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ハートで聞くこと

J. Krishnamurti: Exploration into Insight -
'Listening with the Heart' Madras 7th december 1976
洞察の中への探究 - 「ハートで聞くこと」

 P: 私たちすべてに欠けている中心的な要点は慈悲の要素であると私は感じます。ベナレスで、あなたはかつて「ハートで聞くことができるでしょうか?」という表現を使いました。ハートで聞くということはどういうことを意味しているのでしょうか?

 K: それを討論しましょうか?

 FW: 物質の性質を調べていただけないでしょうか?

 K: ほら、あなた、私が言ったことは思考は物質的な過程であり、何であれ思考が組み立てたもの―技術的、心理的信念、神々、思考に基いた宗教の全構造、は物質的な過程であるということです。その意味での思考は物質です。思考は経験、細胞に蓄積された知識であり、知識によって設定された特定の溝の中で作動しているのです。そのすべては私にとって物質的な過程です。物質が何であるか、私は知りません。知らないのでそれを議論すらしたくありません。

 FW: 私は科学者の観点からそれを調べようとしているのではありません。物質は未知の何かであるとしましょう。そこで私は思うのですが、私たちが未知のものを探究するとき...

 K: 未知のものを探究することはできません。注意してください。既知のものを探究することが、その限界に行くことができます。そしてその限界に到達するとき、それの外に出ているのです。既知のものを探究することが出来るだけです。

 P: それは、思考を、ということですか?

 K: もちろん。しかし、未知を調べよう、探究しよう、調査しようと言うとき、できません。そこでププルが質問していますが、それはこうです。慈悲をもって聞くということは何でしょうか、どういうことでしょうか?

 P: これは決定的なことです。私たちが慈悲を持っているなら、何もかもがあります。

 K: 同感。しかし、あいにく、私たちはそれを得ていないのです。それでどうやって私たちはこの問題に接近すべきでしょうか? 聞くというのはどういうことでしょうか、そして慈悲の性質と構造は何でしょうか?

 P: そしてこのハートで聞くということは何でしょうか? それは非常に重要なことです。耳が聞くよりもっと深い聞くことがあるのでしょうか?

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 K: 私たちは二つを取り上げていいでしょうか。聞くことと、ハートで、慈悲をもって聞くこと。最初に、聞くということはどういうことでしょうか、聞くことの術(すべ)は何でしょうか?

 FW: 反対の回り道をすることによって、主題に近づくことが出来るかもしれません。聞いていないとはどういうことでしょうか?

 K: どういうことですか、あなた?

 FW: 聞くことがどういうことか尋ねるとき、それは非常に難しく思われます。私は思ったのですが、たぶん聞いていないということがどういうことか、非常に明確であるなら...

 K: それは同じ事です。すなわち、否定を通して肯定的なものに到ります。もしも聞くことが何かを見出し、聞くことの調査の中で聞いていないことを否定できるなら、そのときあなたは聞いています。それがすべてです。

 P: 進んでいいですか? そこで二つの問題が含まれています。それは聞くこととは何なのか―その中に聞いていないことが含まれています―そして慈悲とは何なのか?です。その気持の性質と構造、そしてその気持の深み、そしてそれから生じる行為は何でしょうか?

 K: 続けてください。それを論じてください。

 FW: この慈悲の質問のなかに、私たちは同じ問題を持っていると感じます。なぜなら、私は慈悲は既知の領域に何の関係も持っていないと感じるからです。

 K: 彼女は他の何かを言っていました、あなた。あなたのハートで聞くとはどういうことでしょうか? それが彼女が言っていたことです。私が「慈悲」という言葉を導入しました。たぶん、しばらくの間、それを無視することが出来るでしょう。

 P: クリシュナジがハートで聞くことを話しました。私はそれを調べることに興味があります。

 K: それでそれら二つのことを離れないようにしましょう。聞くこと。そして自分のハートで聞くこと。それはどういうことでしょうか?

 R: 思考での反応は断片的であると私たちは言っています。私たちがその反応を観察とか、聞くこととか、何であるにせよ呼ぶとき、それは同じものです。そうではないですか? そこで、ハートは非断片的なのでしょうか? それが私たちの言っていることでしょうか?

 K: さて、ちょっと待ってください。すべての感覚の全面的開花のもとに聞くことが一つのことです。特定の感覚で部分的に聞くことは断片的です。

 R: はい。

 K: すなわち、私がすべての感覚で聞くなら、そのとき聞いていること、あるいは聞いていないことの否定の問題はありません。しかし私たちは聞かないのです。

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 S: あなた、あなたがハートで聞くことを話しているとき、私の反応は私がそれを知らないということです。しかし、その中では意識が思考ではない動き、感情、傾聴があります。ラーダージや誰かの言うことを聞いているとき、感情の動きがあることがわかります。人がそれでもって他の人の言うことを聞く、特定の感情があります。その感情がそこにあるとき、違った種類の伝達があります。

 K: 感情は思考と違っているのでしょうか?

 S: それが私が到達しようとしていることです。

 P: それは思考と違っています。

 S: 感情が思考と違っていないなら、私たちは思考の運動から離れて何の運動も知りません。その言われたことを受け入れるのは非常に困難です。なぜなら私たちは優しさ、愛情もまた経験しているからです。あらゆることが思考の範疇の中におかれるなら、それが意識の全体であるなら、そのとき...

 K: 私たちは明確でなければなりません。それを分類しないでください。ゆっくり行きましょう。私は思考で聞くのでしょうか、それとも思考で聞かないのでしょうか? それが問題です。

 S: 両方が...

 K: スナンダ、ゆっくり行きましょう。思考の運動を伴なって聞くのでしょうか、それとも思考の運動なしに聞くのでしょうか? 私は尋ねています。

 P: 私たちは思考なしに聞くことが出来るでしょうか?

 K: ええ。

 P: 時には、人生に一度かもしれませんが、人はハートと心と意識が一つである全体的な感情を得るのです。

 K: それがわかります。

 P: 思考なしに聞くことがあるかどうかを尋ねるとき、私たちは「はい、そうです」と言うことができます。しかし、そう言っていいなら、なお欠けているものがあります。

 K: そのことに到達するでしょう。ゆっくりこれを調べましょう。

 A: 感受性のボルテージが低い状態でははっきりした思考はないかもしれませんが、聞くことはあります。その聞くことは感受性に欠けています。それゆえ、それは生き生きとしていません。

 K: 私たちは伝達するとはどういうことかで始めなければならないと思います。私は、私が深く関心のあることをあなたに話したいと思います。あなたはひとが提出している問題を、質問を、言明をくみ取る準備をしなければなりません。それはあなたが話し手と同じ関心、あるいは同じ強烈さを持ち、そしてまた彼に同じレベルで会わなければならないということを意味します。このすべてが伝達の中に含まれています。さもなければ伝達はありません。

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 S: 関心を理解することはできますが、レベルは知ることが非常に困難です。

 P: 少し話していいでしょうか? 「伝達」という言葉を導入する中で、あなたは二つのものを導入しています。ハートから聞くことの中に二つのものはないかもしれません。

 K: ええ。私たちはそのことに到達するでしょう。自分のハートで聞くこととは何でしょうか? 私はあなたに、私が深く感じる何かを話したいのです。どんなふうにあなたはそれを聞きますか? 私はあなたにそれを私と共にして欲しいのです。あなたに私と一緒にそれを感じて欲しいのです。あなたに私とかかわって欲しいのです。さもなければ、どうして伝達があり得るでしょうか?

 S: どうやってレベルを知るのでしょうか?

 K: それが知的な、言葉の上のものでなくて、強烈な問題、燃えている問題、私があなたに伝えたい、あなたと共にしたい深い人間の問題である瞬間。そのとき、私たちは同じレベルにいるに違いありません。さもなければあなたは聞くことができません。

 S: 深い真剣さがあるなら、正しいレベルがあるのでしょうか?

 K: あなたは今聞いていません。それは私の問題です。私はあなたに大いに重要な何かを話したいのです。私はあなたにそれを聞いて欲しいのです。なぜなら、あなたは人間であり、それはあなたの問題であるからです。あなたはそのことを実際に調べてはいないのかもしれません。そこで、それを私と共にする中で、あなたはあなた自身のそれに対する強烈さをさらけ出しています。したがって聞くことは共にすること、非言語的伝達を意味します。言葉の上の歪みがないことを意味する、聞くことがあるに違いありません。共にすることがあるに違いありません。

 P: 明らかにあるレベルがあるときにのみ伝達することができるのです。

 K: それが私が言っていることです。さて、スナンダ。あなたはどんなふうに私に耳を傾けますか? そのように聞いてくれますか?

 S: 人は誰もかれもをそのようには聞かないと思います。

 K: 私はいま話しています。私はあなたに尋ねています。あなたはそのように私に耳を傾けますか?

 P: あなたに私たちは耳を傾けます。

 K: 何故なら、あなたは私についてイメージを作っているからです。そしてそのイメージにあなたは重要性を与え、それゆえあなたは耳を傾けます。

 S: イメージにだけではありません。

 K: あなたは私の要点を逸しています。あなたは目下話しているこの人に耳を傾けれるだけでなくて、ラーダーがそれを話しているときラーダーに耳を傾けることが、あるいはパーチャーやあなたや誰かが何かを言っているとき耳を傾けることができますか? あなたは耳を傾けることができますか? 彼は言葉に述べることができないかもしれない何かを、あなたに伝えるかもしれません。そこであなたは、同じように、私たち皆に耳を傾けるでしょうか?

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 S: 私たちはあるひとに耳を傾けます。すべてのひとに耳を傾けません。

 K: 何故?

 P: 先入観のためです。

 K: もちろん。そこには、伝達はありません。

 P: あなた、真実の中に確立されており、静寂から話している声を聞くこと、それを受取ること、それが思考から話している声を聞くことと同じであることができるか?と言うつもりですか。 どうかその質問に答えてください。

 K: あなたは限定しすぎます。

 P: いいえ、それは限定しすぎません。あなたが話すとき、あなたの声は違っています。

 R: ともかく受取ることが、ともかく聞くことがあるかどうかが要点だと私は思います。受取っているなら、そのとき、それが真実の声か他の何かであるかの疑問は起こりません。

 P: それは私たちには起こりません。

 Raj: 私たちは動機を持って聞きます。動機は非常に微妙、あるいは非常に明白かもしれません。私たちが他の人の言うことを聞くとき、それから何も得ないだろうと私たちは思います。それが私たちがKの言うことを聞くとき、より多くの注意がある理由です。

 K: そこでどうやって私達はそのすべてを変えて、お互いを聞くでしょうか?

 FW: 私たちは解釈しているということでしょうか?

 K: いいえ、私が言っていることを解釈しないでください、後生ですから、聞いてください。私はカータのところに行き、私はカラテを何も知らないと彼に言います。私はそれを映画で見ますが、しかし私はカラテを知りません。そこで私はいま、知らないで彼のところに行きます。したがって私は聞いています。しかし私たちは知っています―そしてそれがあなたの困難です。あなたはこれはこのようであるべきである、これはあのようであるべきであると言います。すべて推測、意見です。私が言葉を使うやいなや、あなたは十分に活気があります。しかし最も重要なことは聞くことの芸術です。芸術はあらゆるものをその正しい場所に置くことを意味します。あなたは先入観を持っているかもしれません。あなたは結論を持っているかもしれません。しかし、聞いているとき、それらを捨ててください―解釈、比較、判断、評価、そのすべてを捨ててください。そのとき伝達が起こります。誰かが「私はあなたを愛します」と言うとき、「私にそれを考えさせてください」とは言いません。

 R: すなわち、あらゆることを捨てることは、同じ強烈さを持ち、同じレベルにあることと同じです。

 K: さもなければ、その要点は何なのでしょうか?

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 R: 私はこれがわかりましたが、それをしていません。

 K: それを今してください。

 S: あなたは、聞く行為がさしあたって全部のものを消し去る、飲み込むと言っているように私には思われます。

 K: 私が「あなたを愛します」と言うとき、何が起こります?

 S: しかし誰もそれを私たちに言いません。

 K: しかし私がそれをあなたに言っています。

 S: いいえ、あなた、普通の生活では、それはあまりそのように起こりません。

 K: それゆえ聞く芸術とは何でしょうか、自分のハートで聞くとはどういうことでしょうか? あなたがハートで聞かないなら、それには意味がありません。あなたが気遣い、注意、愛情の感覚、お互いの親交の深い感覚で聞くなら、それはあなたがすべての感覚で聞くということを意味します。そうではないでしょうか?

 P: 十分さでもって。

 K: あなたはそのように聞くでしょうか? 私たちは好きでない誰か、愚かだと思っている誰かの言うことを聞くことができるでしょうか? あなたはその男性あるいは女性の言うことをあなたのハートで聞くことができるでしょうか? あなたがその感覚を持つとき、言葉が重要であるとはもはや思いません。

 

 進みましょう。それから何? 私が聞くと思ってください。私は生の中でしばしばそれをしました。私は非常に注意深く聞きます。私は先入観を持ちいません。私は絵図を持ちません。私は結論を持ちません。私は政治家ではありません。私は誰かに耳を傾けている人間です。私はただ聞きます。なぜなら彼は私に、彼自身について何かを告げようと望んでいるからです。彼は私のイメージ、絵を持ってしまっているので、一般にマスクをかぶって私に会いに来ます。彼が私と真剣に話したいなら、私は「マスクをお取りなさい。それを一緒に見ましょう。」と言います。私は彼が招かない限り、マスクの後ろを見ようとは思いません。彼が「よろしい、あなた。それを話しましょう」と言うなら、私は聞きます。そして聞く中で、彼は私にすべての人間にそんなにまったく、完全に共通である何かを話します。彼は間違ってそれを述べるかもしれません。愚かしくそれを述べるかもしれません。しかしそれはあらゆる男性や女性が悩んでいることです。彼はそれを私に話しており、私はそれを聞きます。したがって彼は私に人間の歴史を話しているのです。それで私は言葉、彼の表面の感情を聞くだけでなく、彼が言っていることの深遠な深みもまた聞いているのです。それが表面的であるなら、そのとき私たちは表面的に論じ、彼がこのことを深く感じるまでそれを押し進めます。わかりますか? 彼は非常に表面的である感情を表現しているかもしれません。表面的であるなら、私はもう少し深く進みましょうと言います。そこで次第に深く進む中で、彼は私たち皆にまったく共通である何かを表現しています。彼はすべての人間にまったく完全に属するものを表現しているのです。おわかりですか? それで彼と私の間に分離はありません。

 P: その聞くことの源は何ですか?

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 K: 慈悲。そこで、慈悲とは何でしょうか? フリッツが言うように、それは私たちには未知です。そこでどうやって私は、慈悲であるその途方もない英知を持ったらいいでしょうか? 私はその花を私のハートに持ちたいと思います。さて人はどうすればいいでしょうか?

 FW: 慈悲は思考の領域の中にありません。したがって私は決してそれを持っているという感情を持つことができません。

 K: ええ、あなたはそれを見出さないでしょう―それはドリルのようです。ねじ回しのようです。押し進め続けなければなりません。

 P: それには芳香があるに違いありません。

 K: もちろん。芳香なしに、蜜なしに慈悲を話すことはできません。

 P: それはそこにあるか、そこにないかです。それでは、あなた、私たちがあなたと話しているとき、私たちがこの感覚を持つのはなぜでしょうか? あなたが、すべての先入観、すべての障害を叩き出すこのものすごい衝撃を持っていて、これが即座に心を静かにさせるのはなぜでしょうか?

 K: それは小さなバケツか、とても運べない巨大なバケツを持って井戸に行くようなものです。私たちのたいていは小さいバケツを持って行き、井戸から不足な水を汲み出します。それはあなたの庭に泉を持っているようなものです。流れ続けています。私はそれを見つめたいと思います。それを外のそこと内部に見たいと思います。そこで私はどうすればいいでしょうか?

 FW: 私は何がそれを私が持つことを妨げているのか見出そうとします。

 K: それは分析です。私は分析しません。何故ならそれは時間の浪費であるからです。私はそれを理解しました。私がそれを言い、あなたが受け入れたためではなくて、私が理由、論理、意義、したがってその真実を見るからです。したがって分析は問題外です。

 S: それだけではありません、あなた。私はまた、規則正しく瞑想して座わること、静かにしていること、これらのことのどれもそれに何の関係もないことを見ます。私が経てきたあらゆる種類の二重性や経験もまたそれと何の関係もありません。

 K: 聞いてください、スナンダ。ラーダーとププルはこのものを裏庭に得ています。彼女らはそれがそこにあるので、それについて話しません。それは花開き、流れ、さらさらと音を立てています。あらゆる種類のことが起こります。そして私は言います。なぜそれは私の裏庭にないのだろうか? 私は見出したいのです。模倣したいということではなく。しかしそれは起らなければなりません。私は何が私を妨げているか、何が私を阻止しているか分析しません。静かにすべきか、静かにすべきでないか尋ねません。それは分析の過程です。あなたがこれをわかるかどうか私はわかりませんが?

 S: それは明確です、あなた。

 K: それがどういうことか本当にわかりますか?

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 S: 「本当にわかる」とはどういうことでしょうか?

 K: 見てください。あの人たちはそれを得ました。私は得ていません。私はそれを持ちたいと思います。私はそれを貴重な宝石を見るように見たいと思います。どうやってそれは私に起こればいいのでしょうか? それが私の探究です。彼は、私を阻止しているものに私が注目していることを示唆しました。彼はそれは分析の過程であり、分析は時間の浪費であると言いました。あなたがそれを実際にわかっているかどうかわかりません。分析と分析者は両方とも同じものです。それに時間を掛けないでください。それについて瞑想、脚を組んで座るやら何やら、をしないでください。あなたは時間がありません。さて、分析を止めることができますか? すっかり? それができますか? すごい危機があるときあなたはそうします。そのとき分析する時間がありません。危機の中にいます。あなたはこのことの中にいますか? 私の質問がわかりますか? すなわち、彼女はその途方もない芳香、それは彼女にとってはまったく自然なのですが、を得ているのです。彼女は「どうやってそれを得たらいいか? 私はそれについてどうすればいいだろうか?」と言いません。彼女はともかくもそれを得ているのです。そして私はそれを持ちたいと思います。私は人間であり、それなしには何も重要ではありません。それでそれはそこになければなりません。そして私は分析についての真実を見ます。したがって私は決して分析しません。なぜなら私はこの問題の真っ只中にいるからです。私は没頭しています。問題で燃えています。家は燃えており、私はその火が燃えついているのです。

 R: あなた、ことの美しさがどこかに存在するやいなや、質問は起こりません。どうやって私はそれを持てばいいでしょうか?

 K: 私はそれを欲します。どうやって私はそれを持てばいいでしょうか? 私は気にしません。私は空腹なのです。あなたは空腹を分析しません。

 R: 私はそのことを言っているのではありません。

 K: すみません、あなたは何を言っていたのですか?

 R: 私は、人がこれで満たされているある瞬間のときには「私はそれを望む」は起こらないということを言っています。私はどの程度まで人が芳香で満たされているかわかりませんが、この感情、「私はそれが欲しい」はそこに存在しません。

 K: あなたは私の言葉で、私の強烈さで満たされているのかもしれません。そして次にあなたはそれを得たと言います。

 R: 私はそれを得たと言いません。しかし...

 K: 単純でありましょう、ラーダー。あなたは裏庭にあるものを持っています。ごく少数の、ごくごく少数の人たちが持っている泉。世人は水について話すかもしれません。世人は泉の美しさ、歌と水について話すかもしれません。しかしそれはそれではありません。しかしあなたはそれを得ています。そして人間として、私はそれがいかに素晴らしいかを見ます。私はそれの方に行きます。それを欲するということではなく。私はそれの方に行きます。私はそれを持っていません。私は何をすればいいでしょうか?

 FW: 私がすることのできる何かがありますか?

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 K: あるかも知れないし、ないかも知れません。たぶん要求が非常に大きいので、私はあらゆるものを脇におきます。要求それ自体があらゆるものを脇におきます。わかりますか? 家は燃えています。議論はありません。どのバケツを使うか、どのポンプを使うかの比較検討はありません。

 P: それはエネルギーの量と非常に密接に連結していませんか?

 K: よろしい。彼女はそれはエネルギーの炎と連結していると言います。いいえ、ププル、何かを望むとき、地獄のように燃えます。人は燃えませんか? あの娘やあの男性を欲しがるとき、そうです。

 FW: それは違いを生じます。

 K: 私は危機を作り出したいのです。そのとき行為があります。私が言っていることがわかりますか? あなたは危機を避けるか行動するかどちらかです。ププル、危機は起きていますか? 何故ならそれは非常に重要な問題であるからです。私があなたのところに来てこのすべてを話します。あなたは聞ける限り、行ける限り聞きます。だが何も起こりません。あなたは来る年も次の年も聞きます。いつも少し歩みを進めます。そして終りまでにはあなたは死んでいます。彼がしたいことは凄まじい危機から生じる行動をもたらすことです。彼はそれをめちゃめちゃにしたいのです。何故ならそのとき何の議論もないからです。何の分析もないからです。彼は危機を作り出しています。その危機は彼の影響、彼の言葉、彼の感情、彼の切迫さの結果でしょうか、それともそれはあなたが打破するために得ている危機でしょうか? それが彼の意図です。彼はそれが重要な唯一のものであると言います。

 A: 危機は、それに対して私が適当な内部の応答を見出すことができない外部の挑戦です。そして私は適当な内部の応答を見出せないので、この危機があるのです。あなたが話していると私が理解したもう一つの危機は、外部の事実によって起こされたのではまったくなく、それは内部からの投射です。

 K: 彼の意図は表面的でなく、外部でなく、内面の危機を作り出すことです。

 A: これら二つの方向は別個でないのでしょうか? 心が外部の危機を求めていて、内部からの適切な応答を求めているとき、それは危機の一つの型です。危機のもうひとつの型は、あなたの内部に不十分さの深い感覚があり、それは重い責任であるので、捨てることができないとそれは言います。

 K: 彼はその危機をあなたの中につくり出しました。彼は真実を話しています。あなたが彼に話すとき、危機がありますか? 彼の要求はあなたの中に危機が、表面的でない危機がなければならないということです。それがハートで聞くことであると私は思います。彼は、そんなに深く、あなたを内部に向けました。あるいは、頼みの綱すべてを取り払いました。それがハートで聞くことであると私は思います。モンスーンがあなたに言います。「どうかできる限りのあらゆる水を集めなさい。次の年モンスーンはないでしょう」。わかりますか? それはあなたに水を集めるためのあらゆる種類の入れものを建てさせます。それで、その終りに私たちはどこにいるでしょうか?

 P: 奇妙にも、それはまたあらゆることから手を上げることを意味します。

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 K: それはそうでないかもしれません。それはあなたが前もって考慮していない行為が起こるかもしれないということかもしれません。危機があるなら、そのときそれは起こるでしょう。

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