめ、それに直面することはとても難しいのです。それゆえ、あなたが本当に退屈しているなら私は嬉しいのです。そして私は言います。全停止。そこに留まりましょう、それを見ましょう。なぜ何かをしなければならないのでしょうか? あなたが逃避しているとき、その状態の中で、あなたが人々に対してはるかに多くの害を引き起こしていないとどうやってあなたは知るのでしょうか? 何かへのあなたの逃避は幻想です。そしてあなたが幻想の中に入り、その幻想を広めるとき、あなたは単に退屈したままでいるより、ずっと多くの害をしているのではないでしょうか? あなた、あなたが退屈しているなら、そしてそのままでいるなら、あなたは何をすることが出来るでしょうか? この人は生きていくに十分なお金を持っていると言います。それゆえ、彼はしばらくの間はその問題がありません。

 あなたが退屈しているなら、なぜあなたは退屈しているのでしょうか? 退屈と呼ばれるものは何でしょうか? あなたが何にも興味を持たないのはなぜでしょうか? あなたを鈍くした理由と原因があるにちがいありません。苦しみ、逃避、信念、絶え間ない活動、が心を鈍くしました。ハートを柔軟でないようにしました。あなたを鈍くした原因が何であるか見出すことは分析することではありません。それはまったく違う問題です。それは別の折に議論しましょう。しかし、もしもなぜ退屈なのか、興味がないのか見出すことができるなら、そのとき確かにあなたは問題を解決するのではないでしょうか? そのとき目覚めた関心が働くでしょう。しかし、なぜあなたが退屈なのかに興味がないなら、活動に興味を持つようにあなた自身に強要することは出来ません、単に何かをするように―かごの中で廻るリスのように。これが私たちの大抵がふける種類の活動であるということを私は知っています。しかし、なぜまったくの退屈のこの状態に私たちがあるのか、内部で、心理的に見いだすことが出来ます。私たちはなぜ私たちの大抵がこの状態にあるのか見ることができます。つまり、私たちは情緒的にも精神的にも疲れ切っているのです。私たちはそんなにも多くの物事、そんなにも多くの興奮、そんなにも多くの娯楽、そんなにも多くの実験をやってみて、鈍く、うんざりしてしまったのです。私たちは一つのグループに参加し、望まれるあらゆることをし、それからそれを去ります。それから他の何かをしに行き、それをやってみます。一人の心理療法家で失敗するなら、他の誰か、あるいは牧師のところに行きます。そこで失敗するなら、他の教師のところに行くなどなど。私たちは常に行き続けます。常にいっぱいに伸ばし、前へ行こうとするこの過程は疲れ果てるのではないでしょうか? すべての刺激的感覚のように、それはやがて心を鈍くします。

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 それで、私たちはそれをしました。刺激的感覚から刺激的感覚へ、興奮から興奮へ、本当に疲れ果てる点に到達するまでやったのです。さて、それを理解するとき、もう先へ進まないでください。休みを取ってください。静かにしてください。心にそれ自身で力を集めさせてください。それを強制しないでください。冬の間に土がそれ自身を新しくするように、そのように、心が静かであることを許されるとき、それはそれ自身を新しくします。しかし心が静かにしているのを許すことは、こういったことの後で休ませておくことは非常に困難です。というのは心は何時も何かをしたがるからです。そしてあなたが本当にあなた自身に、そうであるままにしていることを―退屈している、醜い、いやらしい、あるいはそれが何であれ―許すその点に到達するとき、そのとき、それを処理する可能性があるのです。

 何かを受け入れるとき、あなたの現状を受け入れるとき、何が起こりますか? あなたがあなたの現状のものであるのを受け入れるとき、どこに問題がありますか? 問題があるのはあなたが事をそのままに受け入れないで、それを変容させようと望むときだけです―それは私が満足を唱導しているということではありません。それとは反対です。それゆえ、私たちが私たちの現状を受け入れるなら、そのとき、私たちが恐れていること、退屈と呼んでいること、絶望と呼んでいること、恐怖と呼んでいることは完全な変化を経たことを私たちは見ます。私たちが恐れたことの完全な変容があります。

 それが、私が言ったように、私たち自身の考える過程、やり方を理解することが重要である理由です。自己認識は、誰を通しても、どんな本を通しても、どんな告白や、心理学、心理分析家を通しても集めることは出来ません。それはあなた自身によって見出される必要があります。なぜならそれはあなたの人生であるからです。そしてその自己の認識を広げ、深めることなしには、あなたが何をしようが、外部や内部の環境、影響を変えようが―それはいつも絶望、苦痛、悲しみの温床であるでしょう。心の自己閉鎖する活動を超えるためには、それらを理解しなければなりません。そして理解することは、関係、物事に対する、人々に対する、観念に対する関係の中での行為に気づいていることです。その関係の中に、それは鏡ですが、私たちは私たち自身を何の正当化も非難もなしに見始めます。そして私たち自身の心のやり方の、そのより広くより深い認識から、さらに進むことが出来ます。そのとき、心が静かであることが、実在であるものを受け取ることが出来るのです。

 1949年7月24日

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